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朝になれば

    〈あらすじ〉
    朝、目覚めるたびに小夏は絶望する。鏡の中に映るのは、十六歳の自分ではなく、母の妹である涼子おばさんの姿だった。混乱する小夏の前に現れるのは、かつての自分によく似た顔を持つ少女。少女は小夏を宥め、母の夏子は静かにその朝を見届けている。
    養護施設で育った優子は、十二歳のとき潮田家に引き取られ、夏子の“娘”となった。欲しかった家族、そして愛情。けれど彼女に与えられたのは、誰かの代わりとして生きる役割だった。
    閉ざされた屋敷で、母と娘と偽物の娘が迎え続ける、終わらない朝の物語。

    約48,000字(読了目安:約70分)

    一


    いつものように、六時半の目覚ましが鳴った。
    アラームを止めた手が、重力に負けて枕に落ちる。
    朝の冷気を含んだ布が心地いい。火照った手のひらの熱を吸わせるように、ゆっくりとシーツを撫でた。

    身体を起こそうとすると、腰に鈍い痛みが走った。
    「昨日、何かしたっけ」と、ぼんやり考えながら身を捩るも、ずっしりと重い。
    いつもならアラームと同時に起き上がれるのに、ベッドから肩を剥がすのにも、ひどく力が必要だった。
    起き上がり、ベッドに腰を掛ける。首を回すと、骨が小さくパキパキと鳴った。
    頬にまとわりつく髪を指先で退ければ、毛先が乾燥してゴワゴワと絡まっていた。まるで、自分の髪ではないみたいだった。

    そこで思い出した。文化祭用に練習しているチアのせいだ。
    昨日の放課後、トップから捻りを加えて降りたとき、バランスを崩して床に尻餅をついたのだった。
    あのときの衝撃が、まだ残っているのだろう。身体中が、だるくて痛かった。
    昨晩は、あまりの疲労感に、家に帰ってきてからシャワーを浴びた記憶がない。どうやってパジャマに着替え、ベッドに入ったのかも曖昧だった。

    痛む腰を庇いながら、息を詰めてベッドから足を降ろす。
    床に体重をかけた瞬間、膝の関節の奥に重い違和感を感じた。
    ただの打撲にしては痛みの種類が違う気がして、急に不安になる。
    病院に行かないと駄目かもしれない。整形外科に行って、レントゲンで骨に異常がないか診てもらった方がいいかも。
    文化祭の本番が近いのに、もしヒビでも入っていたらどうしよう。
    寝惚け気味のまだ働かない頭では、そんな最悪の事態を想像してしまう。自分の口から、重いため息が漏れた。

    朝の透明な日差しがレースのカーテンを透かして、床に細やかな格子模様を描いている。
    その柄を踏まないように歩き、姿見の前を通り過ぎようとした。

    そのとき、横目に映った鏡の中の違和感に足が止まった。
    鏡に映っているのは私ではなく、そこにいたのは、母の妹である涼子おばさんだった。

    「え?」

    正面に向き直り、鏡に近寄った。
    私の記憶の中のおばさんより、もう少し歳を重ねているような気がする。けれど、ここまで母と似ている女性なんて、私は涼子おばさんしか知らない。

    「……え、なんで? 涼子おばさん?」

    鏡を見つめながら自分の頬に触れると、私の意思通り、鏡の中の“おばさん”も同じ動きをしている。
    顔にも、指先にも、現実の感触があった。私の指先に伝わってきたのは、水分がなくザラついた、他人の皮膚の冷たさ。
    目尻に刻まれた小さな皺、張りを失った髪の毛、そして横線の入った首元──それらを順に、確かめるように撫でていく。
    肌全体が土色にくすんでいて、頬の肉が少し垂れ下がっていた。口元の横には、十六歳の私にはない深いほうれい線が刻まれ、白目は濁り、目尻にはカラスの足跡のような皺が何本も走っている。

    「どうして……」

    震える指先が腕に差し掛かったとき、全身の肌が粟立った。
    触れた腕の内側は、まるで線路の枕木のように段々と連なるものがあり、長袖の上からでも、でこぼことした手触りがした。

    白いコットンの長袖を、肘の上までめくり上げた。
    そこには手首から肘にかけて、見たこともない何十本もの傷痕が並んでいた。
    完全に白く盛り上がって硬くなっている古い傷。それよりも新しく、まだ茶色く色素沈着している傷。そして、かさぶたが取れたばかりのような、赤紫色をした最近の傷。
    爪でその一つを強く押してみると、鈍い痛みが走った。

    短い悲鳴が漏れたと同時に、部屋の扉が静かに開いた。
    ドアノブを掴んでいる人物が視界に入った途端、あまりのことに、自分の呼吸が止まった。
    信じられなかった。そこに立っていたのは、私だった。毎日見慣れているはずの、十六歳の私の姿がそこにあったのだ。

    「小夏ちゃん、大丈夫だよ。落ち着いて」

    自分の顔をしたその人が、低い声で言った。

    「そんなはずない……」

    呟いたつもりだったのに、言葉が喉に引っかかって消えていった。
    パニックになっているのは私だけだった。目の前の私は、落ち着いた様子で真っ直ぐこちらを見ている。

    「……なんで、私? なんで……」

    自分の声だと思って発したひと言は、ひどく低く、掠れていた。
    目の前の少女は、困ったように眉を寄せ、ゆっくり頷いた。

    「びっくりだよね。私も今朝、鏡を見て叫んじゃった」

    その口調には聞き覚えがあった。抑揚が少なく、語尾が少し伸びる独特の癖。
    それは間違いなく、涼子おばさんの話し方だった。

    「そんな……嘘でしょ? 涼子おばさんなの?」

    「うん、私だよ。昨日の夜、家の前で会ったでしょ? 小夏ちゃんは部活帰りで、腰が痛いって笑っていたじゃない」

    「……そう、そうなんだけど。でも……」

    涼子おばさんが淡々と話す内容を聞くうちに、額の奥がじん、と重く痛みだした。
    言葉の意味は分かるのに、頭の中のパズルがどうしても噛み合わない。

    私はチアリーディング部のトップポジションで、文化祭の演技では一番高い場所から何度も宙返りをする。
    昨日の放課後、着地を失敗して床に激突した。そこまでは鮮明に覚えている。
    だけど、そのあと、おばさんと会った記憶がない。
    涼子おばさんと何を話したのか、いくら思い出そうとしても、真っ白な霧がかかったように何も出てこなかった。

    「別れ際に小夏ちゃん、明日も練習あって腰が死ぬって言ったのも覚えてない?」

    涼子おばさんの顔をしたその少女は、私の顔をじっと覗き込んできた。
    その目はどこか冷めていて、私の反応を観察しているようだった。

    「……えっと、言った気がする。言ったよね?」

    差し出された私の記憶に、すがるように頷くしかなかった。
    自分の記憶が、足元から崩れていくような感覚がする。
    私の様子がおかしかったのか、おばさんは心配そうに頷いた。
    なんだか、変だ。理由の分からない恐怖が背筋を這い上がり、私は自分の腕を強く摩った。

    「いたっ」

    ピリッとした鋭い痛みが走り、指先が止まる。
    見ると、爪の先がカサブタに引っ掛かり、めくれた薄茶色の欠片が剥がれ落ちていた。
    小さく凹んだ皮膚の底から、赤い血が染み出るように滲んでくる。

    おばさんに視線を向ける。
    責めるつもりはなかった。ただ、この腕の傷について何か知らないか確かめたかっただけだ。
    けれどおばさんは、一瞬だけ、私から露骨に視線を逸らした。
    明らかな拒絶感に胸がざわめき、背中に冷たい汗が伝う。

    ふと、以前に母から聞かされた言葉が頭をよぎった。
    『涼子は精神を病んでいるから、あまり近付かないで』

    近所に住む涼子おばさんは、母と顔立ちがよく似ていた。
    でも、母が言うほどおかしい人には思えなかった。
    挨拶をすれば優しく返してくれたし、普通に世間話もした。私がもっと幼い頃には、可愛い髪飾りやお人形をプレゼントしてくれたこともあった。
    あのときの穏やかな笑顔は、精神を病んでいる人のものにはとても見えなかった。

    でも、自分の腕の無惨な傷痕と、おばさんの一瞬の拒絶を見た今、ようやく私は理解した。
    母は誇張なんてしていなかったのだ。
    涼子おばさんは、本当に精神を病んでいる。
    そして、そのおばさんと私は、今朝なぜか中身が入れ替わってしまった。

    動揺を抑えようと部屋の中をせわしなく歩き回っていると、階下から珈琲の香りが漂ってきた。
    母が毎朝淹れてくれる珈琲の香りはいつも通りなのに、私たちのいる世界だけが狂ってしまった。

    「……ママに話さないと」

    私の言葉に、私の姿をしたおばさんが、少し困ったように苦笑した。

    「さっき、呼び鈴を鳴らしたときに怒られちゃって。小夏ちゃんの姿だったからね。今度は一緒に話しにいこう」

    おばさんはどこか懐かしむような声色で呟いた。

    「夏子お姉ちゃん、怒ると相変わらず怖いね」

    私は笑えなかった。
    母はきっと、私が黙って朝帰りを外からしてきたのだと勘違いしている。
    母を怒らせてしまったと思うと、胸の芯が冷たくなり、身体から空気が抜けていくような重たい息が漏れた。

    階段を軋ませながら、二人でリビングに向かう。
    一段降りるたびに、膝と腰にずしんと重い衝撃が響いた。
    これが、大人の肉体なのか。十六歳の私の感覚からは信じられないほど、関節が硬くて重かった。

    「ごめんね。私、運動不足だから」

    背後から、申し訳なさそうな若々しい声が届いた。

    リビングの扉をそっと開くと、珈琲の香りが一層濃くなった。
    母は奥のソファに腰を沈め、お気に入りのカップを口元に運ぶところだった。
    視界に私たちが並んで入ると、わずかに目を見開いた。

    「──涼子? いつ来たの?」

    母は、おばさんの身体をしている私に怪訝な目を向けながら、涼子の名前を呼んだ。
    やはり母の目にも、私は涼子おばさんに見えているのだ。
    返答に詰まる私の横で、私の姿をした涼子おばさんが一歩、前へ出た。

    「お姉ちゃん、涼子は私だよ。こっちは小夏ちゃん。意味がわからないと思うけれど、落ち着いて話を聞いてくれる?」

    母は一拍置き、ゆっくりとカップをソーサーに戻した。
    カチリ、と陶器がぶつかる硬い音がリビングに響く。

    「何を馬鹿なこと言っているの。小夏はそんなことより、黙って外出したことを謝りなさい」

    母に一喝された涼子おばさんは、きゅっと口をつぐんで黙ってしまった。
    ──美しい黒猫。それが、昔から変わらない母の印象だった。
    整った大きな瞳で威嚇するように睨まれると、それだけで全身がすくみ、恐怖が何倍にも増幅される。
    周囲からは「よく似た親娘」と言われてきたけれど、どうしてか、涼子おばさんの姿をした私の顔を見ても、そこまで似ているようには思えなかった。

    「……ママ、本当だよ。私が小夏。この前、パパの誕生日プレゼントはウォーキングマシンにしようかって相談したの、覚えてる?」

    「……どうして、それを涼子が知っているのよ」

    母は、私を冷たく睨みつけた。
    生まれてから一度も、母にこれほど強い嫌悪を向けられたことはなかった。あまりの冷たさに胸が潰れそうになり、思わず自分の両腕を背中側へ隠した。

    「だからママ、私が小夏だからだよ。結局、次の休みにデパートへネクタイを見に行こうって約束したでしょ。──信じてくれないの?」

    母は私をまっすぐに見据えたまま眉根を寄せ、ソファから無造作に立ち上がった。
    ルームシューズの底で床をゆっくり叩きながら、こちらへ歩み寄ってくる。その足音がリビングに重く響いた。

    「なんで……待って、本当なの? 本当に小夏なの? 二人で私をからかっているんじゃないわよね?」

    母は私と涼子おばさんを交互に見比べながら、額に掛かった長い黒髪を後ろへ掻き上げた。
    完璧な美しさを好む母がよくやる仕草だった。なのに、今日のその動きは乱暴で、どこか余裕がないように見えた。

    「そんなことしないよ。ママ、信じて」

    「……じゃあ、そっちは、涼子なの?」

    母は、私の姿をしたおばさんを見下ろし、恐る恐る問いかける。
    おばさんは母の視線を避けるように顔を伏せ、小さく頷いた。
    私の身体の、傷のない白い腕を、怯えたようにしきりに摩っている。
    母は胸元で固く腕を組みながら、しばらくその場に立ち尽くして考え込み──そして、長く深い息を吐き出した。

    「──そう、分かったわ。今日の学校は休みなさい。涼子も客間を使って。お互いにその姿じゃ……どうしようもないでしょう」

    もう一度乱暴に髪を掻き上げると、母は踵を返してキッチンへ向かった。

    「小夏、ひとまず着替えなさい。私の服を貸すから」

    「……うん。わかった」

    母は来客用のカップに新しく珈琲を注ぎ、「少し待ってて」と言いながら私の姿をした涼子おばさんに手渡した。
    涼子おばさんも私と同じように小柄なはずだ。
    けれど、鏡で見たおばさんの弛んだ身体に、細身の母のタイトな服が入るのだろうか。そんな現実的な疑問がふと頭をよぎった。

    「──小夏ちゃん」

    リビングを出ようと、冷たいドアノブに触れたとき、背後から名前を呼ばれた。
    振り向くと、“私”の顔をしたおばさんが、柔らかく笑っていた。

    「もう、大丈夫だからね」

    「……え? うん」

    私を安心させるための、優しい声色だった。
    けれどその響きには、どこか自分自身に言い聞かせるような硬さと、妙な義務感が混じっている気がした。

    その瞬間、キッチンにいる母の冷徹な視線が、ふっと涼子おばさんのほうへ向けられた。
    珈琲の熱い香りが漂うリビングの空気が、わずかに凍りついた。

    二


    「……ふう」

    重たい息が喉の奥から漏れ、私はソファに深く身体を預けた。
    “涼子”の姿をした小夏は、着替えのために二階の客間へ向かった。しばらくは戻ってこないだろう。──たとえ、彼女がこれから袖を通す服が、あらかじめ決められているとしても。

    目の前のローテーブルに置かれた珈琲から、うっすらと白い湯気が立ち上っている。その濃い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
    カップを持ち上げようとした手が、かすかに震えている。

    ──私は、涼子おばさんじゃない。
    そしてもちろん、小夏でもない。
    私の名前は、優子。児童養護施設で育った孤児だった。

    この潮田家へ連れてこられたのは、今から六年前のことだ。
    あの頃の私は、「家族」という言葉に異様なくらい執着していた。
    生後数か月のころから十二歳になるまで、私はずっと児童養護施設で生活していた。実の両親はまだ十代で、育児を放棄したらしい。当然ながら、実の母の顔も、その腕に抱かれた記憶も一切残っていない。
    それでも、私はまだ恵まれている方だった。施設で一緒に暮らしていた友達の中には、親から受けた激しい暴力で、片方の聴力を完全に失ってしまった子もいたからだ。

    けれどきっと、私も同じだったのだろう。
    まだ私がお腹の中にいた頃から、私は放っておかれていたのだと思う。
    私は赤ん坊のころから、同年代の子どもたちと比べて明らかに小さく、骨格そのものが華奢だった。
    そのせいか、施設へやってくる里親候補の大人たちは、私を見るたびに微かに眉をひそめ、そっと視線を逸らした。
    「身体が弱そう」「育てるのに手が掛かりそう」──言葉にされずとも、彼らの目にはそう書いてあった。誰も私を欲しがらなかった。
    誰でもよかった。誰かに必要とされたかった。私の名前を呼んで、ただ強く抱きしめてほしかった。──けれど十二年間、私は一度も誰からも選ばれなかった。

