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火葬場までの長い夜 (母と過ごした最後の二晩)


    #創作大賞2026
    死んでから親孝行したって、遅いよね。
    分かってる。でも、そうせずにはいられなかった。
    亡き母と過ごした二晩は、私の最後の親孝行。

    葬儀社の遺体安置室。
    私は死装束に身を包んだ母を見下ろしていた。とうとう、この日が訪れてしまった。
    持って、あと1週間くらいだと医師に言われて覚悟していた。それでもやりきれない思いでいっぱいだった。 

    私は決心した。
    ここに泊まる。母さんの傍で二晩過ごす、と。
    そうしなければいけない。じゃないと、また後悔する。
    今までろくに親孝行できずに、後悔の数だけ増えていった。
    死に目にも会えなかった。それは最大の親不孝ではないのか?
    もう、これ以上後悔したくなかった。

    母の傍らにある、こじんまりとした祭壇を、私はどこか他人事のような思いで見ていた。
    花瓶にはこんもりと菊が生けられ、線香の煙が細い筋となって天井に向かってゆらめき、線香の香りが、そこかしこに漂う。
    誰にでも必ず訪れる親との永遠の別れ。
    分かっていたつもりでも、いざ自分の身に起こると、たやすく受け入れることができない。

    (これは作り事なのではないのか? 本当に母は死んだの?)

    今朝、電話の着信音に、ドキリとした。
    見なくても分かる、母が入院している病院からに違いない。
    恐る恐る、スマホを手に取る。予感は的中していた。

    (あぁ、とうとう、この時が……)

    血圧が下がり続けて危険な状態だから、すぐ来てほしい、と看護師さんに告げられた。
    覚悟していたとはいえ、激しく動揺した。
    間もなく、母の命の灯りが消えようとしている。

    (こんな日、迎えたくなかった。できれば、もっと未来まで先延ばしになればいいのに)

    この後訪れるであろう現実に、果たして自分は耐えられるだろうか?

    病院は車で約2時間の距離にある。その土地は、私の故郷でもある。
    夫の運転する車で病院に向かう間、私は祈っていた。

    (私達が着くまで、生きていて。この世に留まっていて)

    だが、淡い望みは見事に打ち砕かれた。
    病院まであと30分という距離に差しかかった時、無情にも電話が鳴った。鼓動が激しくなる。胸が押し潰されそうだった。

    (電話に出たくない……)

    電話に出る前から、私は絶望していた。
    一時、躊躇った後、恐る恐る電話に出る。
    たった今、母が息を引き取ったと、看護師さんの憂いを含んだ声が、そう伝えてきた。
    電話の応対の様子に事情を察したのか、夫の顔に影が差す。そして、深い溜め息をついた。
    これから訪れる真の悲しみを思い、私の心は沈んでいった。

    病室に足を踏み入れると、やや顔を歪め横を向いて目を閉じた母が、目に飛び込んできた。
    私はベッドに近寄る。現実を突きつけられる。
    眉根を寄せた仄白い顔の皮膚は、血が通っていない証拠であるのが一目瞭然だ。明らかに死者の顔だ。
    私は母の肩に手を添え、語りかけた。

    「母さん、ごめん、ごめんね。間に合わなくてごめんね」

    ほろりと涙が零れた。
    そして再度、ごめんね、ごめんねと言い続けた。
    夫も目を赤くし、泣き出しそうになるのを堪えていた。
    その時、ある後悔が私の中でむくむくと沸き上がった。

    (母の意識が無くなっていたとしても、息を引き取るまで、ずっと母の傍にいてあげるべきだった)

    医師から、持って後1週間くらいと告げられた時、病院に泊まり込んで母の傍にいたいと思った。でも、1週間も仕事を休むのは無理だからと諦めた。あの時、何とかするべきだった。
    意思疎通ができなかったとしても、母の傍にいて、母の手を握りしめ、いろいろ語りかけてあげたかった。

    (私の声に反応しなくても、耳は聞こえていたのかもしれないのに)

    私と一緒に暮らしたかったという、母の望みを叶えてあげられず、最後の1週間も傍にいてあげられなかった。なんて薄情な娘なんだ、と自分を責めた。
    だから、火葬までの二晩を母と2人きりで過ごす。それは当然のことであり、そうしなければいけない、と強く思った。
    最後の親孝行として……。


