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創作【つわりはいつ終わる】#3.診察

     夜が更けた。
     気持ち悪いながら、なんとか眠れたときは少しだけ吐き気から解放された。だからといって、二十四時間寝続けることはできなかった。土曜と日曜は、真也も家にいる。つわりがなんたるか、真也と一緒に考えたかったが、何かを考える気力はもはや果穂にはなかった。日中、少し眠ってしまったせいで、夜中に目が覚めてしまった。目が覚めると、気持ち悪さが戻ってくるようで、果穂は絶望していた。
     真也の寝具は、果穂の上半身を高くするため使ってしまっていたので、真也は枕も使わずに寝ていた。そんな真也を横目で見て「いい人だ」と、果穂は思った。足りない部分もあるけれど、完全な人間はいない。自分の心が狭くなっていたことを思い知らされた。休むことなく襲われる吐き気というのは、それほど余裕をなくすものだった。なんとか眠りについてみようと、一生懸命に目を瞑った。三十分ほどして、果穂はようやく眠りについた。
     朝、真也が目を覚まし、隣の果穂を見た。果穂はまだ眠っていた。夜も気持ち悪かったのか、口元にはタオルを当てていた。
     真也は、昨日のことを振り返った。朝起きたら、果穂がトイレにうずくまっていた。体調を尋ねると、つわりだと言う。つわりという現象は知っていても、具体的にどういうものかは、わからなかった。自分は仕事に行ったが、果穂のことが気がかりで、仕事には集中できなかった。携帯でつわりの症状や対処法などを調べた。それでも、あんなに動けないものなのか、本当に何週間も続くものなのか、半信半疑だった。それでも、朝の果穂は今まで見たことがないほど顔色が悪く、信じられないほど生気がなかった。
     残っていた仕事もあったが、インターネットで調べたつわり中に食べやすいものや飲みやすいものなどを買って、早めに帰った。水分も摂っていない果穂が心配になり、水を勧めたら、気持ち悪くて飲めないと怒られた。どうすることもできないと思った。つわりとは、妊娠によって引き起こされるものであるはずなのに、今、目の前にいる果穂は、ただ病人のようであった。本当はつわりじゃなくて、何かの病気なんじゃないか。だとしたら、早めに病院に行った方がよいのではないか。そう思わずにはいられなかった。
     真也がリビングで、静かに食パンをかじっていると、トイレを流す音が聞こえ、ほどなく果穂がやってきた。相変わらず顔色も真っ白で、生気がない。
    「おはよう。大丈夫?」
    「……大丈夫じゃない。」
    「ゼリーか何か食べる?」
    「……うん。」
    「座ってて。持ってくるから。」
    「……ありがとう。」
     果穂はソファにゆっくりと腰を下ろし、ぼうっと空を見つめた。窓の外の小さな庭に、明るい光が差し込んでいた。かすかに残る暑さと、秋の涼しさが入り混じったような優しい日差しに、果穂はなぜだか虚しさを抱いた。
     真也から手渡された、飲むゼリーを口に入れた。思えば昨日から、何も食べれず、何も飲めずにいた。吐いて、すすいでいただけの果穂の口に、マスカット味のゼリーが流れ込んできた。サッパリとした味が染み渡って、果穂は安堵した。これなら飲める。そんな果穂を見て、真也もほっと胸を撫で下ろした。
    「あのさ、」
    真也がおそるおそる口を開く。
    「……ん?」
    「今日、病院行けないかな?」
    「え、火曜って言ったじゃん。」
    「うん、そうなんだけど。早めに行けないかなと思って。」
    「なんで?」
     つわりじゃないかもしれないから、と素直な気持ちを言うのは気が引けた。一瞬、そんな考えが頭に浮かんで答えた。
    「なんか、薬とか、もらえるかもしれないから……」
     モゴモゴと話す真也に不信感を抱いたが、真也なりに自分の体を心配しているのだろう、と果穂は思った。
    「もらえるのかな?」
    「調べただけだけど、吐き気止めとか出してくれる病院もあるらしいし、このまま火曜まで待つの、しんどくない?」
    「うーん、予約埋まってるんだよなあ……」
    「俺、電話してみるよ。」
    「え?うん……」
     予約していた病院の名前を伝え、真也はスマホで電話をかけはじめた。急に動き出す真也に、果穂は呆気にとられていた。
     しばらくして、電話を切った真也は、少し嬉しそうな表情で果穂を見た。
    「今日来ていいって。少し待つかもだけど、俺も一緒に行くし。大丈夫?」
    「え?今から?」
    「うん。」
    「え、え?待って、真也、仕事は?」