    六年前のあの日のことは、今でも昨日のことのように鮮明に思い出せる。
    長い冬の雪がようやく解けて、新しい緑が芽吹きはじめた、肌寒い春先のことだった。
    私は、養護施設の白井先生に連れられ、この潮田家の重厚な鉄門の前に立っていた。

    「大丈夫。とても良い方よ。お行儀良くね」

    先生は、緊張で全身を固くしている私に、柔らかい笑顔を向けた。
    その声はいつもより不自然に甘く、子ども心に奇妙な違和感を覚えた。でもあのときの私は、先生が私を安心させようと無理をしてくれているのだと、都合よく思い込もうとしていた。
    先生が門の横にあるインターホンのボタンを押すと、数秒の後、スピーカーから若い女性の声で「どうぞ」とだけ冷淡な返事が返ってきた。
    ガチャリ、と重苦しい金属音が響き、目の前の鉄門がゆっくりと内側へ開いた。

    鉄門をくぐると、突然目の前の世界が一変した。
    そこには人工的なほど音のない大きな庭園が広がり、左手には鬱蒼とした小さな森が、右手には古い蔵のような離れがそびえ立っている。
    そのさらに奥に、映画の中にしか存在しないと思っていた立派な洋館が、ただ静かに佇んでいた。

    ──本当に? こんな大きな家に住んでいる人が、私なんかを求めているの?
    胸が急激に熱くなり、喉がきゅっと詰まる。信じられない気持ちと期待で、頭の中がいっぱいだった。

    数分かけて広大なアプローチを歩き、ようやく玄関ポーチに辿り着くと、そこには見上げるような重厚な木製扉がそびえ立っていた。
    白井先生が、緊張した手つきで呼び鈴を鳴らす。
    しばらくして、重い両開き扉が低い軋み音を立てながら内側へ開き、まるで待っていたかのように、一人の女性が姿を現した。

    「潮田さん、こんにちは」

    先生が腰を低くして柔らかく会釈すると、女性も同じように、非の打ち所のない完璧な所作で微笑み返した。

    「こんにちは。わざわざ遠くからご足労いただき、ありがとうございます。──優子ちゃん、はじめまして。潮田夏子です」

    女性はまず先生に礼を述べ、それから私に視線を移した。
    潮田夏子──私の養母になる人は、驚くほど美しかった。
    大きな瞳に整った眉。すっと通った高い鼻筋、形の良い唇には落ち着いたベージュの紅が引かれている。
    華奢なのに背が高く、十二歳の私の目には、テレビの画面で見るどんな女優たちよりも気高く、綺麗な女性に見えた。

    その絶対的な美しさの圧に呑まれ、言葉が出ずに固まっていると、白井先生が小さく耳元で囁いた。

    「優子ちゃん、ご挨拶は」

    私は我に返って慌てて頭を下げ、たどたどしく自分の名前を名乗った。

    家の中へと上がると、さらに驚きで息が止まりそうになった。
    天井がはるか高くに見える、吹き抜けの玄関ホール。
    正面には緩やかな弧を描く、幅の広い木製階段。
    見たこともないほど大きなクリスタルのシャンデリアが、淡い陽差しを複雑に反射して、きらきらと細かく揺れている。

    案内されたリビングは、養護施設の全員が集まる広間よりもはるかに広かった。
    塵ひとつなく磨かれたカウンターキッチンには、大ぶりの真っ白い八重椿が飾られている。
    壁のいたるところには大小さまざまな写真が額装されて並び、まるで静謐な美術館の展示のようだった。

    「ふふ、大きい家よね。でもね、大きいだけなの。古い建物だから、すぐ不具合が出るのよ。冬は特にね」

    夏子さんは喉を鳴らして軽く笑い、私の前にカップを差し出した。

    「今年の冬も、凍えちゃったくらいだもの」

    淹れたての珈琲から、濃い湯気とともに強い香りが立ち上る。
    施設でたまにもらう缶コーヒーの甘ったるい匂いとはまったく違う、深くて、苦みを含んだ香りだった。

    「お砂糖とミルク、好きに使ってね。自分の家だと思って、遠慮しなくていいのよ」

    黒で統一されたシックな衣服の中で、夏子さんの指先にある艶やかな臙脂色のネイルだけが、毒々しいほど鮮やかに光っていた。
    その血のような赤が、幼かった私の目に、強烈な印象として焼きついた。

    「──あなたのママになれたら嬉しいわ。でもね、優子ちゃんの意思が一番大切よ」

    面談と称したお喋り会のような時間が過ぎ、そろそろお開きの時間が近づいた頃、白井先生が、私と夏子さんの気持ちを確かめるように問いかけた。
    その問いに対する夏子さんの言葉は、まるで本当の母親のような、温かくて優しい響きをまとっていた。

    彼女は、真っ直ぐに私の目を覗き込んでいた。
    リビングの椅子に腰掛けているだけなのに、まるでスポットライトを浴びて舞台の中央に立つ役者のように、美しく背筋を伸ばして私の返事を待っている。
    その姿から目を離すことができなかった。

    「あの……本当に、私でいいんですか?」

    絞り出した自分の声は、思っていたよりもずっと小さく、情けないほど震えていた。
    夏子さんは驚いたように一瞬だけ瞬きをし、それから聖母のように優しく微笑んだ。

    「どうして、そう思うの?」

    「……昔から、みんなより小さかったから……。施設に来る大人の人は、みんな、私のこと、病弱だと思ってまともに見てくれなかったから……」

    ずっと胸の奥に閉じ込めていた惨めな本音を言ってしまった瞬間、耳の裏までカッと熱くなった。
    恥ずかしいのか悔しいのか、自分でも感情の整理が追いつかない。
    夏子さんは、しばらく何も言わずに私をじっと見つめていた。
    その目は私を急かすことも、憐れんで否定することもなく、ただ私のすべてを静かに受け止めているようだった。

    「──私ね、昔、少女をモデルにして写真を撮っていたの。綺麗で可愛いものが大好きなのよ。だからね、小柄な女の子というのは、それだけで十分に美しいと思ってしまうの」

    その言葉に触れた瞬間、自分の胸の奥底で、頑なだった何かが大きな音を立てて揺れた。
    生まれてからの十二年間、誰かにそんな言葉をかけてもらったのは、これが初めてだった。
    呆然とする私を置いて、夏子さんは静かに言葉を続ける。

    「それに、娘の小夏も小柄だったけれど、高校の部活ではチアリーディングのトップをやっていたのよ。一番軽くて華奢だから、空高く飛ぶ役。小さいから病弱なんて、そんなのとんでもない誤解よね」

    そこまで一気に言うと、彼女はふっと長い睫毛を伏せて視線を落とした。

    「……でも十五年前、チアの練習中に起きた事故のせいで、あの子は寝たきりになってしまって」

    彼女の声が、少しだけ掠れた。
    私は夏子さんの美しい横顔を見つめたまま、息をすることさえ忘れて動けずにいた。

    「そのときに、私は写真もやめたわ。あの子は今も、ベッドの上で動けなくて、声も出すことができない。もちろん、今でも変わらず私の大切な娘よ。──でもね、これは私の身勝手な我儘なのだけれど」

    夏子さんは来客用のカップを置き、臙脂色のネイルが塗られた両手を胸の前で固く重ねた。
    言葉を探すように、ゆっくりと目を閉じる。

    「私はまだ、“母親”でいたかったの。娘を育てる時間が、ある日突然に奪われてしまったのが、たまらなく怖かった。だから、もしも神様がもう一度、私に娘を育てるチャンスをくれるのならって……そう思って、養子縁組を希望したのよ」

    私はソファに座ったまま、自然と背筋をピンと伸ばしていた。
    誰かが、価値のないはずのこんな私を、心の底から欲しいと言ってくれるなんて。そんなのはお伽話の中だけのことだと思っていたのに。
    気づけば、視界が滲み、熱い涙が一粒だけ膝の上にぽとりと落ちていた。

    「……私も──夏子さんのような、綺麗なお母さんが欲しい、です」

    一度声に出してしまったあとは、もう止められなかった。
    堰を切ったように、温かい涙が一気に溢れ出して視界を遮った。
    夏子さんは小さく息を呑み、それから私の膝の上で固く握られていた小さな拳を、その細い両手で優しく包み込んでくれた。

    「お互いの意思確認が取れましたので、本日から正式な手続きを進めましょう。特に大きな問題がなければ──二か月後には特別縁組が成立となります」

    白井先生がテーブルの上の書類をパタンと閉じ、事務的でありながらも、にっこりと満足そうに微笑む。
    夏子さんは本当に嬉しそうに、けれど丁寧な所作のまま、私の手を引き寄せた。

    「ありがとう、優子ちゃん。──これから、よろしくね」

    「……はい! 私の方こそ、本当に嬉しいです。よろしくお願いします」

    差し出された夏子さんの手のひらは、驚くほど滑らかで温かかった。私はその温もりを離さないように、精いっぱいの力でしっかりと握り返した。

    三


    ──「二か月後には」。本来の手続きなら、そうなるはずだった。
    だが、物事は不思議なくらい滑らかに進んだ。
    複雑なはずの手続きは異例の速度で完了し、あの面談の日からわずか二週間後、私はすでに潮田家の「家族」として、庭の右手にそびえる離れで暮らし始めていた。

    それまで通っていた公立中学校は転校扱いとなり、今は、夏子さんが勧めてくれた中高一貫の私立女子校に籍を置いている。
    とはいえ、私はまだ一度もその校舎に足を運んだことはない。
    転校と同時に「療養のための家庭学習」という扱いに切り替えられ、学校指定の教材と課題だけが、週に一度ポストに届けられる仕組みになっていたからだ。

    私の部屋となった離れは、奇妙な空間だった。
    広すぎず、狭すぎず、一人の人間が何不自由なく長く暮らせるように完璧に整えられている。
    柔らかい低反発のマットレスが敷かれたベッド、真新しい勉強机、小さな二人掛けのダイニングセット。壁には液晶テレビまで設置されていた。
    それから、寝具と同じくらい当たり前のように、部屋の隅に設置されていた洗面台とユニットタイプのシャワールーム。
    豪奢な母屋とは別世界のようだった。
    窓を開ければ庭の木々がさざめく音が聞こえるのに、窓を閉め切ると、部屋の内側は耳が痛くなるほど静かだった。

    食事は、決まった時間になると夏子さんが母屋からトレイに乗せて運んできてくれた。
    時折、夏子さんが私の向かいに座って一緒に食べる日もあったけれど、それ以外はまるで、誰にも邪魔されない一人暮らしのようだった。
    机の横の棚には新しい辞書や教科書が整然と並び、私が施設から持ち込んだ僅かな私服とは別に、クローゼットには私のサイズにぴったりな上質な服が、すでに何着も吊るされていた。

    ただ、その行き届いた空間の中で、ひとつだけ、どうしても気になるものがあった。
    クローゼットの天板の上に置かれた、年季の入った小振りな革製のトランク。
    埃を薄くかぶった、まったく同じ型のトランクが二つ、ペアのように奥に押し込まれていた。

    どうしても気になり、爪先立ちで背伸びをして、手前の一つを両手で引き下ろした。
    持ち上げた瞬間、中で硬くて軽いものがカラカラと転がる感触と、紙の束が崩れるような音が響いた。

    「……書類、かな」

    隙間から覗こうとしたが、中央の真鍮製の錠前にはしっかりと鍵が掛かっていて、開けることはできなかった。
    でも、この部屋で鍵らしきものは一度も見た覚えがない。机の引き出しにも、棚の隅にも、服のポケットにも。
    ──けれど、きっともう必要のない古い思い出の品だから、蔵のような外観のこの離れに仕舞い込んであるのだろう。
    私はそれ以上開けるのを諦め、つまらない好奇心を抑えて、クローゼットの上にトランクを元通りに戻した。

    二週間が経ち、徐々に離れでの暮らしにも身体が馴染んできた。
    そんなある日の夕方、換気のために窓を少し開けたとき、母屋の二階の窓辺に、一人の若い女性がじっと佇んでいるのが見えた。
    私より少し年上に見えたが、その顔立ちは不自然なほど整っていて、どこか作り物めいていた。
    驚いて目が合った──と思った次の瞬間、目の前で暗い色のカーテンが乱暴に閉じられ、その姿は一瞬で消え去ってしまった。

    平日は毎日、お手伝いさんの女性が母屋へ通ってきている。
    私がいる離れまで彼女が足を踏み入れることはないけれど、夏子さんが運んでくれる一日三度の食事は、そのお手伝いさんが作ってくれているのだと聞いていた。味付けが優しくて、とても美味しかった。
    だから今見たのもお手伝いさんかと思ったのだが、彼女はいつも昼過ぎには帰ってしまう。
    それに年齢も、養護施設の白井先生と同じくらいの中年の女性だった。

    夏子さんはかつてプロのフォトグラファーだったが、今は外からの依頼をほとんど受けていないらしい。
    けれど母屋の一室を専用のアトリエにして、今でも趣味の撮影を続けていると聞いた。
    夏子さんの夫──つまり私の養父になるはずだった人は、実の娘である小夏の事故から数年後に亡くなったそうだ。
    今はその遺産と、時折入る写真のロイヤリティで生活しているらしい。
    私がそのような家の事情を断片的にしか知らないのは、この離れに来てから、敷地の外へ一歩も出ていないからだ。

    離れから外へ出てはいけないと、夏子さんに直接命じられたわけではない。
    ただ、「外に出るときは、必ず私に声をかけてね。──迷子になったら大変だから」と、あの優しい声で柔らかく諭されただけだ。

    けれどその言葉は、まるで強力な呪いのように、私の意識をこの部屋の床に縫い付けていた。
    いつの間にか、離れの重い玄関ドアのノブに触れることさえ、自然と避けるようになっていた。
    義務教育の年齢なのに、学校にも行かず敷地内に閉じ込められている。
    客観的に見れば、これが普通の生活ではないことくらい分かっていた。
    しかし──「お金持ちの家というのは、世間の目を嫌ってこういうものなのかもしれない」と、都合の良い理由を見つけては、自分を無理やり納得させていた。

    私が潮田家の離れに住み始めてから二か月が経った。
    本来なら、その頃ようやく縁組が成立するはずだった。
    その日の夕方、いつものように夕食のトレイを手にした夏子さんが離れにやってきた。
    身にまとっている服や佇まいはいつも通り完璧だったけれど、その表情だけは、これまでに見たことがないほど暗く沈んでいた。

    食卓に料理を並べる夏子さんの手つきはどこかおぼつかなく、私と目が合うと、ぎこちなく微笑んだ。
    その歪な笑顔が、どうしてか私の胸に重りのように引っかかった。

    「……ママ、どうしたの?」

    思わず尋ねると、彼女は私から視線を逸らすように顔を伏せ、小さく弱々しい息を吐いた。

    「何でもないわ、大丈夫よ。ちょっと、仕事で疲れているだけ」

    否定する言葉とは裏腹に、その声は今にも消え入りそうなほど微かに震えていた。
    部屋の中に重苦しい沈黙が流れる。
    私の前でトレイを持ったまま立ち尽くしていた夏子さんは、しばらく沈黙が続いたあと、掠れた声でぽつりと呟いた。

    「……今日ね、あなたの写真を、昔からの仕事相手に見せたの。そうしたらね、夏子さんにはあまり似ていませんねって、笑われてしまって……少し、落ち込んでいるのよ」

    「……え?」

    「実の娘の小夏は、私に本当によくそっくりだったから……顔立ちも、骨格の細さも。だから、他人に驚かれて当たり前よね。あなたと私は、血が繋がっていないんだもの。本当の親子に見えないのは、当然のことなのにね」