    私は安置されている母の傍に座布団を敷き、座り込む。
    横たわる母をまじまじと見つめ、語りかけた。

    「母さん、今日と明日はここに泊まるから安心してね。ずっと一緒にいるからね」

    反応がない。当然だ。それが死、なのだ。
    現実を突きつけられる。
    でも、私の言葉はきっと母に届いてるはず、と自分に言い聞かせる。

    ふと、ずっと感じていた疑問が頭をもたげる。
    なぜ、母は死ななければならなかったのか?
    特に病に冒されていたわけでもないのに。
    自宅で倒れたのをきっかけに衰弱していったのだが、そもそも倒れた原因は不明だった。
    入居できる施設が見つかるまで入院していたが、なかなか見つからず、そうしているうちに肺に水が溜まり、次第に食事が摂れなくなっていった。長引く入院生活で、ずっと寝たきりだったのがいけなかったのか?

    (全て私のせいだ。一緒に住んでいたら、母は死ななくても良かったのだ)

    母の頭に手を伸ばし、そっと髪を撫でる。

    「母さん、ごめんね。私のせいでこんなことに……」

    母に寂しい思いをさせた私は、きっと因果応報で、自分の晩年は孤独で寂しい日々になるのではないか? そう思えてならなかった。覚悟しておかなければならない。

    母を見つめながら、葬儀社の人に言われたことを思い出した。死化粧するのを勧められていたのだ。

    「母さん、私が化粧してあげるね」

    そう話しかけ、私はバックから化粧ポーチを取り出す。
    母の顔にかけてある白い布を、そっと取り去る。その素顔を、じっと見る。ただ、眠っているように見える。再び、同じことを考える。

    (本当に母は死んだの?)

    私はリキッドファンデーションを指に取り、母の顔全体に力を入れすぎないよう、優しく薄く伸ばしていく。
    次はペンシルで眉を書く。母の眉も、私と同じように薄い。何度もペンシルを引いて、重ね塗りする。薄茶色の、弓なりの眉が出来上がった。

    「そういえば、母さんに化粧するの、これが最初で最後だね。ねっ、ねっ! 母さん!」

    私は語尾を強める。そして思った。何か言葉を返してほしいと。

    「ねぇ、母さん。聞こえてるんでしょう?」

    無言で横たわる母を凝視する。

    「何で黙ってるの? 聞こえてないの? 眠いの? 具合悪いの?」

    感情が高ぶる。目の奥が熱くなる。
    母と言葉を交わしたい。もっと頻繁に見舞いをして、母とお喋りしたかった。

    そういえば、見舞いを終えて帰ろうとすると、母はいつも寂しそうな顔をしていた。
    そして、こう訴える。まだ帰らないで、と。

    「母さん、もしかして怒ってる? 寂しい思いさせて、ごめんね。怒ってるから、口きかないのよね? そうなんでしょう?」

    私は深い溜め息をつく。

    「母さん、責めてしまって、ごめんね。化粧、続けるね」

    紅筆で口紅をすくい取り、母の唇に塗り重ねていく。

    「ちょっと赤かったかな? でも、今これしか持ってないから許してね」

    最後にパウダーをパフに取って、優しくぴたぴたと押し当て、全体に広げていく。
    母と2人きりの空間で化粧を施す私の心は、徐々に満たされていった。

    「うん、綺麗になったね。母さん、気に入ってくれた?」

    私はしげしげと母を眺めた。綺麗になった母に、満足した。
    化粧のおかげで肌に血色が戻ったようで、生きているような錯覚を覚えた。
    こうしている間に、母に寄り添える時は刻々と過ぎていく。

    (もっと、ずっと、ここで母と一緒にいたい)

    「母さん……」

    再び目の奥が熱くなり、涙が滲む。
    昨年父が亡くなり、翌年に母も亡くなるとは思ってもいなかった。
    自分が天涯孤独になってしまったように思えた。
    私は身じろぎもせず、新たな悲しみに沈んでいた。

    ふと、ひらめいた。
    バックからスマホを取り出し、祭壇の前に座った。

    「母さん、お経を唱えてあげるね」

    僧侶がお経を唱えている動画を探し、字幕を見ながら一緒に唱えた。祭壇の脇に置かれていた木魚を借りて、動画に合わせて叩いてみた。
    そうしてお経を唱えているうちに心が落ち着き、幾分悲しみも薄らいでいった。