    「え?行かないよ。」
    「行くって言ってなかった?」
    「今の果穂置いて行けないでしょ。とにかく、病院行こう。何か変わるかもしれない。」
     果穂は、何がなんだかわからなかった。ただ、真也に連れ出されるように家を出た。真也がタクシーを呼んだので、そのまま乗り込んだはいいが、ちょっと外に出られるくらいの服に着替えただけで、シャワーもメイクも何もできないでいた。それどころか、片手にビニール袋を持ち、何度も嘔吐が続いている状況だった。タクシーの車内の匂いも、自動車の揺れも、何もかもが気持ち悪かった。真也が時折、持ってきた水を差し出そうとするが、今の果穂には何よりも水が一番不味く感じられた。
     何度も吐きながら、ようやくさくら産婦人科へ到着した。受付で、真也が説明をする隣に果穂は立ち尽くした。受付のお姉さんが果穂を見て話しかけた。
    「火曜日に予約入れられてますかね。」
    「はい。」
    「では、体重と、血圧を測っていただくのと、お小水をとっていただきたいので、ご説明しますね。ご主人は待ち合いでお待ちくださいね。」
    「じゃあ。」
     真也は、それだけを言って離れた。
     受付からお姉さんが出てきて、果穂を測定室へ連れて行く。
    「もうつわり来ちゃいました?」
    「あ、はい、たぶん……。」
    「辛いですよね。説明、早めに済ませますね。」
    「あ、ありがとうございます。」
     果穂は、ほっと安堵した。配慮されることが、こんなに安心感を生むとは、涙が出そうだった。
     一通りの説明が終わり、一人になった果穂は、ゆっくりと体重計に乗った。果穂は、普段からあまり体重計に乗る習慣がなかったので、久しぶりだった。太っているかなあと、おそるおそる計測すると、痩せていた。確か、今年の夏の健康診断では、果穂の体重は五十五キロだった。身長百五十八センチの果穂にとっては、標準体重ピッタリで、健康そのものであったが、今日は五十三・五キロと一・五キロ減っている。痩せたのか。そう思うと、少し嬉しい気持ちになる果穂だった。
     血圧も測定し、尿検査を終わらせたところで、待ち合いにいるはずの真也のもとへ行った。真也は、ソファには座らず、待ち合いの壁に沿うように立っていた。
     果穂に気づいて、少し右手を上げ、手招きした。真也に向かって果穂はゆっくり歩き出す。
    「立ってたの?」
    「なんか座りづらくて。ここ、座りなよ。」
    「ありがとう。」
     周りを見渡せば、夫婦が二人並んで座っていたり、妊婦らしい女性が一人で座っていたり様々だったが、他に空席もあった。なのに、真也は立っていた。座りづらいと言った真也は、優しいのか気が小さいのか、果穂には測りかねた。
    「座れば?」
    「いや、大丈夫。それより、大丈夫?」
    「少し気持ち悪いけど、まあ。」
     二人の間に沈黙が流れた。果穂は、ただ胸焼けがひどくて話す気力もなかったが、真也は、果穂の体調が妊娠によるものだけなのか心配していた。しかし、それぞれの胸の内は、お互い知る由もなかった。
     何人か呼ばれて、三十分ほど経った。果穂は、何度か席を立ち、嘔吐を繰り返していた。真也が持ってきたゼリー飲料を何度か口にしたが、飲み過ぎると気持ち悪くなるので喉を潤す程度としていた。
     果穂が渡された番号札に書いてあった番号が、デジタルサイネージに表示された。
    「あ……。」
    「行こうか。」
     真也が優しく果穂の手を引いた。
     診察室の中には、院長である女性医師、門田英理が座っていた。
    「おかけください。旦那さんは後ろの椅子へ。」
    「お願いします。」
    「妊娠検査薬で陽性が出たということですね?」
    「はい。」
    「最後の月経はいつ頃でしたか?」
    「先月の、えっと……八日から一週間です。」
    「普段の生理周期わかりますか?」
    「大体三十日くらいです。」
    「ふんふん……じゃあ、予定日から一週間は経過されてますね。じゃあ見てみますので、隣のお部屋へ。旦那さんはこちらでお待ちくださいね。」
    「あ、はい。」
     真也は、淡々とした門田の雰囲気と、ここまでの短いやりとりに、少々圧倒されていた。果穂は、聞かれることをわかっていて前もって準備していたのか、それとも普段から、自分の最終月経の日付や生理周期について、記憶しているのだろうか。自分は果穂の体のことも、妊娠に対する思いも、何一つわかっていなかったのではないかと忸怩たる思いだった。
     しばらくして、果穂が戻ってきて座った。真也のほうを見ることもなく、覇気のない感じだった。