    夏子さんの細い肩が、寂しげに小さく揺れた。
    完璧で、美しくて、私を掬い上げてくれたお母さんが、私のせいで傷ついている。
    その事実が、私の心を激しく締め付けた。
    拒絶される恐怖が、足元からせり上がってくる。

    「……もし、私がママに似ていたら、ママは嬉しい?」

    呟くように尋ねた瞬間、夏子さんは一瞬だけ綺麗に目を伏せて、それから弾かれたように私を真っ直ぐに見つめた。

    「嬉しいわ。──もちろん、そんなことがあったら、どれほど嬉しいか分からないわ。でも、それは無理なことでしょう?」

    自嘲気味にそう言って小さく笑った夏子さんの横顔は、相変わらず息を呑むほど綺麗で、同時に、手の届かない世界の果てにあるように遠く感じられた。
    目の前にいるこの綺麗な人の笑顔を、絶対に壊したくなかった。
    私を選んでくれたお母さんを、二度と悲しませたくない。
    ただ、それだけだった。

    「整形、とか、したら……ママに、似るかな」

    夏子さんの動きが完全に止まった。
    俯く私をじっと見つめる彼女の視線に、驚きと、申し訳なさと、そしてほんの僅かに、喜びの感情が混ざり合っていくのが見えた。

    「……何を言っているの、優子」

    私をたしなめる口調は、いつもより少し低く、強い声だった。
    怒られたのかもしれない。けれど、私はもう止まれなかった。
    本当の家族になるためなら、私は、私の持てるすべてを差し出すつもりだった。

    「ママみたいに綺麗になりたい。……誰が見ても、本当の親子だって、そう思われたい」

    地面に吸い込まれるような数秒の静寂のあと、夏子さんはゆっくりと、深く息をひとつ吐き出した。

    「──そう。そこまであなたが望むのなら、私は止めないわ」

    返ってきたのは、これまでで一番、鼓動が止まるほど優しい声だった。
    その言葉を聞いた瞬間、私は全身の力が抜け、泣きそうになるほどの安堵感で満たされていた。

    そして、その数日後──私に覚悟を決める時間さえ与えられないまま、深夜、黒いワンボックス車でどこかの私設クリニックへと連れ出され、私の最初の整形手術が行われた。
    カウンセリングの場でも決して名前を名乗らなかった、あの冷徹な女医の顔だけは、今でも鮮明に思い出せる。
    彼女もまた、夏子さんと同じように、どこか浮世離れした美しさを持つ人だった。

    すべての手術を終え、麻酔から目を覚ましたとき、私はただ一つ、それだけを強く思った。
    もう二度と、死んでもこの痛みを経験したくない、と。

    ──痛い。尋常ではない痛みのせいで、身動き一つできない。顔全体が沸騰しているように熱く、信じられないほど重たい。
    ほんの少し擦れば、自分の顔の皮膚がずるりと剥がれ落ちてしまいそうで、触れることさえ恐怖だった。
    どれだけ指先でそっと撫でてみても、そこには肉の感覚が一切ない。
    まるで、他人の顔からはぎ取った分厚い仮面を、無理やり接着剤で貼り付けられているようだった。
    術後の輪郭を固定するフェイスガードの締め付けは凄まじく、ストローで飲み物を口に含むことすら、腹式呼吸でゆっくりと吸い上げるしかなかった。
    鼻からは息ができているはずなのに、呼吸は常に浅く、心に焦りだけが溜まっていく。

    そして、何より一番私を狂わせたのは、数日後に襲ってきた猛烈な痒みだった。
    傷口が塞がるにつれて、頭がおかしくなりそうなほどの痒みが波のように押し寄せ、何度も衝動のままに顔を掻きむしりそうになった。
    でも、掻くわけにはいかない。一度でも爪を立てれば、すべてが終わる。
    この地獄の痛みが全部無駄になって、私はまた「誰からも必要とされない優子」に戻ってしまう。
    だから私は、勉強机にあった鉛筆の先を皮膚に静かに押し当て、点を突くようにして痒みを紛らわせた。
    より鮮烈な痛みで、痒みを上書きするしかなかった。

    退院して離れに戻ってからは、夏子さんが毎日、朝と夜に丁寧に傷口を消毒してくれた。
    その手つきは驚くほど優しく、傷ついた雛鳥を労るかのようだった。

    「怖かったわよね……でも、大丈夫よ。ほら、もうこんなに綺麗」

    私の頬にそっと優しく手を添え、囁きながら笑った。
    だけど私は、部屋の洗面台にある鏡を、どうしても見ることができなかった。
    腫れ上がった顔が怖いからじゃない。痛々しい手術痕や、内出血のどす黒い色の変化を見たくないからでもない。
    そんな表面的なことよりも──鏡の中に、私の知っている“元の優子”がもうどこにも存在していないという事実を、突きつけられてしまうのが、たまらなく怖かったのだ。

    術後一か月が過ぎ、どうしても避けられなくなって視線を向けた鏡の中には──青や黄色の斑点状に変色し、腫れ上がり、痛々しい瘡蓋だらけになった「誰か」が立っていた。
    切り開かれた皮膚は不自然に突っ張り、引き攣り、無表情でさえ歪んで見える。

    これを選んだのは、私だ。
    誰に強制されたわけでもない。私が望んで、私がママのために決めたんだ。
    頭では、そう何度も自分に言い聞かせて理解していたはずだった。
    それでも、鏡の中から私の知っている「私」が完全に消え去ってしまった現実を突きつけられた瞬間──言葉にできないほどの深い後悔に、鋭く胸を抉り取られた。

    四


    術後三か月が経ち、鏡の中に映る「見知らぬ他人」の顔に、私の目がようやく慣れ始めたころのことだった。
    ある日の午前、夏子さんがノートパソコンと、ラベルのない一枚の真っ白なDVDを抱えて離れへやってきた。

    「体調はどう? 痛みはもう引いた?」

    毎日の儀式のように同じ問いかけをしながら、彼女は手際よくテーブルに朝食を並べていく。
    まだ顎を大きく開けることができない私のために、用意されたのは細かく刻まれた、噛まなくても飲み込めるような柔らかい食事だった。

    「うん、大丈夫。……それより、ママ、それは何?」

    夏子さんは私の問いには答えず、無言のままノートパソコンを開き、ドライブにディスクを挿入して再生キーを押した。
    そして、画面をゆっくりとこちらに向けた。

    「──この女性の仕草や、視線の動かし方、喋り方の癖を、すべて完璧に覚えてほしいの」

    「……え?」

    意味が全く掴めず、私は困惑して夏子さんの顔を見上げた。
    美しく整った彼女の顔には何の感情も浮かんでおらず、視線を私から逸らしたまま、ただ淡々と冷淡な声で告げた。

    「この人は、涼子。私の妹よ」

    その言葉が耳に届いた瞬間、離れの部屋の空気が氷結したように感じ、急に肌寒くなった。
    画面の中でぎこちなく動いている女性は、確かに夏子さんによく似ていた。
    だけど、夏子さんよりも明らかに老けて見える。
    目の下には酷く濁った濃い影があり、カメラに向かって笑っているはずなのに、その瞳の奥は一切笑っていない、不思議な表情だった。

    「……この人を、私が真似するの?」

    私がおずおずと尋ねると、夏子さんは唇をきつく噛み締めたまま、小さく深く頷いた。

    「そうよ。涼子の独特なイントネーションや話し方を、一言一句、完璧にあなたに覚えてほしいの」

    「どうして? 何のために……そんなことをするの?」

    必死に問いかけても、夏子さんから明確な答えは返ってこない。
    代わりに──彼女の美しい大きな瞳から、一粒の大きな涙が、ぽとりとテーブルの上に落ちた。

    「小夏のためよ。……お願い、優子。私には、あなたが必要なの。あなたじゃなきゃ駄目なのよ」

    絞り出された夏子さんの声は細く、弱々しく、何かに激しく追い詰められているようだった。
    でも、その身を削るような言葉は、私の胸の最も深い場所に真っ直ぐに突き刺さった。

    私が必要? 他でもない、この私が?
    喉の奥がカッと熱くなった。嬉しさと、あまりの苦しさに、胸が締め付けられて息がうまく吸えなかった。

    「……うん。わかった、ママ。私、やるよ」

    応えた瞬間、夏子さんは私を壊れ物を扱うようにきつく抱きしめ、愛おしそうに私の髪を何度も撫でた。

    「ありがとう、優子。本当に大好きよ」

    鼻腔をくすぐる、上品な甘い香水と珈琲の混じった匂い。
    私を包み込む温かい腕、耳元で響く柔らかい声。
    ──それは、あの春の日にこの家の門をくぐり、初めて夏子さんに触れられたときの歓喜の感覚と、とてもよく似ていた。

    翌日からは、それまで届いていた学校の教材を開く時間は目に見えて減り、代わりに、部屋のテレビの前での過酷な「演技指導」の時間がすべてを占めていった。

    「涼子は、人と話すときに相手の目をあまり見ないのよ。ほら、会話の途中で不自然に視線を逸らしてみて」

    「歩き方がまだ違うわ。もっと内股で、遠慮がちに小さく歩いて」

    「涼子はそんな風に声を立てて笑わない。ただ、口元だけで微かに微笑むだけよ」

    画面の中の涼子という女性の話し方、歩き方、姿勢、食事の際のフォークの持ち方、視線の動かし方──そのすべてを細かく、しつこいほどに、何度も何度も繰り返し身体に叩き込まされた。
    そうして狂気的な訓練の中で過ごすうちに、整形の傷で引き攣っていた私の新しい顔の表情も、いつしか不自然なほど滑らかに馴染んでいった。

    そして気づいたときには、私の日常から“優子”という少女の輪郭は、完全に消え去っていた。
    私の新しい顔も、身体に染み付いた癖も、歩き方も、発する声のトーンも──そのすべてが他人の記録で上書きされていく。
    まるで、この世に最初から“優子”なんていう子供は存在していなかったかのように。

    「優子、あなたに本当のことを話すわ。そこに座って」

    術後半年が経つ頃には、涼子としての仕草がすっかり身体に馴染んでいた。
    夏子さんからの突然すぎる硬い言葉に、私は思わず背筋をピンと伸ばした。
    彼女の声色はいつも通り優しかったけれど、今のその響きにはどこか、私に許しを乞うような、そんな異様な重みがあった。

    「……本当のこと?」

    「小夏のことよ」

    夏子さんはゆっくりと深く息を吸い、慎重に言葉を選ぶようにして続けた。

    「……あの子、本当は寝たきりなんかじゃないの。意識もはっきりしているし、身体だってちゃんと動かせるわ。でもね……事故で脳に損傷を負ったせいで、重い短期記憶障害が残ってしまっていて、一日分しか記憶を保てないのよ」

    床が足元から抜けていくような感覚に襲われ、胸の奥がすっと冷えていった。

    「──え? でも、最初はママ、あの子は声も出せないって……」

    「黙っていて本当にごめんなさい。でも、あなたを娘として迎えたかった私の気持ちは本物よ。決して嘘なんかじゃない。あなたのことが愛しい。その気持ちだけは、今も何一つ変わらないのよ」

    夏子さんの声は、今にも泣き出しそうなほど震えていた。
    そのまま、縋るように言葉を続ける。

    「だけどね……私にとっては、同じくらい小夏のことも大切なの。──あの子は毎日、目が覚めると十五年前の高校生だった頃のことを“昨日のこと”みたいに話し始めるのよ。どれだけ現実の年月が過ぎ去っても、あの子の世界では、あの事故はいつも“昨日”起きたことのままなの。だけど……部屋の鏡を見るたびに、自分が大人に変わり果てている姿を突きつけられて、パニックを起こして自分を傷つけてしまう。もう、母親の私には見ていられなかったのよ。だからね、優子」

    夏子さんは私の目を真っ直ぐに見つめ、臙脂色に整えられた爪が食い込むほど、私の両手を強く握りしめた。

    「あの子にね、『あなたは、涼子おばさんの身体と入れ替わってしまったのよ』って、そう信じ込ませてほしいの。鏡に映る年をとった自分の顔は、あなた自身の姿ではなくて、涼子の顔なんだって、そう思わせたいのよ」

    「入れ替わった、と……信じ込ませる? そんなこと、できるの?」

    「できるわ。あの子の記憶は一日しか持たない。朝起きて、夜眠るまでの間だけ信じ込ませればいい。……今まではね、私が一人でその嘘を言い聞かせてきたけれど、やっぱり私の言葉だけじゃ限界があって、失敗してあの子を激しく暴れさせてしまうことの方がずっと多かったの。だから、どうしてもあなたの存在が必要なのよ」

    夏子さんは必死に言葉を重ね、私の手をさらに強く握りしめた。

    「あなたが完璧な『涼子おばさん』の仕草で、小夏の顔をしてあの子の前に立ってくれれば、あの子は納得するわ。『ああ、私の顔はあそこにある。私は今、おばさんの身体の中にいるんだ』って、絶望しながらも暴れずに大人しくなってくれる。あの子のパニックを抑えるためには、どうしてもこの嘘が必要なの。あなたじゃなきゃ駄目なのよ」

    「……本当に、小夏ちゃんの記憶は一日だけなの?」

    「ええ。保っていられるのは、二十四時間ほど。それを過ぎて夜が明ければ……全部、きれいに消えてしまうのよ」

    凍りついたような長い沈黙のあと、私の唇が、自分の意思とは無関係に勝手に動いた。

    「……わかった。ママ。私が毎朝、『小夏の顔をした涼子おばさん』を完璧に演じれば、小夏ちゃんは混乱して暴れずに済むんだよね? それなら、私、喜んでやるよ」

    応えた瞬間、私の手に食い込んでいた夏子さんの細い指先が、冷たくなった私の両手を解きほぐすように柔らかく包み込んだ。

    「ありがとう……優子。あなたみたいな優しくて優秀な子が私の娘になってくれるなんて……私は、本当に世界一の幸せ者よ」

    その賛辞を耳にしたとき、私は心の底からの安心感に満たされていった。
    私は、夏子さんに“必要とされている”──その絶対的な承認の感覚が、とても心地良かった。

    五


    その奇妙なお芝居には、たったひとつだけ、絶対に破ってはならない鉄のルールが存在していた。
    それは──“季節が変わるたびに、小夏ちゃんに告げる設定の台詞も変える”ということ。

    事故が起こった冬の時期には、あの悲劇は「昨日のこと」。
    それが春になると「先月のこと」に変わり、夏を迎えるころには「事故の後、数か月間も意識がなくて入院していたのよ」という設定になる。
    ほんの小さな言葉の不整合に思えるけれど、小夏ちゃんは肌に触れる外気や、窓の外の景色の違和感にだけは異常なほど敏感らしい。
    もしも時期を誤れば、彼女は世界の違和感に気づいて激しく混乱し、暴れ出す可能性があるのだという。
    夏子さんは何度も、何度も、念を押すようにその台詞のタイムラインを私に叩き込んだ。

    夏子さんのあの告白から、二か月が経った。
    私は『涼子』としての完璧な立ち居振る舞い、毎朝の会話のパターン、そして想定されるすべてのルーティンを、渡された台本通りにすべて覚えた。

    自分を消して他人を演じることは、不思議と何の苦痛でもなかった。
    むしろ、私が完璧に演じるたびに夏子さんが嬉しそうに微笑んでくれる、その笑顔を見るだけで「私には生きる役割がある」と心の底から誇らしく思えたからだ。

    そうして、あの寂しかった離れに住んでから一年が過ぎたころ──私はついに潮田家の本当の“娘”として、母屋へ移り住むことになった。
    部屋の荷物をまとめたけれど、私の持ち物は施設を出たあのころから変わらず、驚くほど少ないままだった。
    持ってきた荷物を詰めたトランクは、四分の一がまだぽっかりと空いている。
    ──けれど、今の私はそれを惨めだとは全く思わなかった。
    その空白は、夏子さんに与えられた「小夏を救うための涼子おばさん」という、世界で私にしかできない役割によって、完璧に埋め尽くされていたのだから。

