妻のはなし
2026年3月に結婚し2か月が経とうとしている。新婚生活はありがたいことの連続で、人生を誰かと生きられることの喜びを昼夜問わず様々な場面で感じられる。ごはんを食べること、買い物に出かけること、コーヒーを飲むこと、洗濯をすること、掃除をすること。1人では積み上がっていかなかった方向に生活が積み重なっていく。他者と生きるからこその人生が目の前に広がりつつある。
そんな生活をともにしている妻について書いてみようと思う。彼女を端的に表現することは難しいのだが、私と正反対の丁寧さを持ち、機微を感じ取る能力、人の感情に寄り添い共感することが出来る人だと思っている。なのに時々無性に駄々をこねるように幼くなったり、素直すぎる感情を表出させる場面もありおもしろいな~と思いながら生活をしている。
ぎゅっと言えばかわいいし、大好きってことね。
妻は機微を感じ取る能力に長けすぎている。良さでもあり、この殺伐とした現代社会においては苦しさにも繋がっている。
先日自宅近くの某寿司チェーン店(〇シロー)に行ったとき、時間指定をして発券をして呼び出されるまで待機していた。連休最終日の夜だったため、店内は徐々に人が多くなってきていた。数分待って番号が呼び出されたためQRコードリーダーに発券した紙を読み込ませた。隣で60代くらいの女性と80代くらいの女性が並んで当日券の発券作業を行っており、横並びになる状況だったのだが、80代くらいの女性が私たちが発券した紙をパッと取ってしまったのだ。発券位置がちょうど私たちと女性の中間地点にあり、その女性も当日券を発券作業中だったこともあり、反射的に思わず手に取ってしまったのだろう。こちらも少し驚いてしまったが、その女性にお声がけしてその紙を返してもらった。あまり何が起こったのか分かっていないようだったので説明しすぎず、ニコニコと対応して無事席に着くことが出来た。
私の目線では「外食時のチェックイン作業に慣れていない高齢女性とのやりとり」であり、特に何も気にせず数日後には忘れてしまいそうな出来事なのだが、妻の目線ではこの出来事から感じ取れる要素は山ほどあるのだと思う。ここからはあくまで推測だが、例えば紙を返してもらった60代・80代の女性からの目線、こちらが間違っていないとはいえ何か不快な気持ちにさせてしまったのではないか、何か後で言われるのではないか。頭の中でぐるぐると不安が駆け巡り、お寿司どころではない状態だったはず。
こんな話を聞いたときに「気にしすぎ」と突き放せる人はある意味で幸せかもしれない。偶然気にしなくてもいい身体性を有しているだけなのに、一言で切り捨てられる残酷さという自身の加虐性を無視してこれからも他者への想像力を微塵も働かせることなく生きて欲しい。
妻も気にしたくて気にしている訳ではないが、現在の社会との相性が悪い。妻は新卒で医療職に従事し、適応障害を発症し休職ののち転職。その転職先でも働くことが難しく休職ののち退職している。他人の機微を感じ取れすぎてしまう妻にとって労働のコミュニケーションがどれだけ苦痛だったかは想像しても余りあるほどである。悪意ではなくとも、1つの仕事の締め切りとってしても、焦りや不安と日々戦っていたのだと思う。えらすぎる。
常にじゃんけんで相手がグーを出すのを分かっていながらチョキを出さざるを得ないような感覚。しかし妻の凄いところは社会との関わりを諦めることなく自分なりにファイティングポーズをとり続けているところだと思っている。よく寝て、よく食べて、苦手な人ごみや旅行にチャレンジしている。ときどき跳ね返されてどん底まで落ちることもあるのだが、その度に立ち上がって戻ってくる。もし自分だったらすべてをキャンセルして、この社会自体を拒絶してそう。
妻にはよく「大丈夫だよ」と声をかけている。感じ取れてしまう不安や恐れが少しでも軽減されるように、妻という人間の凄さを最も発見し認める存在でありたいと思って唱え続けている。妻からしたらずっとこいつ同じこと言ってんなと思われそうだが、これは祈りに近い。祈るように妻の側にずっといたい。懸命に戦う妻とこの社会をともにサバイブ出来たら最高だ。
おわり