    「大丈夫?」
     おそるおそる声をかける真也に、果穂は小さく頷いただけだった。
     門田がパソコンの画面を果穂のほうへ向け、指差した。
    「こちらが胎嚢。赤ちゃんの袋ですね。心拍はまだ確認できませんでした。来週もう一度診せていただいて、心拍確認できたらと思います。」
    「はい。」
    「えっ?」
     真也の疑問とは裏腹に、果穂は冷静だった。
    「ご主人、何か?」
    「えっと……正常妊娠…なんですよね?」
    「あぁ、はい。ちゃんと子宮の中に胎嚢は出来てますよ。問題ないです。」
    「えっでもあの、心拍は……?」
    「そうですね、心拍が確認できるのは、もう少し時間が経たないとわからないことが多いです。まだ、赤ちゃんの芽が小さいからですね。」
    「……すみません。」
     果穂が小さく門田に言った。真也のほうを一瞥した果穂に、門田は優しかった。
    「いえ。ここに来られる旦那さんは、多くの方が同じ質問をされますから。大丈夫ですよ。」
    「あの、もうつわりが始まってしまって。出来れば、仕事を休職したいのですが……。」
    「わかりました。母子連絡カード書いてお出ししますね。吐き気止めを処方しましょうか。」
    「お願いします。」
    「とりあえず、ニ週間で出しておきます。もっと長引きそうであれば、また言ってください。」
    「ありがとうございます。」
    「ご主人。」
     門田は真也のほうに膝を向けた。
    「あ、はい。」
    「奥さん、家事など出来ない時間が増えますから、ご主人がお願いしますね。」
    「あ、はい……えっとあの、つわりって、その、何週間も今みたいな状態なんですか……?ちょっと、その、酷過ぎるんじゃないかと……。何か、違う病気とか……。」
     果穂は驚いた。つわりだと言ったのに、真也は違う病気を疑っていたのだ。今日、強引に病院に連れ出したのも、妊娠したこと自体を疑ったのかもしれない。我が夫ながら情けないことだった。先ほどの質問といい、真也はこれまで自分で調べたり、考えたりしていないのだ。そう思うと、これまで果穂が真也に伝えてきたことのすべてが、真也には伝わっていないかもしれないと、考えずにはいられなかった。
     門田は一瞬考えて、ゆっくり、はっきりと答えた。
    「つわりは、個人差があります。全然ない人もいれば、入院するほど重い人もいます。酷過ぎると思われるのは、奥さんがつわりが重い人だからです。そうですね、男性にもわかりやすく説明するとしたら……酷い二日酔いの状態で、波の高い中、船に乗せられ、船酔いを起こしている、みたいな状態ですね。程度も人それぞれですが。それから、時期も人によります。数日で終わる人もいれば、何ヶ月も、中には産むまで続く人もいます。一般的には、安定期と言われる五ヶ月ごろまでに落ち着いていくことが多いです。他の病気を心配されておりましたが、何か他に症状はありますか?例えば発熱、下痢など。」
    「いえ、ありません。」
     そう答えた果穂は、少し涙目だった。
    「そしたら、今のところはつわりで間違いないかと思います。」
    「でも、あの、妻は水も飲めないんです。それって、赤ちゃんには影響しないでしょうか。薬も……。」
    「この時期は、直接赤ちゃんに影響は少ないので、無理に食べたり飲んだりしなくても大丈夫ですが、脱水が起きると良くないので、点滴をすることもできます。今日の尿検査ではまだ大丈夫そうですが、今後、点滴を希望するときは仰ってください。それと、吐き気止めは処方しますが、赤ちゃんに影響があるお薬ではありませんから、問題ありません。」
    「はあ……。」
    「ご心配ですね。奥さんを、たくさんサポートしてあげてください。」
    「はい……。」
     果穂は、静かに泣いていた。
    「他に何かご質問なければ、受付で来週の予約をとって、終わりになります。お大事に。」
    「大丈夫です。ありがとうございました。」
     果穂は静かに立ち上がった。
     真也もそっと立ち、果穂の背中に手を当てて、
    「ありがとうございました。」
     と呟き、果穂の後ろから診察室を出た。
     受付で、吐き気止めと母子連絡カードを受け取り、来週の金曜の午後、診察の予約をとった。
     タクシーを呼び、乗り込んだところまで、果穂と真也は特に会話することもなく、気まずい雰囲気が流れていた。

     
     
    うたをうたったり エッセイなどを書いてみたり フルタイム公務員ママ 子どもにおかえりが言える働き方を模索中 Uターンしたい