    夜も更けたころ、私は夏子さんに連れられて、重厚な母屋の玄関のドアをくぐった。
    空気圧でふっと冷たい風が建物の中へと流れ込み、外から舞い込んだ一枚の枯れ葉が、磨き抜かれた大理石の床をカサカサと音を立てて転がっていく。

    一年前、初めてこの敷地に足を踏み入れた日のことを、私は鮮明に思い出していた。
    あのときは、誰かに選ばれたことへの震えるような嬉しさと、「もしも気に入られずに拒絶されたらどうしよう」という底なしの不安を、小さな胸いっぱいに抱えて同じ場所に立っていた。
    けれど今、十三歳になった私の胸に横たわっているのは──あのころとは全く違う種類の、暗く強固な覚悟の重さだった。

    「あなたの部屋は、階段を上がって右の突き当たり奥よ。案内するわ。……階段の左側には小夏の部屋があるから、用がない限りは絶対にそっちへは近づかないでね」

    重厚な階段を上がり、案内された部屋の木彫りの扉を開ける。
    あの簡素だった離れとはまるで違い、そこは深みのある茶色を基調とした、酷く落ち着いた空間だった。
    艶のある木目の勉強机と、重厚な革張りのソファ、そして天蓋のついた大きなベッドが揃っている。
    子ども部屋というよりは──まるで、完成された大人の女性のための私室、そんな印象だった。

    「優子、あなたの写真を撮りたいの。一階のアトリエに来てもらえる?」

    「……うん。わかった」

    最小限の荷物をベッドの脇に置き、夏子さんの後ろについて一階のアトリエへと向かう。
    彼女は鍵束から細い銀色の一本を抜き取って、アトリエの重たい防音扉を開いた。

    真っ白な部屋だった。そこは、見つめているだけで息が詰まるほど、不自然なまでに整えられていた。
    白いバックスクリーンの手前には、雪のように白い毛皮の敷物。
    その周囲を囲むように、くすんだピンク色のドライフラワーが床を埋め尽くし、中央には革張りのアンティークの椅子がぽつんと配置されている。
    大小さまざまな何台ものカメラは、生き物の血管のような何本もの黒いコードに繋がれ、三脚の上に乗って整然と並べられていた。

    壁の一面には、リビングに飾られていたような、美しい少女たちの写真がいくつも額縁に収められ、こちらに向かって虚ろに微笑んでいる。
    鼻を動かすと、部屋の奥から微かにツンとした酸っぱいような匂いが漂ってきた。

    「ふふ、現像液の匂いよ。優子、そこの椅子に座って」

    促されるままに、私は中央のアンティークの革椅子に腰を下ろした。
    衣服越しにも伝わってくる革の冷たさに、背筋が自然と伸びる。
    バチッ、と大きな音を立てて照明の強い光が灯り、私の視界が真っ白に滲んだ。
    その光の向こう側で、夏子さんは大きなカメラのレンズを覗き込んだまま、私に向かって小さく手を振っている。

    「優子。こっちを見て、もっと自然に微笑んで。……そう、上手よ。そのまま動かないで」

    パシャリ、と重苦しいシャッター音が静かな室内に響くたび、レンズの向こう側にある夏子さんの声に熱が帯びていくのが分かった。

    「……あなたは本当に綺麗。完璧よ。ちょっと別のカメラに替えるから、少し待っててね」

    機材を調整する夏子さんの背中を見ながら、私は何気なく、壁にずらりと並んだ銀色の額縁に視線を移した。
    どの子も息を呑むほど綺麗で、丁寧に整えられていて──そして、どこか硝子細工のように作り物めいた笑顔を浮かべている。

    ぼんやりとそれらを眺めていた私は、ある数枚の写真の前で息を止めた。
    見覚えのある顔だった。見覚えがあるなんてレベルじゃない。
    そこに写っている少女たちは──今の鏡の中にいる私と、髪型や輪郭、パーツの配置まで、本当にほとんど見分けがつかないほど、同じ顔をしていたのだ。

    この子が、十五年前の小夏ちゃんなのだろうか。
    確かに夏子さんにも、ビデオで見た涼子さんにも、どこか面影が繋がっている気がする。
    ただ、どうしてかは分からないけれど、何枚もある小夏ちゃんの写真には、それぞれ年代が違うような、妙な違和感のようなものを感じた。

    「すぐに現像するわね。本当に楽しみ。──優子。明日の朝から、いよいよ本番よ。よろしくお願いね」

    別のカメラを三脚に固定した夏子さんは、ゆっくりと私に近づき、私の髪を慈しむように何度も撫でた。
    その指先は優しく、温かいはずなのに──なぜか私の首筋には、息が詰まるほど、もう二度とこの家から逃げられない強固な力が絡みついているように感じられた。

    朝の五時。枕元の無機質な目覚まし時計の音を止めた。
    実際には、まともに眠れたわけではなかった。
    離れから母屋の部屋に移った最初の夜だったせいか、私はただ暗闇の中でじっと目を閉じて、時間の経過を待っていただけだった。

    仰向けになったまま、肺の形が変わるほど大きく深呼吸をする。
    ちゃんと上手くできるだろうか。
    もしも失敗したら、小夏ちゃんが現実の矛盾に気づいて暴れ出したら、私はどうなってしまうのだろう。

    私はベッドからソファへと移動し、膝の上に広げたラミネート加工済みの「パターン表」を、薄明かりの中で今一度読み返した。
    想定される小夏ちゃんのあらゆる反応と、それに対する私の台詞の返し──そのすべてが、夏子さんによって完璧にプログラミングされている。
    大丈夫。やることは難しくない。
    自分は涼子おばさんなんだと、あの子に信じ込ませればいいだけだ。

    六時二十分。
    意を決して部屋のドアを開けようとした瞬間、誰かが廊下の階段をゆっくりと上がってくる足音が聞こえた。

    「……ママ、どうしたの?」

    「おはよう、優子。今日だけは、最初の様子を少し後ろから見守らせてね」

    私の強張った表情に気づいたのか、夏子さんはいつも通り穏やかに微笑んだ。

    「もしもあの子が予想以上に暴れたら、あなたの身が危ないでしょう? 最初の会話が問題なく成立すれば、私はすぐにリビングへ戻るわ。あなたは何も気にせず、予定通りに動いて大丈夫よ」

    「……うん、わかった」

    小夏ちゃんの部屋の前でしばらく待ち、六時三十分。
    寝室から鳴り響いていたアラームが沈黙した、その数秒後だった。
    布団が跳ね除けられる衣擦れの音がして、すぐに異変が始まった。

    「──え? なに……? なんで? おばさん?」

    ドア越しに聞こえてくるその声は、恐怖のあまり酷くガタガタと震えている。
    混乱に満ちた小夏ちゃんの声は、動画で何度も聞いた涼子おばさんのものとよく似ていた。

    「ね、ああなるのよ。鏡を見るたび、自分を“涼子”だと錯覚するの」

    隣に立つ夏子さんは、娘の悲鳴をまるで今日のお天気の実況でもするかのように、抑揚のない冷淡な声で言った。
    小夏ちゃんが泣くか、あるいは叫び声をあげたら──そこが、私が舞台へ飛び出す合図だ。
    「なんで、どうして」と錯乱した声を繰り返していた小夏ちゃんが、一拍、不自然に静まり返る。

    「いや……! なに、この傷!? やだ、やだ!」

    限界まで息を呑んだ小夏ちゃんが、鼓膜を突き刺すような叫び声をあげた瞬間、夏子さんの冷たい手のひらが、私の背中にそっと添えられた。

    「──行って。優子」

    「……うん」

    私は小夏ちゃんの部屋の真鍮のドアノブに手を掛けた。
    心臓の音がうるさい。限界まで大きく冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐ききって、扉を押し開けた。

    視界の先にいたのは、まるで幼い子供のように頭をきつく抱え込み、床にうずくまっている“涼子おばさん”の姿をした、一人の女性だった。
    肩につきそうなほど艶を失ったボサボサの髪。
    小さく丸まってしゃがんでいるせいで、身体は実年齢よりもずっと幼く、頼りなく見える。
    自身の頭を狂ったように掻きむしっているその女性の指先を見ると、彼女の爪は、周囲を傷つけないための配慮なのか──あるいは抵抗する武器を奪うためなのか、深爪になるほど異様に短く、丸く切り揃えられていた。

    六


    小夏と初めて顔を合わせたあの日から、もうじき五年が経とうとしていた。
    あの日以来、私は毎朝毎朝、ラミネートされたパターン表の通りに小夏の反応を見極めながら、寸分狂わぬ“決められた朝のルーティン”を演じ続けている。

    最初の頃は、それを小夏のための優しさだと思っていた。
    彼女を少しでも傷つけないために、夏子さんが考え抜いた手順なのだと信じていた。
    けれど、同じ朝を何百回、何千回と繰り返すうちに、私はときどき考えるようになった。

    どうして、このルーティンは、こんなにも正確なのだろう。
    どうして、小夏がどこで泣き、どこで暴れ、どの言葉で少しだけ静かになるのかまで、最初から分かっているのだろう。

    そんな疑問が、胸の奥で澱のように溜まっていく。
    何一つ変わり映えのない、同じ毎日をカレンダーの通りに繰り返すだけの日々。けれど、年を取らないはずのその箱庭の中で、私の心境だけは、確実に変化していっていた。

    ──私は一体、誰なのだろう。
    私はこのまま、死ぬまで他人の身代わりとして生きていくのだろうか。
    鏡の前に立てば、そこに映るのは十五年前の小夏の顔。身体に染み付いた一挙手一投足は、涼子の仕草。
    役を終えた深夜の私の姿には、擦り切れるほど演じた役の癖がべっとりとこびりついていて、そこには「優子」という名前を持った一人の人間の名残なんて、爪の先ほども存在していなかった。

    私の心の中で、その疑問が明確な形となって現れたのは、今から数か月前のことだった。
    その夜、嘘の綻びに触れて激しく泣き叫んでいた小夏が、ようやく力尽きるようにして眠りについた。
    私は静まり返った暗い寝室で、謝りながら、彼女が暴れた際に切り裂いてしまった左手首の傷を消毒し、白い包帯を巻いていた。

    夏子さんの言う通り、小夏の記憶が自発的に戻ることは決してない。
    それでも時折、彼女は自分の世界を取り囲む空気の微かな違和感を察知して、猛烈な拒絶反応を起こす。
    そのたびに現実に絶望して混乱し、暴れ、自分の身体を爪や刃物で傷つけた。
    そして──私はいつからか、そのパニックのきっかけを、自らの手で意図的に作り出すようになってしまっていた。

    たとえば、台本にはない、わざと季節のタイムラインと矛盾した言葉をぽつりと投げかけてみたり。
    偽りの現実に穴を開けるような、決定的なヒントを会話の中に混ぜ込んでみたり。
    ほんの少しだけ、小夏の世界を壊すような意地悪をする。
    必要とされたいという思いと、すべてをめちゃくちゃに破壊したいという醜い感情が絡み合い、私のその悪意のせいで、小夏の白い腕には徐々に新しい傷跡が増えていった。

    「……本当に、ごめんなさい」

    余ったコットンで、眠る小夏の頬についた涙の跡をそっと拭う。
    またやってしまった。小夏が悪いわけではないのに。
    私はシーツの擦れるベッドの傍らに冷たく座り込み、きつく膝を抱え込んだ。
    押し寄せてくる真っ黒な罪悪感は、いつも、すべてが終わってから手遅れのように私の胸を刺すのだった。

    突然、一階玄関の重厚な扉が開く音が、静まり返った館内に響き渡った。
    時計の針は、すでに真夜中の十二時をとうに過ぎている。
    夏子さんが出かけていた記憶はないし、もしも泥棒ならわざわざ正面玄関から堂々と入るわけがない。
    頭ではそう理屈をこねて自分を落ち着かせようとするのに、胸の奥から湧き上がる不吉な胸騒ぎだけは、どうしても消えてくれなかった。

    眠っている小夏の部屋の扉を音を立てずにきちんと閉め、私は息を極限まで潜めながら、暗い廊下を通って階段の踊り場へと向かった。
    二階から見下ろした一階の玄関ホールは、すべての照明が落とされていたけれど、人感センサーのライトだけが、来訪者を白く照らし出していた。
    かなり距離があるはずなのに、そこから漂ってくる香水の匂いが、私の鼻腔を鋭く刺した。
    甘ったるく、それでいて刺激が強く、どこか安っぽい──夏子さんが好まないタイプの香りだった。

    「──あら、随分と素敵な指輪ね」

    闇の向こうから夏子さんの声が聞こえた瞬間、私の足はすくんだように完全に凍りついた。
    上品で、冷たい、刺すような棘を含んだ声色。
    私を叱るときのものではない、あれは──彼女が呆れ果てているときの声だ。

    「ようやく手に入ったのよ。こんな石ころが七桁もするんだもの。本当に、すごい世の中よねえ」

    それに続いた、喉を鳴らすような笑い声を耳にした瞬間、自分の息が詰まるのを感じた。
    その声を──私は、よく知っている。
    私がいた養護施設の責任者であり、施設のみんなの母親のような存在だった白井先生の声に似ていた。

    だけど、違う。私の知っている先生とは、あまりにも全体の雰囲気が違いすぎていた。
    施設での普段の先生は、体型を隠すようなだぼついたチュニックに、色褪せたチノパン。
    よそ行きの日であっても、いつの時代か分からない古いツイードのスーツを着ているような人だった。
    規律に厳しく、だけど誰よりも優しかった、あの白井先生。

    だから──今、夏子さんの前に立っている女は、完全に白井先生とは別人に見えた。
    太めの体型を隠すどころか、むしろ自信満々に強調するような、派手なタイトワンピース。
    そして、大理石の床に音を立てる、鋭いピンヒールを履きこなしていた。

    「今日は小夏が安定しないのよ。申し訳ないけれど、もう少し静かにしてくださる?」

    「また気づいたの? ねえ、もしかしたら、このまま少しずつ記憶が戻るんじゃないの?」

    「……今さら、戻ったところで何になるのよ」

    吐き捨てるような夏子さんの冷淡な声に、私はゾッとするような寒気を覚え、足元から全身の血液が凍りついていくようだった。
    二人はそのままリビングへと歩いていき、重いガラスの扉が開いて、閉まる音が静かに響いた。

    私はスリッパを脱ぎ捨て、裸足になって完全に足音を消した。
    違う人でありますように。私の知っている白井先生なんかじゃなく、どうか、全く知らない誰かでありますように……。

    祈るように心の中で同じ言葉を何度も繰り返しながら、一段、また一段と階段を降りていく。
    誰もいないホールまで辿り着き、私はリビングの扉へとそっと近付いた。
    右手の指を小さく輪にして耳に当て、木彫りの扉にぴったりと押し当てると、密閉された室内からは、カラン、とワイングラスが擦れ合う微かな音が響いた。
    空間が広いせいか、二人の声が反響して、思ったよりも鮮明に私の耳へと届いてくる。

    「──東北の施設で、条件の合う少女を見つけました。こちらが、その子の資料です」

    「ありがとう」

    紙の束をめくる乾いた音が、静かな空間に響く。
    そして、女性の口調がビジネスライクな敬語へと切り替わった瞬間──私の全身の毛が恐怖で逆立った。
    間違いない。あの声は、あの独特の落ち着いた話し方は、私を育ててくれた白井先生だ。

    「……十一歳。体格も小柄で、ほぼ理想通りね」

    「はい。顔立ちは、まあ……時間を掛ければ調整可能ですので」

    「ええ、そうね。面会の準備をお願いするわ」

    「承知しました。日程が決まり次第、改めてご連絡いたします」

    淡々と事務的に進む、あまりにも短い会話だった。
    私には、そこで何が決まったのか、何の面会が行われようとしているのか、その正確な意味までは分からなかった。
    ただ──私が白井先生に連れられてこの家にやってきたあの日と、全く同じ歯車がどこかで回っているような気がして、内臓が雑巾を絞るようにぎゅっと縮み上がっていた。

    「──それで、優子はどこへ行かせるの?」

    トントン、とテーブルの上で、紙の書類を叩いて整頓している音がする。
    夏子さんにそう尋ねる白井先生の声色は、ほんの少しだけ、罪悪感からなのか細かく揺れていた。

    「気になるのね。そのパライバに換えたのに?」

    母の声は変わらず淡々としていて、残酷なほど美しく透き通っていた。
    白井先生は、ばつが悪そうに口ごもりながら、小さな声で呟く。

    「……私の施設の子ですから。多少は、ね」

    「安心して。安全な場所よ。あなたには関係のないところ」

    夏子さんの言葉に、私の視界がぐにゃりと大きく揺れた。
    脳が激しく混乱して、割れるように頭が痛い。
    待って。どういう意味? 私、この家を追い出されるの? 安全な場所って、どこ?

