
誰かを“助けたい”と思っても持続可能でないと難しい
災害が起きた時、SNSを見ていると、たまにこんな意見を目にする。
「困っている人を助けたいなら、自分で働いて、そのお金を募金すればいい」
たしかに、それは一つの正論ではある。
困っている人は"助けられる"ことで救われる。
そして助ける側は、"誰かを助けたい"という気持ちを満たせる。
ある意味では、需要と供給が成立しているとも言える。
でも、それだと助ける側は気持ちを満たすことは出来ても、お金や時間、体力は消耗する一方だと思う。
じゃあ、もし"助けたい人"が減ったらどうなるのだろう。
誰も誰かを助けたいと思わなくなったら、困っている人は助からないのか。
それだと少し不安定な気がする。
結局のところ、助ける側も生活している。
時間も体力も有限だし、生活費もかかる。
感謝は嬉しい。
でも、感謝や信用でおなかは膨れない。
そう考えると、助かる側も、助けた側に何らかの形でコストを返していく必要があるのかもしれない。
これは、助けられる側からすれば降り掛かった不運にただコストを支払う格好に見えるので釈かも知れない。
しかし現実には、助ける側が対価を受け取れなければ、人助けを長く続けることは難しい。
善意だけでは、時間も体力も、お金も尽きてしまう。
だからこそ、人助けを制度設計し、反強制的にみんなで助ける社会保障の仕組みも出来た。
ただし、それも予算の限界がある。
そのような中で、支援が「続けられること」を重視し始めるほど、どうしても効率や採算、優先順位という考えが入り込んでくる。
「限られた資源で、誰を助けるべきか」
「どこに支援を回せば続けられるのか」
そうすると、いずれはお金を出せる人やお金を動かせる人と親しい人、助けたらお金になる制度がある人しか助からない世界になるのだろう。
「相互扶助」は、いつの間にか“助ける価値のある人を選ぶ”ようになっていくのかもしれない。