    「母さん、ちゃんと聞いてた? あまり上手じゃなかったよね? 許してね。あっ、そうだ。明日、セイ子叔母さん来るって言ってたよ」

    大阪に住んでいる叔母さんは、遠く離れていても、いつも母のことを気にかけていた。
    帰省する度に母のもとにも必ず訪れ、姉さん、姉さん、と慕っていた。よく電話もかけていたようだ。とても仲の良い姉妹なので、一人っ子の私は羨ましいとさえ思っていた。
    叔母さんも今頃、深い悲しみに沈んでいるだろう。

    約1週間前、叔母さんにそろそろ母が危ないことを涙ながらに電話で伝えると、一瞬言葉に詰まっていた。が、高齢だし仕方ない、受け入れるしかない、というようなことを言った。
    恐らく電話の向こう側では、叔母さんも涙ぐんでいたのかもしれない。
    母の世話をおろそかにしていた自分のせいで、叔母さんを悲しませることになってしまい、申し訳なかった。

    明日に備え、私は就寝の準備に取りかかった。
    パスタブに湯を落とし、身を沈めて目を閉じる。温もりに包まれ、ホッとすると同時にまた目頭が熱くなり涙が滲む。
    今日は、もう何回泣いたのか分からない。泣くとスッキリするというより、余計悲しみが増していくようだった。
    入浴を終えると、母の傍に布団を敷いた。母との間に祭壇があるため、1メートル以上の間隔が開いている。
    私はパジャマに着替えながら、母に話しかける。

    「母さん、一緒の部屋で寝るの、私が小学生の時以来だね。あっ、そうだ。母さんの好きな缶コーヒーあるよ。飲むよね?」

    部屋に備え付けの冷蔵庫から缶コーヒーを2本取り出し、母の枕元に置いた。

    「1本だと足りないと思って、2本持ってきたよ。でも夜に飲むと、眠れなくなるかな? いいよね? ずっと飲んでないから、飲みたいよね?」

    無言の母を見て思った。本当に、飲んでくれたらいいのに、と。

    私は明かりを消し、布団に入った。

    「母さん、お休みなさい」

    目を閉じ、今日1日を振り返る。
    依然として悲しみはあるのだが、母の隣で眠りに就くのは私に安心感を与え、穏やかな心地にさせた。

    その夜、夢を見た。昔、実家で飼っていた雑種犬のダイスケを、私と母が散歩させていた。母とお喋りしながら、笑い合っていた。

    (なんだ、母さん生きてたんだ。死んだと思ったのは、間違いだったんだ。そっか、そっか、良かった)

    私は夢の中で、ホッと胸を撫で下ろしていた。
    翌朝目覚めると見慣れない天井が目に入り、自分がどこにいるのか認識するまで、多少の時間を要した。
    線香の香りに誘われ、横に顔を向ける。祭壇が見え、昨日の一部始終が甦った。

    (さっき見たのは夢だったのね。母さんが生きてて良かったと安心していたのに……)

    溜め息をつきながら布団を畳み、所定の場所に仕舞う。母の傍に行き、声をかけた。

    「母さん、おはよう。缶コーヒー飲んだ? 美味しかった? 今日、セイ子叔母さん来るから、駅に迎えに行くからね」

    無言でいる母にも、幾分慣れたような気もした。


    駅に到着し、待合室で電車から降りてくる乗客を1人1人確かめる。が、その中にセイ子叔母さんの姿は見当たらなかった。
    電車に乗り遅れたのかと思った矢先、自分の名前を呼ばれて、ハッとした。目の前にいる女性がセイ子叔母さんだと、すぐに認識できずにいた。なぜなら、記憶にあるセイ子叔母さんの姿から、かけ離れていたから……。
    最後にセイ子叔母さんに会ったのは、約7年前だ。過ぎ行く歳月のせいで老けたのかもしれないが、面差しの変化は母の死が原因だろう。
    慕っていた姉の死によって、喪失感に打ちのめされ、憔悴したことが外見に表れたのではないだろうか。

    私はセイ子叔母さんに労いの言葉をかけ、共に葬儀社へと向かった。
    遺体安置室に入るや否や、セイ子叔母さんはすぐさま母のもとに駆け寄る。

    「姉さん、セイ子だよ、セイ子が来たよ!」

    大きな声で呼びかけ、掛け布団をめくった。
    母の肩に手を添え、

    「セイ子だよ、分かる? セイ子が来たんだよ! セイ子だよ! セイ子が来たよ!」

    セイ子叔母さんはますます大きな声を発し、母の顔や腕にも触れていった。
    セイ子叔母さんの声音に次第に悲哀が込もっていくのを感じ、私はいたたまれなくなった。セイ子叔母さんの悲しみが、痛いくらい伝わってくる。

    「セイ子だよ、セイ子だよ! こんなに痩せちゃって……」

    私は心の中で、叔母さん、ごめん、私のせいで母はこんなことに、と呟いた。
    もしかしたら叔母さんも、母と2人きりになりたいのではないかと思い、ちょっと買い物してくるね、と声をかけて外に出た。

    買い物を終えて戻ると、セイ子叔母さんは虚ろな目をしてテーブルの前に座っていた。

    (母と2人きりになって、たくさん話しかけたのだろうか?)