    「優子は、『前の小夏』よりずっと頭が良いけれど……でも、身体の成長だけはどうしようもないわ。あと二年が限界ね」

    夏子さんの口から当たり前のように吐き出された、血の通わない言葉が、私の胸の真ん中に深く突き刺さった。
    その言葉を最後に、私の両脚は恐怖の拒絶反応を起こし、勝手に二階の自分の部屋へ向かって廊下を走り出していた。
    きっと、あのまま最後まで隠れて情報を集めた方が良かったのだと思う。
    だけど──もう、これ以上あの会話を聞き続けることなんて、どうしてもできなかった。

    ベッドの上で、分厚い毛布に全身をきつく包み込んでも、安心感はどこにもなかった。
    歯の根が合わないほどの寒気が、体の芯からずっと止まらない。

    白井先生は、私に新しい居場所を作ってくれたわけじゃなかったんだ。
    施設にいる身寄りのない子どもたちにとって、そして他の一切の里親から選ばれなかった私にとって、誰よりも正しい「優しいお母さん」だと信じ込んでいたあの人が。

    ──「前の小夏」「あと二年が限界」
    夏子さんが吐き捨てたあの言葉が、暗闇のなかで頭の中をぐるぐると呪いのように回り続ける。

    もしかしたら、じゃあ、東北から新しく次の十一歳の子がこの家にやってきたら……私はどうなるの?
    用済みになった私は、名前すら呼んでもらえないただの『前の小夏』として、どこかへ消されてしまうのだろうか。

    「……絶対にいやだ」

    暗闇のなか、毛布の端を握りしめながら、初めて、自分の内側から湧き上がる明確な意志でそう思った。
    「前の小夏」になんかなりたくない。
    名前も顔も、最後の居場所まで奪われて、どこかへ消されるなんて絶対にいやだ。
    選ばれるために必死だった私が、この家に来て初めて、心の一番深いところで強く願った。

    ──夏子さんから、逃げたい。

    七


    白井先生の、あの強欲な蛇のような本性を知ってしまった夜から、私は毎朝の決められたルーティンを終えると、夏子さんの目に留まらないように細心の注意を払いながら、血眼になって家中を探し回るようになった。
    盗み聞きしてしまった、あの会話──「前の小夏」。
    その単語が、どうしようもないほど脳裏にこびりついて離れなかったからだ。

    今日は、夏子さんが一日中アトリエに籠って現像作業をすると言っていた。絶好の機会だった。
    私は今まで一度も足を踏み入れたことのない、夏子さんの自室のすぐ隣にある、物置部屋のドアノブへと手をかけた。

    扉を押し開けると、冷たく埃っぽい空気がツンと鼻をついた。
    締め切られた部屋の中は薄暗く、遮光カーテンの隙間から、わずかな光の筋が差し込んでいるだけだった。
    その光のなかに、部屋を埋め尽くす夥しい数の箱が浮かび上がる。

    壁際の段ボールには、小夏が使っていたのだろう、色褪せたチアリーディングのポンポンやユニフォームが溢れていた。
    その足元には、何十冊もの古いアルバムや、撮影用なのか、少女用の衣服や靴が段ボールの山となって詰め込まれている。
    この部屋だけ、時間が止まってしまっているようだった。

    奥へ進むたび、床の古い木板が小さく軋む。
    私は夏子さんの気配に怯えながらも、部屋の最奥にある、重苦しいスチール製の棚の前で足を止めた。
    埃を被った棚の天板に、周りに散らばる段ボールとは明らかに違う雰囲気の、古びた木箱がぽつんと置かれている。
    木箱の蓋をそっと押し開けると、中には何冊もの透明なクリアファイルに、丁寧に仕分けされた大量の書類がぎっしりと詰め込まれていた。

    震える手でそれを引っ張り出す。
    一枚目は、あの思い出したくもない整形手術の同意書。
    私を「小夏」の顔へと作り変えた、あの冷酷な女医の直筆の署名。
    二枚目は、私の中学校の転校届の控え。
    三枚目は、児童養護施設との特別養子縁組の契約書──そこには案の定、白井先生の歪みのない署名がしっかりと黒インクで残されていた。

    だが、恐怖はそこでは終わらなかった。
    ファイルのさらに奥から、同じ私設クリニックのロゴが入った、全く同じ様式の同意書が数枚重ねられて出てきたのだ。

    『潮田奈々子』
    『潮田めぐみ』

    恐る恐る、書類をめくっていく。そのたびに、指先がガタガタと震えた。
    添付されていたのは、少女たちの整形前と、整形後の顔写真──その“後”の写真に写っている少女たちは、すべて、今の私と全く同じ顔──十五年前の、小夏の顔だった。

    二人もいたんだ。
    私の前に、すり潰されて消えていった「前の小夏」が、私のほかに二人も存在していたのだ。

    どうして、あの毎朝のルーティンがあそこまで完璧に整えられているのか。
    季節ごとのタイムラインの言葉選びから、小夏が違和感を覚えたときの具体的な落ち着かせる手順まで、なぜ細かく決められていたのか。

    ──その本当の理由が、ようやく分かった。
    私と同じように『涼子おばさん役を演じる、小夏の顔をした女の子』が、私の前に存在していたからだ。
    あの完璧なパターン表は、彼女たちが何度も作られた嘘を破綻させ、そのたびに小夏がパニックに陥り、そのたびに夏子さんが修正を重ねて作り上げた、歴代の少女たちの失敗の歴史だったんだ。

    不意に、六年前の記憶が脳裏に蘇る。
    離れの窓から見上げた母屋の二階に、カーテンの隙間から、こちらをじっと見下ろしていた若い女の人。
    あのとき私は、あれが誰なのか分からなかった。
    小夏にしてはどこか違う。けれど、お手伝いさんにも見えなかった。
    遠くからでもわかるほど、人形のように整った容姿だった。

    ──もしかしたら、あの人は、「前の小夏」だったのかもしれない。
    私がこの家に来たとき、彼女はまだ母屋にいて、ルーティンをこなしていた。
    そして、私はきっと、彼女と交代するためにこの家へ連れて来られたのだ。

    襲いかかってきた決定的な絶望に、私はもう立っていられず、力なくその場へ座り込んだ。
    物置部屋の冷たい壁が背中に触れて、そこでやっと、自分が息を止めていたことに気づいて激しく呼吸を再開した。
    酸欠でぼやける視界のなかに、箱の底に残された、別の古い公的書類が飛び込んできた。
    私はそれを、震える手で拾い上げた。

    潮田家の戸籍謄本、そして──「遺産相続協議書」。
    そこに印字された文字が目に入った瞬間、私の心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いでどくんと跳ね上がった。

    『潮田小夏 相続分:二分の一』
    『法定代理人(親権者):潮田夏子』

    小夏が小夏であり続ける限り、その財産は小夏のものだった。
    そして、小夏が自分の名前も年齢も正しく抱えられない以上、その財産の隣には、母親である夏子さんが当然のように立ち続けることができる。

    ──すとん、とすべてのパズルが腹の底に落ちた。

    夏子さんにとっての「娘」とは、自分に似た美しい容姿を持つ最高の被写体であり、手の中から絶対に離してはいけない、莫大な『資産』そのものだったのだ。
    小夏が、高校生の姿のままで嘘に騙され続けなければならなかった本当の理由が──私が、私たちが小夏の顔でなければならなかった理由が、ようやく分かった。

    私は選ばれたのではなく、システムのパーツとして、ただ都合よく型に当てはめられただけだったんだ。
    理解した瞬間、酸っぱい胃液とともに激しい吐き気が喉まで込み上げてきた。

    眩暈に堪えながら木箱の中へ目を戻すと、底の方にまだ一冊の古びた冊子が残されているのに気づいた。
    震えて力の入らない手でそれを拾い上げ、埃を払って表紙の文字を読む。

    それは──何年も前の、夏子さんの日記帳だった。
    小夏が事故に遭って退院してからの、最初の約一年間の記録がびっしりと書き込まれていて、『今日は大人しく納得してくれた』や、『今日は失敗。嘘がバレて狂ったように泣いて暴れた』という短い一言とともに、当時の小夏の体調や生々しいパニックの様子が綴られていた。
    他にはDVDや、小夏の同級生からのメッセージカード、精緻なインストラクションメモ、精神科医の古い診断書……夏子さんがかつて必死に現実と戦っていた頃の、雑然とした「記録」が詰め込まれていた。

    その過去の記録をぼんやりと眺めているうちに、私の胸の真ん中にずっと深く刺さっていた、夏子さんへの疑問という棘がひとつ、静かに、音もなく抜けていった。

    ──夏子さんはきっと、最初は正しかったんだ。
    でも、途方もない毎日に、疲れ果ててしまった。
    それでいつしか、小夏に毎日本当のことを説明して傷つけるよりも、嘘の舞台で黙らせる方がずっと楽だと気づいてしまった。
    そうして彼女の中から純粋な愛情がすり減り、最後に「支配」と「所有」、そして遺産という目に見える形だけの執着が残り──あの“朝のルーティン”が完成したのかもしれない。

    私は夏子さんの日記を丁寧に箱へと戻し、蓋を閉めながら、小さく息を吐き出した。

    「……私がしようとしていることは、本当に、正しいのかな」

    物置部屋の、冷たい真鍮のドアノブにそっと手をかける。
    廊下へ出るほんの一瞬だけ、胸の奥に割り切れない迷いが残った。
    私はもう一度、暗がりの棚に置かれた小さな木箱へと目を向けた。
    ──いや、きっと、正しい。大丈夫。私は何も間違ってなんかいない。
    だって、そうじゃなければ、今度は私の心が完全に壊れてしまう。

    私は木箱から視線を外し、音を立てないよう静かに扉を閉めた。

    八


    「ボイラーが、また故障したみたい」

    一階廊下の最奥にある給湯室から、上質なカシミアの分厚い上着を羽織った夏子さんが、白い息を吐きながら出てきた。
    朝から屋敷全体に、まるで薄い霜が降りたかのような容赦のない冷たさが広がっていた。
    この館の冬はいつも冷え込むけれど、今日は骨の髄にまで冷えが刺さるような、異様な感覚がある。

    「前にも故障したことがあるの?」

    「十年くらい前に一度、大掛かりな修理をしたのよ。ボイラー自体はついているのに……今度は一体何なのかしら」

    夏子さんは苛立ちを隠そうともせず、顎へ細い手を添え、眉間に不機嫌そうな皺を寄せた。
    彼女の背後から給湯室を覗き込むと、その空間だけ、空気の密度が一段と冷たく凍りついているのが分かった。
    部屋の中央には、人間の背丈ほどもある古い大型のボイラーが鎮座している。
    金属の表面には赤茶けた錆が浮き出ていて、壁沿いには古い配管がまるで這い回る迷路のように複雑に入り組んでいた。
    その表面には、過去の古い傷跡のような錆が、帯状になって広がっている。

    「早く修理を頼まなくちゃ。家の中で凍え死んでしまうわ」

    夏子さんが深く溜息を吐きながら言った。
    夜中にはパイプの凍結を防ぐため、ボイラーが自動で点火されて館内を循環する機能があるらしい。
    覗き見るボイラーの奥で、青い炎は細く弱々しく揺れていて──機械そのものは確かに動いているはずなのに、なぜか家の中は冷たかった。

    そのとき、金属がじりじりと焼けるような、嫌な匂いが鼻の奥を鋭く刺した。
    焦げ付いた鉄と、湿った古い埃が混ざり合ったような、特有の匂い。息を吸い込んだだけで、喉の奥がざらつく。

    「……なんか、少し焦げ臭いね。これ、本当にこのまま動かしていて大丈夫なの?」

    夏子さんに声を掛けたけれど、返事は返ってこなかった。
    振り返ると、夏子さんは私の言葉など最初から興味がないようにすでにリビングへと戻り、受話器を耳に当てて業者に連絡を入れていた。

    ボイラーの故障から、二日が経った。
    暖房の調子は相変わらず不安定なままで、広い屋敷の中には、不自然に暖かい場所と、凍えるほど冷たい場所が、まるで目に見えない縞模様のように点在していた。
    昨日はとうとうお湯すら出なくなり、台所の鍋で何度も沸かした湯を洗面器に運び、冷えた身体を互いに拭いて済ませるしかなかった。

    凍えながら昼食を済ませ、小夏が日記を大切そうに抱えて自室へ帰ったあたりで、お手伝いさんが静かに帰宅していった。
    勝手口の締まる音を確認してから、私は一階へと階段を降りる。
    すると、奥の廊下の方から、聞き慣れない低い男性の声が響いてきた。
    一瞬、私の身体は条件反射で強張った。
    この家に誰か来客があるときは、私はいつも夏子さんから存在を隠すように行動を制限されてきたからだ。
    まずい、と思って階段の途中で固まったが──今日は事前に何も言われていなかったことを思い出し、そっと胸を撫で下ろした。

    「──ボイラー本体のシステム自体には、特に問題はなさそうですね。点火も正常に行われています」

    灰色の作業服を着た男性が、黒ずんだ軍手を外しながら、奥の給湯室から出てきた。

    「原因は、完全に配管側ですね。一部にかなりの腐食が見られます。床下まわりにも湿気が回っている可能性が高いですね。こういう古い設備は、一箇所がダメになると連鎖的に全体が悪くなることが多いんですよ」

    「そう。それで、今日中に直せるのかしら?」

    夏子さんの声色はいつも通り淡々としていたけれど、その奥には、スケジュールを乱されたことへの明らかな苛立ちが滲み出ていた。
    それを敏感に察した修理業者の男性は、申し訳なさそうに眉を下げると、困ったように首を横に振る。

    「すみません、奥様。今の時期は冬の暖房関連の緊急案件がどうしても集中していまして……。それに、この屋敷に使われている年代の配管は規格がかなり古いので、特殊な部品の取り寄せが必要になります。最短で手配しても……そうですね、四日後になってしまいます」

    その返事を聞いた夏子さんは、不満を隠さずに小さく溜息を吐いた。

    「そんなに時間が掛かるのね……」

    男性は、手元の手帳を確認しながら事務的に説明を続ける。

    「施工は四日後の午前中で調整させていただきます。それまでは旧配管のままで騙し騙し使っていただくことになりますので──念のため、ガス漏れや不完全燃焼の危険を避けるため、夜間の暖房器具の使用はできる限り控えてください」

    夜、暖房を控える──。
    私の耳が、その言葉の破片だけを、異常な鮮明さで拾い上げた。

    「それと、重大な事故を防ぐために、できる限りこまめに屋敷の換気をお願いします」

    「分かったわ。気をつけるようにするわね」

    夏子さんはそう言って、修理業者を玄関まで見送った。
    重い玄関の扉が完全に閉まると同時に、彼女は、心底面倒くさそうに短く不機嫌な息を吐き捨てた。
    ただ、夏子さんのその徹底して無関心な仕草とは裏腹に──私の胸の奥底は、静かに、そして確かに跳ね上がっていた。

