メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bydongmu

⚪️掌編小説|蜜柑堂書店

    適温より1℃低め

     気づいたら一年前に大学を卒業していた。という訳ではなく、卒業後、気づいたら何もしないまま一年が過ぎていた。

     そんなことがあるだろうか──ある。

     小説を書いていたのだ。

    ***

     小説なんてものは何かしたうちに入らない。

    ***

     かと言って新卒のような顔をすることは無論できない訳で、年明けから出遅れた後輩たちと競うように就活したのだった。

     するとこれが運良くあっさりと本屋への就職が決まった。他に選択の余地がなかった、などと言うつもりはない。余地は確かになかったけれど。この結果は願ってもないことだ。

     ぼくはこの春から「蜜柑堂書店」の店員として新生活をスタートさせる。

    ***

     店主は蜜柑さんという女の人で、ぼくが小説を書いていたという話をすると、見せてみろと言う。採用面接でのことだ。

     ぼくはとりあえずウケの良さそうな短編を彼女のタブレット端末に送った。けれどもほんの少し読んでこれじゃないと言う。もっと、上手くないやつが読みたい。

     なるほど。もちろんある。ぼくはてんでダメなやつを送った。すると彼女は「へー」と言って椅子の上で居住まいを正し、それを読み始めた。

    「あのー」
    「しー」

     送った後で思った。それは人に読ませるような代物じゃない。誰かが読むことを想定していない、つまり独りよがりの駄作だった。そもそも完成すらしていなかった。

    ***

    「採用の条件は」と蜜柑さんは言った。「この小説を完成させること。今すぐとは言わない。うちで働いている間に必ず完成させて」

    「働いてる間?」
    「それは一ヶ月後突然終わるかもしれないし、五年後も続いているかもしれない」
    「……」
    「約束できそう?」

     なんとなく不適切な気もするし、労基上もかなり問題ありそうだけれど、まあ深く考えても仕方ない。正式入社までに書き上げておけば約束を違えることもあるまい。

    「約束します」とぼくは言った。

    ***

     ところが、である。

     蜜柑さんとその約束をして以来、ただの一文字も書けなくなってしまった。

     何も思い浮かばない。書こうとはするのだけれど、頭の中は真っ白で、からからと乾いた風が吹くばかりである。ひどい時は薄らと額に汗が滲み、動悸さえしてくる。

     入社日はいよいよ数日後に迫っている。どうやらとんでもないことになってしまったようだ。ぼくは上手いことやっていけるのだろうか。乗り切れるのか。だがやるしかない。

     やってみるしかないだろう。

    ***

     そして──ぼくと蜜柑堂書店の日々が始まる。

    (第二話に続く)


    #風まかせ文芸部
    #卒業
    #新生活
    #本屋
    #選択
    #みかん
    #蜜柑堂書店

    あなたへのおすすめ