メインコンテンツへスキップ

「もう行くから」と祖母は言った。

    げんちょん

    数年前に祖母が亡くなってからしばらくのあいだ、俺はよく泣いていた。

    自分でも驚くほど、涙が勝手にあふれてきた。

    朝、目を開けた瞬間に泣いた。
    仕事の合間、ふとした拍子に泣いた。
    夜になると、静けさが胸に入り込んで、もっと泣いた。

    もういい大人なのに、こんなにも涙って出るものなのかと、呆れるほどだった。

    祖母とは、毎日会っていたわけじゃない。
    月に一度、数時間 顔を見せに行くくらいの距離感だった。

    それでも、
    「会いに行けば会える人」と
    「もう二度と会えない人」

    その差は、想像していたよりもずっと大きかった。



    祖母は、誰がどう見ても俺を可愛がっていた。

    子どもの頃は、よく散歩ついでに買い物へ連れて行ってくれた。
    スーパーから帰ってきて、俺が「ヒマだからキャッチボールしようよ」と言えば、腰が痛いはずなのに、文句ひとつ言わずに相手をしてくれた。サッカーもした。

    今思えば、運動なんて得意でもなんでもない祖母が
    よくあんなに付き合ってくれたなと思う。

    ***

    当時の俺は漫画をよく読んでいた。

    少年漫画も大人向けの漫画も関係なく、気になったものは何でも読んだ。

    ただ、大人向けの漫画には振り仮名が無い。

    まだ小学校に入ったばかりだった俺は、当然漢字が読めない。

    「この漫画も読みたいんだけど漢字ばっかで読めないんだよ。」

    そう祖母にこぼしたことがある。
    すると祖母は、漫画の漢字ひとつひとつに、小さな字で振り仮名を書いてくれた。
    もう老眼も始まっていたはずなのに、ときには虫眼鏡まで使いながら。