    ──四日後。
    この家へやってきてから、私は初めて、自分自身の「未来」が、この手の中にしっかりと握られているような気がしていた。

    その日の夜、ハロゲンヒーターの赤い光だけをつけた極寒の寝室で、小夏が完全に眠りについたのを確かめてから、私はいつものように一階へ降りた。
    リビングの重い扉を開けた瞬間、もわっとした人工的な暖気が、私の冷え切った肌にまとわりついた。

    「──ママ、暖房をつけているの?」

    「こんな古い家、冬に暖房なしで過ごせるわけないじゃない」

    夏子さんは、赤ワインの入った大きなグラスをゆっくりと揺らしながら、当たり前のように言った。

    「……でも、お昼の工事の人は、夜間の使用は控えてって言ってたよ」

    「工事会社なんてね、何かあったときのクレーム対策のために大袈裟に言うものなのよ。今までだって換気しながらこうして使っていたんだから。大丈夫よ」

    夏子さんは私の忠告に呆れたように鼻を鳴らし、濃い色をした赤ワインを唇に運ぶ。

    「そうなんだ。じゃあ、大丈夫──」

    私が言い終わるよりも早く、静まり返ったリビングに大音量で電話のベルが鳴り響いた。

    「こんな夜更けに、一体誰かしら……」

    面倒そうに美しい眉をひそめながらも、彼女が受話器を取ると、その声色は一瞬で切り替わった。

    「はい、潮田でございます」

    他人行儀の、上品で優しい、ガラスのように透明な声だった。
    しかし、最初は丁寧な調子で相槌を打っていたのに、受話器の向こうの言葉を聞いた瞬間、夏子さんの声の温度が急激に下がった。

    「……え、四日後? その日はちょうど、家の配管工事が入っているのよ。日程をずらせないかしら」

    そのセリフを聞いた瞬間、私の胸の奥がきゅっと縮み上がった。
    ──電話の相手は、白井先生だ。
    業者の日程を気にしているということは、間違いない。
    東北のあの『新しい小夏』を、この家に連れてくる日程を話しているのだ。

    相手が受話器の向こうで何かを長く捲し立てている間、夏子さんは黙ったまま、視線を宙に投げたまま微動だにしなかった。

    「ええ、ありがとう。その日なら問題ないわ。──準備しておきます」

    感謝を淡々と伝える夏子さんの声からは、人間らしい感情が読み取れなかった。
    通話を終えると、彼女は受話器を静かに戻し、残った赤ワインのグラスを揺らしながら、足音もなくこちらに歩いてくる。
    そして──私の目の前で嘘みたいに優しい、聖母のような笑顔を浮かべると、私の髪を愛おしそうに撫でた。

    「優子、もう遅いから寝なさい。……今日も一日、本当によく頑張ってくれたわね。ありがとう」

    私の頭に触れるその手のひらは温かく、柔らかで──まるで、本物の母親が娘に注ぐ無償の愛情そのものだった。

    「……うん。おやすみなさい」

    二階の自室へ戻り、私はベッドの上に大の字になって倒れ込んだ。
    毛布の中は夏子さんの暖房のおかげで十分暖かいはずなのに、私の心の中だけは、ひんやりと冷え切っていた。

    ──もう、やるしかない。この家を壊そう。
    あの古い設備と、凍結防止の点火を利用すれば、きっと事故に見せかけられる。
    この屋敷ごとすべてが燃え落ちてなくなれば、何もかもが綺麗に終わる。

    そうすれば、私も、小夏も、夏子さんの作ったあの終わらない一日から解放されるんだ。
    この家がなくなれば、私は自由になれる。
    だから、これは罪なんかじゃない。
    私がここから生きて抜け出すための、たったひとつの救済だ。

    そう思った途端、それまでの激しい動揺が嘘みたいに、不思議なほど心が静かになっていった。
    今回の屋敷のボイラーの老朽化は、きっとただの偶然なんかじゃない。
    私をこの生き地獄から連れ出すために、神様が用意してくれた唯一の「出口」なのだ。

    もしこのタイミングを逃してしまったら、東北から「次の小夏」が来てしまったら、そのとき私は一体どうなってしまうのだろう。
    どこか知らない遠くへ行かされる? でも、そこは一体どこなの?

    ──「安心して。安全なところよ」

    暗闇の中、頭の奥で夏子さんのあの冷えきった透き通る声がよみがえり、私は耐えかねて瞼を強く閉じた。
    枕元の置き時計の秒針だけが、静まり返った部屋の中でやたらと大きく響いている。
    反対に私の心臓は、自分で怖いと思うほど、静かに一定のテンポで脈打っていた。

    時刻はすでに午前二時を過ぎている。
    そうだ、夏子さんが言っていた、夜間のパイプ凍結防止の自動点火は何時頃なのだろう。
    それこそが、私の計画の成否を握っている。
    ボイラーの炎が勝手に灯る正確な時間さえ掴めば、一気に現実味を帯びる。

    私はベッドから跳ね起き、クローゼットから最低限の防寒着を羽織った。
    下階の夏子さんに気付かれないよう、階段の軋みにも細心の注意を払って音を立てずに降り、廊下の奥の給湯室へと向かう。

    一歩足を踏み入れた瞬間、吐き出した息が白く濁った。
    自然と身体全体に力が入るほど、ひどく寒かった。
    私は冷え切った床に直接座り込み、部屋から持ってきた小さな目覚まし時計を膝の上に置く。
    凍えるような空気のせいで、剥き出しの耳がちぎれるように痛い。もっと厚手の、フード付きの服を選んでくるべきだったと今さら後悔した。
    私は両腕を上着の袖の奥まで引っ込め、それで両耳を覆うようにして、暗闇のなかでひたすらその瞬間を待った。

    そして──午前三時を少し回った頃だった。

    「……チッ、チッ……パチン」

    金属の小さな破裂音とともに、ボイラーの奥にぽっと炎が灯った。
    暗闇のなかに白々と映える、寒々しい青い炎。
    均整が取れていて綺麗だけれど、冷たい色だった。
    その炎の質感は、どことなく夏子さんと似ていた。

    朝のルーティンに遅れるわけにはいかない。
    起きられなくなったら全てが台無しだ。そろそろ部屋に戻ろう。
    しばらくその青白い炎を見つめてから、私は小さく息を吐き出した。

    しかし──三時ぴったりではなく、三時を数分過ぎてから点火した事実が、どうしても私の心に引っかかっていた。
    自動点火のタイマーは、毎日同じ時間に作動するとは限らないのかもしれない。気温のせいでズレるのか、それとも機械自体が狂っているのだろうか。

    私は目覚まし時計をポケットの奥にしまいながら、冷えた身体を起こして立ち上がった。
    明日の夜も、またここへ来よう。
    次はちゃんと、毛布を持って。

    数時間だけ泥のように眠り、また、いつも通りの偽りの朝が来た。
    そう思ったのに、この日の“日常”は、開始早々から音を立てて崩れ去った。

    鏡を見るところまでは、いつもと同じだった。
    夏子さんは、小夏が目覚めてすぐ異変に気づくように、寝室のよく見える位置に鏡を置いている。
    そこから悲鳴を上げ、私が駆け寄り、涼子おばさんとして彼女を落ち着かせる。何年も繰り返してきた、決められた朝の始まりだった。

    けれど、この日は違った。
    部屋のあまりの寒さのせいで、強張った身体の重さや、節々の痛みが、いつもより生々しく小夏を現実へ引き戻してしまったのかもしれない。
    あるいは、ほとんど眠れていなかった私の喋り方が、ほんの少しだけ涼子おばさんから外れていたのかもしれない。
    小夏はまるで、化け物でも見るかのような怯えた目で私を見上げていた。
    涙で濡れたその姿は、中身が十六歳の女子高生のままだった。
    パニックに陥った小夏をいつもの手順で落ち着かせるのには、予定の倍以上の時間がかかり、極度の寝不足だった私の頭は破裂してしまいそうだった。

    その日の夕方、少し落ち着いた小夏が、二階の「涼子おばさんに割り当てられた客間」のドアを静かに叩いて訪ねてきた。
    その腕には、当時流行っていたらしい短い制服のスカートを履いた女子高生たちが写る、どこか年代を感じるファッション雑誌を大切そうに抱えている。
    彼女にとっては、今日初めて目にする“新しい雑誌”だ。
    だけど私は、その色褪せた表紙を、この五年間でもう何度も何度も、嫌になるほど見ている。

    「ねえ、涼子おばさんにちょっと聞きたいんだけど……ママが昔から、本当に好きなものって何か知ってる?」

    小夏の口から出たその健気な言葉に、私の胸の奥が、針で刺されたように少しだけ痛んだ。

    「……何か、お姉ちゃんは、綺麗なものが好きだったと思うよ」

    私は頭を必死に切り替え、涼子の少し掠れた大人びた声色を作って優しく答えた。
    その言葉を聞いた小夏は少し考え込むように視線を落とし、不思議そうに首を傾げる。

    「うーん、そうだよね。だけど、洋服とかの好みはうるさいから……お花の方がいいかなって思うんだ」

    「うん、いいと思うよ。お姉ちゃんは昔から、椿の花が大好きだった」

    「──椿! たしかによく、リビングに飾ってあるね。じゃあ椿にする!」

    小夏の暗かった顔が、その瞬間ぱっと太陽みたいに明るくなる。
    ほんの数秒だけ、本当の十六歳の少女の顔をしていた。

    「明日、こっそりお花屋さんに買いに行こうかな。……ねえ、私たち、明日には元の身体に戻ってるといいね」

    小夏は少し俯き、静かな声でぽつりとつぶやいた。

    「……うん、本当に、そうだね」

    小夏に返した自分の声は、なんだか自分のものではない、どこか遠い他人の声のように思えた。

    夜になり、私はまたいつものように夏子さんの様子を窺うために一階のリビングへと向かった。
    遮光カーテンの閉め切られた暗がりのなか、ワインを飲む夏子さんは、左手の指で痛そうにこめかみを押さえ、頭痛に耐えるように目を細めていた。

    私は、小夏が今日あんなにも必死になって夏子さんに花を贈ろうとしていた理由が、その疲れ切った横顔を見た瞬間に不意に理解できた。
    しかし、そんな体調の悪そうな様子であっても、彼女の右手だけは、血のように赤いワインを注いだグラスを執着するように掴んでいた。

    「……ママ、大丈夫?」

    ソファの隣にそっと座ると、夏子さんはゆっくりと私の方へ顔を上げた。

    「大丈夫よ。少し、疲れが溜まっているだけ」

    「ちゃんとお薬は飲んだ? ……今日はもう、これ以上飲まないで早く寝たほうがいいよ」

    私の気遣うような言葉に、夏子さんはふっと、毒気の抜けた優しい微笑みを浮かべた。
    そしていつものように、私の頬へと手を添え、髪を細い指先で愛おしそうに梳いた。
    そのいたわるような仕草だけは、私が引き取られたあの日から、何一つ変わらない母のものだった。

    「……あなたは本当に、優しい子ね。いつもありがとう。大好きよ、優子」

    喉がぎゅっと詰まるような切ない感覚に襲われながらも、私は返事をする代わりに、従順な娘の顔をして深く頷いた。
    そして、夏子さんにもう一度寝室へ戻るように促し、逃げるようにその席を立った。

    ──深夜二時。
    昨夜の反省を生かし、今夜はフード付きの厚手のコートを羽織り、自分の部屋から毛布をしっかりと肩に掛けて、極寒の給湯室へと向かった。
    凍える床に座り込んで時間を待つ。
    今回、錆びついたボイラーに火が点いた時間は、午前三時よりも前のことだった。
    昨夜よりも、明らかに十分ほど早い。
    やはり決まった時刻ではなく、今夜の急激な冷え込みという外気温の低下がセンサーに影響しているのだろう。

    点火した青い炎を目視で確認し、私は静かに廊下へ出た。
    冷たい空気を鋭く割るようにして階段を上がり、二階の自室へと戻る。
    暖房を完全に切っている私の部屋は真っ暗で、吐き出す息が白く闇に浮かび上がった。
    コートと毛布を着込んだままベッドのなかに滑り込むと、ようやく寒さが和らいでいく。

    外気に晒され、全身がこれほど冷え切っているのに、なぜか、さっきリビングで夏子さんに撫でられた右の頬だけが、いつまでも熱を持っているような気がしてならなかった。
    小夏にとっての夏子さんは、今でも、大好きな“優しいお母さん”なんだ。
    それはそうだ。彼女はまだ、あの幸せだった事故の前の“あの日”に生きているのだから。
    時間の外側に、たったひとりで取り残され続けているのだから。
    だけど──小夏が信じる唯一の世界を、私なんかの都合で壊してしまってもいいのだろうか。

    自分が生き残るための決意が、小夏の姿を前にして激しく揺れ動く。
    配管の工事予定日まであと三日と迫っているなか、私は一体どうしたらいいのか、自分の本心が、もう自分でも分からなくなってしまっていた。

    また、朝が来た。
    変わらないルーティンが、いつも通り何事もなかったかのように何食わぬ顔で始まる。

    「──どうして、涼子おばさんと私が入れ替わっているの? そんなの……絶対におかしいよね」

    「私も信じられなかった。けど、でも……見て。これが、私たちの現実だよ」

    「……そっか。そう……なんだよね。でも、どうしてなんだろう」

    昨日あんなに泣き喚いていたのとは打って変わり、今朝の小夏は驚くほど物分かりがよく、落ち着いていた。
    けれど、小夏のその従順な様子が、なぜかものすごく私の心を激しく苛立たせた。

    『……ねえ、小夏。今日はママに、椿の花を買いに行くんじゃなかったの?』

    喉元まで、そんな意地悪な言葉がせり上がってきた。
    小夏の境遇は、心の底から可哀想だと思う。
    だけど、記憶を綺麗にリセットされて、何度も何度も私の時間を奪い、同じ絶望に付き合わせる彼女の存在そのものに、私はもう心底嫌気が差していたのだ。
    でも、私はその言葉を喉の奥へ無理やり飲み込んだ。もう、小夏の傷を無駄に増やす必要なんてない。

    だって、もう、明日ですべてが終わるから。
    私は淡々と、いつも通り完璧に涼子としての演技をこなしながら、夏子さんの目を盗んで、屋敷中の窓を一つずつ閉ざしていった。

    日が暮れたあとの夜の空気は、肌が凍りつくように冷たかった。
    暗い窓ガラスに映り込んだ自分自身の姿を見つめながら、私は夏子さんの香水の香りが染みついた自分の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱し、必死にその匂いを払いのけようとした。

    整形する前の、私の本当の元の顔が、もううまく思い出せない。
    でも、こんな風に冷たく固まった表情じゃなかったことだけは、はっきりと覚えている。
    窓の中の私は、たしかに息を呑むほど綺麗だ。
    だけどそれは、私の美しさじゃない。“誰かの都合のために作られた綺麗さ”で、中身は本当は空っぽだった。

    今の私は、小夏でも、涼子でも、ましてや『優子』でもない。
    どこにも本当の居場所がない、中途半端な誰か。
    私は、誰なのだろう。何のために、この家に存在しているのだろう。
    そもそも私は、この世界に存在していていいのかな。
    存在してはいけないから、夏子さんは私を見限って、東北から新しい私を呼び寄せようとしているのかな。

    何がいけなかったのだろう。私の、何が。
    ママに愛されたくて、あんなに必死に頑張ってきたのに……。
    歪んだ窓ガラスに視線を投げると、ただ人形のように綺麗なだけの女の子が、悲しそうに佇んでいた。