    「そろそろお昼だし、お腹減ったんじゃない? 
    好きなの食べてね」

    私は弁当やパン、お菓子をテーブルの上に置いた。

    「食欲ないから、お菓子でいいわ」

    セイ子叔母さんはお菓子に手を伸ばした。

    「さっき、姉さんの全身を見たよ。足もずいぶん痩せて細かったよ」

    「そっか、そうよね。ごめんね、叔母さん。私が母さんをちゃんと世話しなかったから、こんなことになってしまって」

    「まあ、長生きしてほしかったけど、高齢でもあったし、仕方ないよ」

    セイ子叔母さんは自分を納得させるかのように、しんみりと言った。
    もしかしたら私以上に、喪失感にさいなまれているのかもしれない。そんな気がした。

    2日間、母と同じ部屋で食事を摂り、テレビを見たり、まるで自分の部屋のように過ごした。
    返事が返ってこなくても、母にたくさん話しかけ、濃密な時を共有できた。
    2日間で最後の親孝行をしたつもりでいたが、ちゃんと母に伝わっていただろうか?
    それとも、2日じゃ足りないって思ってるだろうか……。


    納棺の儀を終え、火葬の時刻が迫ってくると、次第に不安になってきた。
    このままずっと、母の傍にいたかった。
    だから、火葬後に母の肉体が無くなってしまうなんて、耐えられるだろうか? と恐れた。


    火葬炉の扉が閉まり、点火する瞬間、私は耳を塞いでしまいそうになった。
    あの、ガチャン、と扉が閉まる音は、この世から分断され、魂があの世へと旅立つのを連想させる。

    ゴォ~っと、炎が燃え盛る音が響き渡る。
    私は俯き、手を合わせる。

    (母さん、熱いよね? 大丈夫?)

    炎に包まれている母を思うと、いたたまれなかった。胸が重苦しい。
    母さん、母さん、と胸の中で何度も呼びかけた。

    お骨上げの場所に移動し、母の真っ白な骨を見下ろす。

    (母さん、とうとう、骨だけになってしまったのね)

    遺骨は母のものなのに、それはもう母ではないような気がした。母はきっと、どこか遠い場所へ行ってしまったのだ。
    複雑な気持ちで、母の骨を拾う。
    セイ子叔母さんは、じっと母の骨を見つめていた。その胸中にどんな思いが秘められているのか。

    骨が全て骨壺に収められると、私は幾分落ち着きを取り戻した。
    私は骨壺を、両腕でギュッと抱きしめた。
    母さん、大丈夫? 気分はどう? と話しかけた。

    すぐに納骨したくなかった私は、当分自宅に安置することにした。
    仏間に入ると、いつでも母に会える。
    四六時中、母が傍にいるようだった。悲しみと寂しさは消えはしないが、その代わり、母への感謝の気持ちが生まれた。
    いつも胸の奥に、母がいる。母の死後、そう感じるようになった。

    仏壇の前で母の遺影を見つめる。そこには笑顔の母さんがいる。
    笑顔だけど、無口な母。生前はあんなにお喋りだったのに。たまには何か喋ってよ、と話しかけてみる。
    聞こえているのかいないのか、母は黙って穏やかな笑みを返す。

    母と過ごしたあの二晩は、私の胸にくっきりと焼きついている。生涯、消えることのない刻印のように。

    母さん、最後にちゃんと親孝行できたかな?
    でも、まだまだ足りないよね。
    二晩、母さんと2人きりで過ごしたこと、忘れないでね。
    ずっと覚えておいてね。母さん。
    私は、絶対忘れない……。




















     
     
    人生の折り返し地点を過ぎ、今後 ますます後悔しない選択をしていきたい。愛読書は渡辺淳一、連城三紀彦の作品。知、意より情が大事。空虚より傷心を望んでる。過去に自費出版しましたが、なかなか売れず、在庫山積み状態です。趣味でベリーダンスを始め、定期的に発表会やイベントで踊ってます。

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