    ページをめくるたび、びっしりと並んだ細い鉛筆の文字。
    気の遠くなるような作業だったと思う。


    ちなみに俺が読みたがっていたのは、喧嘩だらけのヤンキー漫画。

    祖母はたぶん、
    「こんなの読ませて大丈夫なのかねぇ」
    と思っていたはずだ。

    それでもぶつぶつ言いながら、結局最後まで振り仮名を書いてくれた。



    思春期になると、俺は友達と遊ぶ方が忙しくなり、祖母の家に行く回数は減った。

    それでも祖母は、母親を通して小遣いをくれた。

    社会人になってからも変わらず小遣いをくれていたので、「もう働いてるし、小遣いなんていらないよ。」

    そう言ったことがある。

    そのとき祖母は、ほんの少しだけ寂しそうな顔をした。だから結局、その後ももらった。

    今なら分かる。
    祖母は金を渡したかったんじゃない。
    俺に何かしてやりたかったのだ。

    それが、祖母にとっての「愛の形」だった。


    歳を取ってからの祖母は、身体のあちこちが悪くなっていた。

    歩くのも大変で、入退院も増えた。

    それでも俺が子どもを連れて行くと、菓子やジュースを用意して待っていた。

    ひ孫が部屋を散らかしても、怒るどころか嬉しそうに笑っていた。

    俺は少しだけでも恩返しをしたいと思い、何度も食事に誘った。

    「今度、俺がおごるから一緒に飯食べに行こうよ。」

    でも祖母は決まって、「私はいいから、げんちょん行ってきな。」と言って金だけ渡してきた。

    違うよ。俺はばあちゃんと行きたいんだよ。

    何度断られても誘い続けて、ようやく一度だけ一緒に外食へ行けた。

    祖母はもう、昔みたいには食べられなくなっていた。

    メニューを見ながら、
    「げんちょん、こういうの好きでしょ。」
    と言って、俺が喜びそうな料理を頼んでいた。

    そして「ばあちゃんはこんなにいっぱい食べられないから」と笑いながら、半分以上を俺の皿へよこした。

    たぶん最初から、そのつもりだったのだと思う。


    車を降りてから店に入るまで、そして帰って部屋に着くまで、転ばないように支えながらずっと手をつないで歩いた。

    祖母の手は、昔よりずっと小さく、軽くなっていた。

    別れ際、祖母はとびきりの笑顔でこう言った。

    「げんちょん、ほんとにありがとね。」

    あとで母から聞いた。

    祖母はあの日のことを、何度も何度も嬉しそうに話していたらしい。


    祖母が入院したとき、
    母に「今日仕事早く終わってお見舞い行けそうだから病室の番号教えて。」と
    連絡した。

    すると、「明日か明後日には退院予定だから行かなくても大丈夫だよ。」と返ってきた。

    それなら今回は行かなくてもいいかと思った。


    その夜、母から電話がきた。

    「ばあちゃんが危篤になっちゃった。」


    意味が分からない。
    明日退院する人が、なんで危篤になるんだ。

    妻には「すぐ行った方がいい」と言われた。
    でも俺は、妙な意地でこう思っていた。

    大丈夫だ。ばあちゃんは死なない。

    今ここで慌てて病院へ向かったら、自分で終わりを認めるみたいで嫌だった。

    数十分後、祖母は亡くなった。

    病院へ向かう車の中で、俺はずっと「事故るな、事故るな」と自分に言い聞かせていた。
    焦っていた。
    たぶん軽くパニックにもなっていたんだと思う。
    それでも、ここで事故を起こしたら全部終わると思った。

    深夜の病院は、不気味なくらい静かだ。

    廊下を歩くたび、
    パタ、パタ、とスリッパの音だけがやけに響いた。

    病室へ着くと、父も母も祖父も弟も泣いていた。

    その光景を見て、認めるしかなかった。
    これは冗談でも勘違いでもない。
    本当に祖母は死んだのだ。


    通夜も告別式も終わった。
    それでも俺は泣いていた。
    寂しかったし会いたかった。

    そして何より、もうどこにもいないという事実が受け入れられず苦しかった。


    そんな頃、祖母が夢に出てきた。
    夢の中で俺は、ひとりで実家へ向かっていた。

    夕方のような、朝のような、時間の境目が曖昧な光の中を歩いていた。

    玄関の扉を開けると、家の匂いがした。

    あの、少し古い木と味噌汁の混ざったような実家特有の匂い。

    リビングの扉を開けると、家族みんなが揃っていた。父、母、弟、祖父。
    そして、亡くなったはずの祖母もいた。
    驚いて家族を見ると、全員が目で言っていた。

    「それを言うんじゃない。」

    なんとなく空気を察した俺は何も聞かず、
    いつもの場所に座った。

    みんなで他愛もない話をした。
    騒がしい子ども達もいない。
    大人だけで集まって話す、妙に静かな時間だった。

    しばらくして、祖母が立ち上がった。

    「じゃあ私は、そろそろ行くから。」

    部屋を出ていこうとする祖母。

    直感的に「ああ、ここでばあちゃんを行かせたらもう会えなくなる。」
    そう思って家族を見た。
    誰も止めようとする様子が無い。
    みんな、下を向いて全てを悟ったような表情をしている。
    俺だけが立ち上がって祖母を追いかけた。

    「待って!まだ行かないで!!」

    祖母はゆっくりと振り返って、穏やかな顔で言った。

    「もう私は行くから。げんちょんは元気にしててね。」




    そこで目が覚めた。

    横で寝ていた妻が心配するくらい、声を上げて泣いていた。

    でも、不思議と少しだけ楽になっていた。

    祖母はきっと、
    「もう私のことで泣かなくていい。
    ちゃんと元気にやりなさい。」

    そう言いに来てくれたのだと思う。

    あの人は、生きているときからずっと、自分のことより俺の心配をする人だった。

    最後までそうだったのだ。

    あれから俺の中で何かが吹っ切れて、
    前みたいには泣かなくなった。



    ばあちゃん。
    子どもはあれからさらに増えて、今はうるさいくらいに にぎやかだ。
    家も建てた。
    仕事もなんとかやっている。
    大変なことは山ほどあるけど、毎日みんなで笑って暮らしているよ。

    だから心配しなくていい。
    今度はゆっくり話そう。
    マンションのベランダでも、キッチンの換気扇の下でもいい。
    二人で並んで座って、夕方の光でも眺めながら。
    昔みたいに、マイルドセブンを一本だけ吸おう。

    医者に止められてタバコをやめたばあちゃんに、
    夢の中くらいは許してやりたい。

    火をつけるときの、あの慣れた手つきも俺はまだ覚えている。

    煙がふわっと上にのぼって、夕日に溶けていく。
    その匂いが、懐かしい記憶をそっと撫でていく。

    言葉は多くなくていい。
    沈黙のあいだに、あの頃の俺たちの空気が戻ってくるはずだから。

    ばあちゃんがまたどこかへ行ってしまう前に、ほんの少しだけでいい。同じ時間を過ごしたい。

    タバコの煙みたいに濃くて、
    でもすぐに消えてしまうような時間を。

    煙の向こうで笑うばあちゃんを、もう一度だけ見たい。

    それだけで、十分だからさ。


    この記事が参加している募集

    あなたへのおすすめ