    深夜二時になり、枕元にセットしておいた目覚まし時計が鳴った。
    鉛のように重くなった頭を押さえながら、用意していた分厚い毛布を掴み、私は無言で冷え切った部屋を出た。
    昨晩よりもさらに、全身を針で刺すように冷たい空気が廊下に満ちている。
    今日の方が明らかに気温が低い。それならきっと、ボイラーの自動点火のタイミングは昨日よりも早いはずだ。

    真っ暗な給湯室の床にしゃがみ込むと、静寂のなか、パチン、と金属の音が弾けた。
    ──午前二時四十二分。
    暗闇の奥で、青白い炎が、音もなく静かに灯る。
    予想通りだった。気温が下がれば下がるほど、ボイラーは凍結を防ぐために早い時間から勝手に火を点すのだ。
    私の読みは、間違っていなかった。

    九


    五時半に、枕元の目覚まし時計が鳴った。
    また、朝が来た。
    カーテンの隙間から差し込むいつもと同じ光、いつもと同じ冷たい空気、いつもと同じ絶望の始まり。──けれど、今日は、すべてが違う。

    配管工事は、明日の午前中に入る。
    私に残された夜は、もう今夜しかなかった。

    私はベッドの中で瞼を閉じたまま、深く長い呼吸を繰り返して、身体の震えを整えていく。
    心を限界まで落ち着かせながら、今日これから行うすべての段取りを、脳の中で正確になぞり直した。

    午前中の動きは、いつも通りでいい。
    夏子さんと小夏がリビングを出て、それぞれの部屋に引っ込んでからが本当の勝負だ。
    キャビネットから離れの鍵を盗み出し、昨日施錠しきれなかった残りの部屋の窓をすべて施錠する。
    もし少しでも隙間風が入るような古いサッシがあるなら、洗面所から持ってきたタオルを敷き詰めて塞ごう。
    お手伝いさんに怪しまれないように、細心の注意を払いながら少しずつ、屋敷を完全な密閉空間へと変えていく。

    実行に移るのは、夜が更けた深夜一時半頃。
    この数日間の観測で、午前三時前後の極寒の時間帯に、凍結防止のセンサーでボイラーが自動点火することを確認した。
    今朝の冷え込みは一段と強いから、きっと二時半過ぎだと考えて計画を組み立てた方がいいかもしれない。

    給湯室の古い配管には、もう十分に傷が入っていた。
    あの腐った金属に、ほんの少しだけ手を加えればいい。
    そうしたらきっと、あとは、この屋敷自身が勝手に壊れてくれる。
    ガスが満ちていく時間の間に、あの物置部屋から証拠の書類が詰まった木箱を運び出し、小夏を起こして玄関から外へ避難させる。集めた証拠は、離れに隠す。

    そして──異変が起こってから、夏子さんを起こす。
    私は、夏子さんに死んでほしいわけじゃない。
    ただあの人は、目の前で自分の箱庭が燃え盛る炎を見ないと、きっと「危険な現実」だなんて最後まで信じないだろうから。
    夏子さんにとっての世界は、いつだって自分の都合のいいように作り変えられるものだったから。

    「──うまくいきますように」

    毛布の中で両手のひらを合わせ、成功を神様に祈った瞬間、自分でもおかしくなって口元が歪んだ。
    こんなおぞましい放火の願いを、一体どこの誰に向けて祈っているのだろう。
    でも、本当に、何年ぶりか分からないくらい久しぶりに、心から笑った気がした。
    計画が本当に成功するかどうかは分からない。
    今日、あのボイラーが予定通りに点く保証もないし、あの青い炎が、本当にこの家を終わらせてくれるのかも分からない。
    でも──もし、燃えてくれるなら。すべてを灰にして失えば、きっと、やっと、終わるんだ。
    この延々と繰り返される、終わらない朝が。

    ルーティンが始まる六時半の少し前、私は服を整えて自室を出た。
    小夏が部屋の奥で叫び声を上げるその瞬間まで、彼女の部屋の扉の前でじっと待つ。──いつも通りの朝の光景。
    冷たい廊下の壁に背中を寄りかからせながら数分待っていると、案の定、小夏の部屋の目覚まし時計が、静寂を切り裂いてけたたましく鳴り響いた。
    そして、私たちの最後の“いつもの一日”が、ついに始まった。

    「……え、なんで? 涼子おばさん?」

    小夏が異変に気付くタイミングはいくつかあるけれど、今日は、一番多いパターンだった。
    起き上がってすぐ、設置された鏡の中の姿を見て、自分を涼子と認識する。
    小夏の心臓の激しい鼓動が、木製の重い扉を通り抜けて、私の肌にまで伝わってくるようだった。
    もうしばらくすると、自分の腕にある、あの自傷行為のおびただしい傷痕が彼女の目に飛び込んでくるはずだ。

    そして、次の瞬間、怯えたような小夏の短い叫び声が響いた。──私の、出番だ。
    ドアノブに冷たい手を掛け、一度瞼を閉じて、胸いっぱいに息を吸い込む。
    これで、最後だ。絶対に、絶対に、今日で最後にする。
    肺の中の息をすべて吐き切り、私はそっと、いつものように扉を押し開けた。

    「小夏ちゃん、大丈夫だよ。落ち着いて」

    姿見の前で立ち尽くし、肘の上までまくり上げた袖口を震える手で掴んだまま、怯えたように私を見つめる小夏。
    衰えた小さな身体を、ぎゅっとさらに縮める彼女を見て──私は、小夏を、本当に可哀想な人だと思った。
    ここから解放してあげたい。この人には、助けが必要だ。
    その思いだけが、今の私の中に残された、たったひとつの“本物”だった。

    特に大きな問題が起きることもなく、滞りなく芝居が進み、朝のルーティンは終盤に差し掛かった。
    小夏の着替えをさせるため、夏子さんと小夏がリビングの扉を出ようとしたその時──私は、衝動的に小夏の後ろ姿を呼び止めていた。

    「──小夏ちゃん」

    突発的に声を掛けてしまったことに、自分自身でさえ驚いていた。

    「もう、大丈夫だからね」

    その言葉は、何も知らずに怯える小夏に向けたものであり、同時に、今夜すべてを終わらせる私自身への退路を断つ決意のようなものだった。
    夏子さんは私の異変に鋭く振り返り、瞬きもせず、ただじっとこちらを見つめていた。
    ルーティンの台本には存在しない、臨機の台詞。
    張り詰めた沈黙のなかには、怒りとも不信ともつかない、明らかな威圧があった。

    小夏は一瞬、わけが分からなさそうに小首を傾げたあと、小さく「……うん」とだけ、不思議そうな返事を返した。
    そして、そのまま夏子さんに促されるようにして、リビングを後にした。

    リビングに一人残された私は、ソファの奥深くに身体を沈み込ませ、夏子さんが淹れてくれた珈琲の、重く苦い香りを深く吸い込んだ。
    もし──もし、今日、この計画を諦めてしまったらどうなるんだろう。
    答えはあまりにも簡単だ。明日も、明後日も、今日と全く同じ朝が来る。
    同じ会話、同じ嘘、同じ地獄の繰り返し。それだけだ。
    だけど、それだけは死んでも嫌だった。
    その停滞した未来を想像した瞬間、まるで胸の奥を鷲掴みされたように、息ができなくなるほど苦しくなった。

    ──始めよう。夜までにやるべきことは山ほどある。
    私は勢いよく立ち上がり、キャビネットの奥から離れの古い鍵を取り出した。
    そして何度も何度も頭の中で反復していた手順通りに、夏子さんの目を盗んで、淡々と館の密閉作業を実行に移していった。

    夜になり、いつものようにリビングへ足を踏み入れると、夏子さんはワイングラスを片手に、暖房の効いた暖かい部屋でソファに腰掛けていた。

    「優子、今日も一日ありがとうね。お疲れさま。……小夏はもう寝たかしら?」

    私が小さく頷くと、夏子さんは労うように、いつも通り柔らかく微笑んだ。

    「そう、ありがとう。──ねえ、こっちに来て」

    促されるまま、私は夏子さんのすぐ隣に腰を下ろした。
    彼女の身体が近づき、触られる前からその匂いが分かる。上質な赤ワインと、少しきつい薔薇の香水の匂い。
    そして、いつものように私の髪を長い指先で優しく撫でる手。

    ずっと前から、この手に触れられるたびに疑問に思っていた。
    夏子さんは、一体誰の髪を撫でているつもりなのだろう。
    目の前にいる優子? それとも、自分の身代わりとしての小夏?……あるいは、若くて美しかった頃の、夏子さん自身なのかもしれない。

    「──それでね、優子。あなたに少し、聞きたいことがあるのよ」

    私の髪を愛おしそうに撫でていた夏子さんの手が、唐突に止まった。
    夏子さんは私の顔を覗き込むようにして、少しだけ首を傾げる。

    「今朝、あの子に言っていた“もう大丈夫だから”って……あれは、どういう意味だったの?」

    向けられる声は柔らかいのに、彼女の美しい瞳の奥には、鋭く獲物を探るような光が宿っていた。
    その一切の感情を排した視線に、私の背筋がすっと体温が引くように冷え切った。

    「……小夏が、いつもより少し混乱してるように見えたから。だから、安心させたくて」

    必死に声を震わせないように言い終えると同時に、夏子さんの目元がゆっくりと細められた。
    唇は綺麗に笑っているのに、目だけが、全く笑っていない。

    「そう? 私には、あの子の様子はいつもとさほど変わらないように見えたけれど。──ねえ、優子。……本当は?」

    答えを促すように私を凝視する夏子さんの両目からは、先ほどまでの優しい母親の光が完全に消え失せていた。
    冷酷で、温度を感じさせない、まるで敵の動向を監視するような爬虫類の目線。
    その絶対的な断絶の瞳を見た瞬間、私の中で、辛うじて保っていた何かが、音を立てて崩壊していった。
    私はそれ以上、彼女の顔を見られずに視線を落とし、小刻みに震え出した指先を、膝の上で強く握りしめた。

    「──ママ。……もう、やめたい」

    喉の奥から絞り出した私の言葉は、細かく震えていて、まるで、自分ではない他人の声みたいだった。

    「もう……こんなお芝居なんて、もうやめようよ。お願い」

    ほんの一瞬だけ、リビングのなかに重苦しい静寂が落ちた。
    しかし夏子さんは、まるで私の涙ながらの訴えに興味がないかのように、平坦で乾いた声で言った。

    「やめないわ。……でも、あなたがやめたいのなら、それで構わないのよ」

    夏子さんのあまりにもあっさりとした言葉に、私の思考は完全に停止した。

    「……どうして? 私じゃなくてもいいの? 私は……ママの何なの?」

    夏子さんはグラスを指先で軽く回しながら、ふっと少しだけ綺麗に笑った。
    その仕草があまりにも優雅で、そして恐ろしくて、どうしようもなく涙が溢れそうだった。

    「ねえ、優子。大丈夫よ、落ち着いて」

    母は一体、私の何に対して「落ち着け」と言っているのだろう。

    「……私の、次の代わりの子が、ここへ来るんでしょう? 物置部屋の資料、全部見たよ。私の前に、二人もいたことも」

    そこで初めて、夏子さんの完璧だった表情が明確に動いた。
    綺麗に弧を描いていた口元がわずかに固くなり、向けられた眼線が鋭い刃物のように尖る。

    「──資料?……まさか、探したの?」

    夏子さんの声のトーンが、地を這うように低く落ちた。

    「……最悪ね。あんなもの、さっさと燃やしておけばよかった」

    感情を殺して静かに吐き捨てると、夏子さんはワイングラスをテーブルへ割れそうなほど強く叩きつけ、そのまま私を置いてリビングを出ようと歩き出した。

    「待って! ねえ、明日……昔、最初の頃にママがやっていたみたいに、本当のことを小夏にちゃんと説明してみようよ!」

    夏子さんを追いかけるようにして薄暗い廊下へと飛び出した私の声に、彼女は不快そうに足を止めた。
    ゆっくりと振り返ったその顔には、もう私を求めていた頃の“母親の表情”なんて、どこにも残されていなかった。

    「簡単に言うのね。あの子に向き合うことがどれだけ地獄で、どれだけ私の精神が磨り潰されて大変だったかも知らないくせに」

    声は決して怒鳴っていない。
    でも、その低く冷たい言葉の一つひとつが、刃となって私の胸の真ん中へ深く突き刺さる。

    「それはそうだけど、でも……今度は私も一緒に手伝うから。二人を支えるから……だから」

    「小夏の顔をしているくせに、どうやって協力する気なのよ。あの子を余計に混乱させるだけじゃない」

    夏子さんはゆっくりと首を傾げ、哀れむように薄く笑った。
    私の心臓が、内側から肋骨を叩き割るような嫌な音を立てて鳴り響いた。

    「顔は……だって、それはママが──」

    「私じゃないわ。選んだのは、他の誰でもないあなたよ。すべて自分で選んだんでしょう? 私はただ、あなたの願いを叶えてあげただけよ」

    私を見下ろす彼女の瞳には、本気で、自分が正しいと信じ込んでいる狂気の光が爛々と宿っていた。
    容赦なく投げつけられたその残酷な言葉に、私の身体は、極寒の廊下で凍りついたように固まるしかなかった。
    やがて夏子さんは私から興味を失ったように視線を切り、階段を、ゆっくりと優雅に上がり始めた。まるで、話は終わりだとでも言うように。

    ──待ってよ。私が選んだ? ママは、本当に、本気でそう思っているの?
    違うよ。それは絶対に違う。
    私は養護施設で、白井先生に連れられてあなたと出会ったとき、初めて誰かに『選ばれた』と思って、死ぬほど嬉しかったんだ。
    自分で望んで、自分の意志でこの家へやってきたんだと、私もずっとそう思い込もうとしていた。

    でも違った。全部、全部──全部、最初から私の意思なんかじゃなかった。
    あなたが私に突きつけてきた答えは、いつだって、最初から一つだけしか存在しなかったじゃない。
    私が拒絶できないように逃げ道をすべて塞いで、最初からあなたの望む完璧な“正解”だけを用意していて、私が従順にそれを選ぶのを、上から品定めするように待っていたくせに。
    それでも私は、あなたを疑わなかった。
    ママの異常さに気付いてしまったら、自分が悲しくなるから。
    少しでも歯向かったら、すぐにまた施設へ捨てられる気がしたから。
    それはただ──ただ、大好きなあなたに嫌われたくなかったからだ。

    「……違う」

    腹の底から、沸々と煮えたぎるような怒りが、血管を逆流して一気に頭のてっぺんまで駆け上がってくるのが分かった。
    強く握りしめた拳のなかに、自分の爪が肉を破って深く食い込んでいく。全身が怒りと恐怖で小刻みに震えて、どうしても止まらない。

    「──違う! 私には選択肢なんてなかったよ! こんな小さな身体も、この家も、この顔も! 全部、私が望んだものなんかじゃない!」

    気付けば、私は理性を失って、階段を激しく駆け上がっていた。
    二階の踊り場に立ち、冷たく私を見下ろしていた夏子さんの、仕立ての良い白いカーディガンの裾を両手で強く掴む。

    驚いたように振り返った彼女の美しい顔が、間近に見えた──次の瞬間。
    カーディガンの柔らかい上質な布が、汗ばんだ私の指先から抜け、夏子さんの足元が、ほんの数センチだけ後ろの空間へと滑った。

    「……あっ──」

    夏子さんの、短く掠れた声。
    香水の香りとともに、私の横を冷たい風が一瞬吹き抜けていく気配がした。
    でも、私は振り返ることができなかった。
    それから、静まり返った階段の下に何度も激しく叩きつけられる、重くて、鈍い音が響き渡った。

    置き時計の秒針の動く音だけが、私の心臓の鼓動と同調して、やたらと大きく響き続ける。
    階段の下からは、もう何の物音も、夏子さんの声も聞こえない。押し寄せてくる不気味な静寂の重圧に、鼓膜が破裂してしまいそうだった。

    十


    「……準備、しなきゃ」

    私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
    ぽつりと呟いた自分の声は激しく震えていて、自分の意志で言葉を話している感覚が、もう全くなかった。
    自分の両手のひらが急に痒いような気がして、視線を落とすと、手のひらにはさっきの爪痕から赤い血が滲み出ていた。それをズボンの布地で雑に拭い去る。
    それから、鉛を埋め込まれたように重くなった両足を引き摺るようにして、私は二階の物置部屋へと向かった。

    置き時計を確認すると、午前二時が目前に迫っていた。
    脳の処理が追いつかない。だけど、急がなければ、すべてが手遅れになる。
    夏子さんが倒れているはずの正面玄関を避け、勝手口から外の闇へと出ると、肌をナイフで刺すような猛烈な冷気が痛いほどに襲いかかってきた。
    暖房の効かない屋敷にはここ数日の不具合で慣れていたけれど、真冬の深夜の外気はそれと比較にならないほど鋭くて、呼吸を吸い込むたびに肺が苦しくなる。
    厚手の上着も羽織らずに飛び出してしまったことを激しく後悔しながら、私はあの重い木箱を両腕に抱えて歩を進めた。
    母屋から少し歩いた敷地の奥に、懐かしい離れの建物が見えてきた。

    ──カチン。
    ポケットから取り出した、黒くて華奢な鍵が小さな金属音を鳴らす。
    かつてこの部屋で暮らしていた頃の私は、毎日毎日、夏子さんがこの音を立ててドアを開けてくれる瞬間だけを待っていた。
    この扉が開くことだけが、夏子さんと話すことを許されたようで、それだけで当時はただ純粋に嬉しかったからだ。

    この離れに足を踏み入れるのは、あの“お芝居”が始まった五年前が最後だった。
    かつて二次関数の問題が解けなくて一人で泣いた勉強机。
    身体に馴染まなくて柔らかすぎて眠れなかったベッド。
    夏子さんの好む基準まで痩せていなければ絶対に袖を通せない服ばかりが並ぶクローゼット。
    それから、他人の顔をした自分を映し出すための鏡台──すべてがどうしようもなく懐かしいのに、だけどもう、その全部が、今の私には一ミリも関係のない過去の遺物だった。

    ふと、私の視線が、埃を被ったクローゼットの天板の上に止まった。
    そこには──小振りな革製トランクが、三つ並んでいた。

    「……え?」

    三つ……? どうして、三つもあるの?
    五年前、最後に私がこの部屋を去るときに見た記憶では、そこに置かれていたトランクは確実に二つだけだったはずだ。
    新しく置かれたらしい右端のトランクは、他の二つに比べて積もった埃の層が明らかに薄かったけれど、頑丈な鍵が掛けられているところだけは全く同じだった。

    私は、抱えていた歴代の少女たちの記録が入った木箱を、そっとそのトランクの横、クローゼットの上に置いた。
    まるで、最初からそこに並べるよう用意されていた、四つ目のトランクであるかのように。

    ──これは、いつか誰かに見つけてもらい、開けてもらうためのものだから。
    私はそれ以上トランクには触れず、離れの扉を出て、外からしっかりと施錠した。
    もう絶対に振り返らない。そのまま暗闇の中、離れをあとにした。

    母屋へ戻り、足を踏み入れた給湯室の空気は、外気と変わらないほどに冷え切っていた。
    工事業者が点検のために外していった、古い金属カバーを持ち上げる。
    どう見ても、給湯室の古い設備は、もう限界だった。
    私は凍える指先で、その錆びた金属にそっと触れてみた。
    指先に少しだけ体重を加え、押し込むようにして爪を立てて抉ると、金属の錆の粒がボロボロと音を立てて床へと削り落ちた。

    シュー……。
    暗闇のなか、かすかに、空気が抜けるような音が響いた。
    私は換気扇のスイッチを切り、給湯室をできる限り閉ざした。
    閉め切った給湯室の扉の下の隙間には、タオルを詰め込む。漏れ出たガスが外へと逃げ出さないように、念入りに、完璧に。
    ボイラーが自動点火する瞬間まで、おそらく、あと数十分だ。

    もう、引き返せない。こんなはずじゃ、なかったのに。
    そう思うと、身体の芯から冷えていくような感覚がした。
    ただ、こうなってしまった以上、すべてを火災によるパニックの事故という形にするために、もう、この屋敷には燃えてもらうしかなかった。
    けれど、私の計画は完全に運頼みだった。

    「……小夏を、起こさなきゃ」

    自分の声が、音の消えた廊下に響いた。
    あの青い炎が灯るまで、猶予はもうほとんど残されていない。
    私は重い足に鞭を打ち、勝手口から続く暗い廊下を急いだ。

    「──小夏ちゃん!」

    階段を必死で駆け上がり、私は二階にある小夏の部屋の扉を激しく叩いた。
    中からの返事を待つ余裕もなくドアノブを回して扉を開けると、小夏はベッドの上に小さく座り込み、怯えたような目でこちらを振り返った。

    「玄関側から火が出てる! 早く、裏口から逃げよう!」 

    私の逼迫した声に、小夏の顔色が恐怖で真っ白に変わる。

    「……うそ、火事なの? ママ……ママを早く起こさなきゃ!」

    「──大丈夫だから! お姉ちゃんは通報しに、もう先に出たから。私たちも急ごう!」

    小夏はショックのあまり、しばらくベッドの上で動くことができなかった。
    その大きな瞳を揺らしながら、私の顔をじっと見つめている。

    「涼子おばさん……ママ、本当に大丈夫だよね?」

    「……うん。大丈夫。だから、早く行こう」

    仲の良くない姉妹であり、精神病を患っている涼子を警戒しているのだろう。
    しかし、もうこれ以上取り繕う言葉を選ぶ余裕なんてなかった。
    階下の給湯室で、いつあのボイラーに自動点火の火が灯るか分からないのだ。
    私は小夏の腕を強引に掴み、腰を痛がる彼女の身体を必死に支えながら、勝手口の扉を開けてようやく極寒の外へと這い出した。

    小夏の精神は十六歳だ。決して騙されやすい小さな子供じゃない。私とほとんど変わらない年齢だ。
    実際に火事が起こるまでのわずかな時間だとしても、こんな私の雑な嘘で本当に誤魔化しきれるのだろうか、と──そう思った、まさにその瞬間だった。

    ドンッ、と、突然、屋敷の奥底から低い雷鳴のような轟音が響き渡った。
    凄まじい衝撃波で周囲の空気がビリビリと震え、青白い強烈な閃光が、閉め切った屋敷の内部で爆発的に弾け飛ぶ。
    次の瞬間、一階の窓ガラスが一斉に砕け、無数の破片が夜の暗闇にキラキラと飛び散った。
    破裂音を繰り返しながら、窓から激しく噴き出す青白い炎は、外の新鮮な酸素を取り込み、一瞬で禍々しい赤色へと姿を変えていく。

    「──こんな、はずじゃ……」

    震える唇から、掠れた声が漏れた。
    それは、私の頭の中で勝手に思い描いていた火事なんかでは到底なかった。
    私の想像をはるかに超える勢いで、炎は巨大な生き物のように屋敷の壁を舐めながら猛烈に燃え広がっていく。
    焦げ付く木の匂い、そして鼻の奥をツンと刺す強烈な刺激臭が、冷え切っていた私の嗅覚に現実の感覚を蘇らせた。
    私の腕の中にすがる小夏は、両手で自分の口を固く押さえたまま、悲鳴すら出せずにただ恐怖で激しく震え続けていた。

    遠くから、けたたましいサイレンの音が鳴り響き始める。
    最初は、屋敷を焼き尽くすバリバリという凄まじい炎の音にかき消されて微かに聞こえる程度だったが、それは少しずつ、確実にこちらへと近づいて来る。
    赤く鋭い回転灯のフラッシュが、周囲の防風林の枝葉を照らし出し、静寂だった庭の周りが急激に慌ただしくなった。

    私は自分より大柄な小夏を必死に抱きかかえたまま、冷たい庭の真ん中に呆然と立ち尽くしていた。
    雪の降り積もらない冬の地面は、凍てついて冷たく、固い。
    敷地の外から勢いよく走り寄ってきたオレンジ色の服を着た消防隊員たちが、真っ先にこちらを視界にとらえる。そして、状況を瞬時に理解したように、迷いなく動き出した。

    「生存者二名を確認!」

    「ホースを伸ばせ! 急げ!」

    飛び交う怒号と、騒がしい無線のノイズに一瞬で周囲を囲まれた。夜空には、パチパチと火の粉が舞い散っている。
    何人もの消防士たちが重いホースを引きずりながら、轟々と異様な音を立てて燃え続ける屋敷へと果敢に走っていく。

    「君、大丈夫?」

    炎に照らされた私の姿を見て、中学生くらいの幼い子供だと判断したのだろう。
    一人の大柄な隊員がすぐ目の前まで駆け寄り、視線を合わせるようにして慎重に声を掛けてきた。
    私は恐怖に震えながら頷いて応える。すると隊員の視線は、私の小さな身体に必死にすがりつき、顔を伏せて泣きじゃくっている小夏へと向けられた。

    「お母さんの方は、どこか怪我はされていないですか?」

    「……この人は、私のお母さんじゃないです」

    咄嗟に、私の口が勝手に動いていた。
    隊員は一瞬だけ瞬きをし、少し困惑したような顔つきになった。

    「あっ、失礼。えっと、それじゃあ──君のお母さんとお父さんはどこに?」

    彼の問いに声で答える代わりに、私はずっと握りしめていた右手を、胸の前で静かに開いた。
    爪の血がべっとりと付着した手のひらの上で、黒く華奢な金属の鍵が転がる。

    「……それは、家の鍵?」

    消防隊員に覗き込まれるようにして問いかけられても、私はそれ以上、首を縦に振ることはしなかった。
    答える気力が残っていなかったわけじゃない。ただ、これ以上何かを明確な言葉にしてしまえば、取り返しのつかない何かが確定してしまう気がして、恐ろしかった。

    視線だけを暗闇の奥に佇む離れの方へと向けると、隊員は私の意図を察したように、血のついた鍵をそっと受け取った。
    そして「奥の離れを確認してきます」と無線に向かって声を掛けると、足早に離れの方へと向かっていった。

    遠くで、離れの重い扉が開かれたのを見届けると、私のなかで張り詰めていた最後の細い糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
    膝から一気に全ての力が抜け、私はその場に無様にしゃがみ込む。
    肩に掛けられていた厚手のブランケットがずり落ちそうになり、別の消防士がそれに気づいて優しく位置を直してくれた。

    「……ひとまず病院へ行きましょう。身体も冷えきっているし、その手の怪我もそのままにはできないからね」

    私を心から心配してくれる大人の声は、痛いほどに優しかった。
    だけど、私の身体は、凍りついたように一歩もそこから動こうとはしなかった。

    「──涼子おばさん。私、ママがここに戻って来るまで待ってたい」

    激しい爆発音を立てて炎に包まれていく、地獄のような屋敷を見つめたまま、私の腕のなかで小夏が掠れた声で続けた。

    「ちゃんと……会ってから、一緒に行きたい」

    その純粋な言葉に、私の胸が万力で絞めつけられるように激しく痛んだ。

    「……うん、そうだね。そうしよっか」

    私は自分を促す消防士の顔を、すがるように見上げた。

    「あの。ここに……もうしばらく、いてもいいですか」

    隊員の顔に一瞬だけ判断に迷うような気配があったが、彼は私の手の血と、怯える小夏の様子を見て、静かに頷いてくれた。

    「わかりました。ただ、これ以上火の手が回ると危ないので、もう少しだけ後ろの安全な場所へ下がりましょう」

    消防士の男性たちに支えられながら、私たちは庭の最も端にある防風林の近くへと移動する。
    ちょうどそのとき、空間を割くような音を立てて敷地内に救急車が滑り込んできた。
    救急隊員たちがすぐに私たちの元へ駆け寄り、煙を吸い込んでいないかを素早く確認し、私の手のひらの爪痕の傷を丁寧に白い包帯で処置していく。
    それから少し遅れて、唸るようなサイレンを鳴らしながら、パトカーが数台、門の前に急ブレーキを踏んで止まった。

    門の方をじっと見つめていると、先ほど離れの鍵を持って奥へ向かったはずの消防隊員が、走って戻ってくるのが見えた。
    彼は、到着したばかりの警察車両から降りてきた警察官たちに血相を変えて駆け寄ると、固くなった表情のまま、短く、何かを警察側に報告していた。

    十一


    ガラガラと腹に響く大きな崩落音を立て、夜空へ向かって黒煙を激しく上げながら、かつて暮らした屋敷が内側から崩れていく。
    私はその凄惨な光景へと、静かに視線を戻した。
    頑丈だった窓ガラスは熱で完全に弾け飛び、鉄の窓枠は飴細工のように無残に歪み、白壁は黒い煤にまとわりつかれ、夜の暗闇と同化していく。
    激しい炎が外の冷気を一気に吸い込み、まるで屋敷そのものが呼吸しているかのように、周囲の空気が揺らぎ続けていた。

    敷地の最も端、防風林の近くで、私は小夏と肩を並べて地面に座り込んだ。
    屋敷が少しずつ、その形を失っていく様子を、私は目を逸らさずに自分の心へと深く刻んでいく。

    悲しくないわけじゃない。
    自分が失ってしまったものの総量はあまりにも大きくて、歪んでいたとはいえ、あの場所はたしかに──私の生きてきた世界のすべてだったから。
    でも、私の涙はとうに枯れ果てていて、もう一滴も流れてはこなかった。

    私はただ、誰かに必要とされたかった。それだけだった。

    揺らめく赤い炎をじっと見つめていると、左肩にふっと温かな重みを感じた。
    先ほどまで夏子さんを案じて狂ったように泣きじゃくっていたはずの小夏が、極限の疲労からなのか、いつのまにか私の肩に頭を預けて眠りに落ちていた。
    深夜の刺すような寒さのせいだろうか、私にしがみつく彼女の耳が赤く染まっている。
    消防士から渡された厚手のブランケットの端をそっと持ち上げ、彼女の頭を包み込むようにして覆ってあげると、小夏の眉間に寄っていた皺が、ほんの少しだけ和らいだ。

    そのとき、着ていたシャツの裾が微かに引かれるような感触がした。
    視線を落とすと、眠る小夏の白い指先が、私のシャツの布地をきゅっと強く掴んでいた。

    「……もう大丈夫だよ、小夏。これから先は、私たち自身で選んでいこうね」

    彼女の耳元で囁くようにそう伝えると、私の肩口で小夏は微かに「うん」と答えた。
    それが私への返事だったのか、それともただの寝言だったのかは、今の私には分からない。
    でも、その一言だけで、私の凍りついていた心がほんの少しだけ軽くなった。

    私は深く息を吸って、ゆっくりと夜空を仰ぎ見た。
    重苦しい群青色だった空は、地平線の彼方からわずかに白みがかり、新しい始まりの時を告げていた。
    鼻腔を突く、燃え尽きそうな屋敷の匂いがまだ冷たい空気に色濃く残っているのに、それでも何事もなかったかのように、また、新しい朝が来る。一日が、新しく始まる。

    けれど──朝になれば、すべてが変わりはじめる。
    私は、「優子」だ。
    私はもう、誰の影でもない。生まれて初めて、心の底からそう確信できた。
    六年前にこの家に来てから、今、この瞬間に、ようやく。

    了


     
     

    L1SA

     
     
    個人サイト時代から二次創作を続けている古のオタク。 推しの家の間取り図が欲しくて、新人賞に応募しました。

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