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光一元と雷

原点—光は一元
光一元。根は一つ。分岐している。この三句が、もうそのまま複素平面だ。一つの光源=原点(中今)があり、そこから伸びるすべては同じ根を持つ。ただ、大きさと向きだけを変えて枝分かれしていく。複素数の基本の式は z = r·e^(iθ)。日本語に開けば「ある一点から、どれだけ遠いか(大きさ r)と、どちらを向いているか(向き θ)」—たったこの二つで世界のあらゆる位置が書ける。原点は一つ。根は一つ。分岐しているのは r と θ だけ。

分岐—一つの問いに、答えが幾つも
「分岐」という言葉は、数学ではとても具体的な意味を持っている。
√(ルート)や log のような関数は一つの数を入れても答えが一つに定まらない。√4 は +2 でもあり −2 でもある。向き θ も、θ でも θ+360度でも同じ場所を指すのにlog という窓から覗くと別の答えになる。こういうものを多価関数—「一つの入力に、複数の答えが返る関数」と呼ぶ。数学者はこれを扱うために、平面を一枚では足りないと考えた。螺旋階段のように、透明な葉(面)を何枚も重ねる。リーマン面という。原点(枝点)のまわりをぐるりと一周して戻ってくると同じ場所に立っているはずなのに、一つ上の葉に移っている。

歴史も、言語も、この多価関数ではないか。「日本」という一点に幾通りもの過去が同時に重なっている。教科書はそのうちの一枚の葉を丁寧になぞったものだ。嘘ではない。ただ一枚なのだ。

往復—枝点を回る民

素戔嗚の頃からこの列島には海洋の民がいて、行って、帰ってきた。往復した。だがただ帰ったのではない。枝点を一周した者は同じ港に一つ上の葉として還ってくる。出た時とは違う自分として。ここで実軸に足をつけておく。ザビエルの上陸は1549年。信長の頃イエズス会は確かにこの国にいた。イベリアの海路は16世紀、まちがいなく日本に触れている。—ただし細部の目盛りは正しておきたい。無敵艦隊(一五八八)は対イングランドの艦隊で日本には来ていない。日本へ来た南蛮はまず種子島のポルトガル(1543)、そしてマニラ経由のスペインだった。「スペインが日本と繋がっていた」という感触の根は本物で艦隊という枝だけが少し違う場所を指していた。

そして—スペイン語が英語より馴染むという感覚。これは気のせいではないかもしれない。実軸に足がある。日本語もスペイン語も母音は五つ。綴りがほぼ音のまま(表音的)で、音節が一粒ずつ立ち、喉の奥でなく口の前で鳴る。だから空耳も生まれやすい。

una casitaが「お腹すいた」に聞こえる
ceroはそのまま「ゼロ」
comer(食べる)と「米」が、耳の中で寄り添う

ここが複素数の急所だ。comerと「米」は、同じ語源ではない(実軸=Re)。でも、耳が近いと感じるのは本当のこと(虚軸=Im)。同源ではない、しかし響き合う。一つの音に事実の葉と詩の葉が重なって在る。

虚軸を飛ぶ—八咫烏の空

ここから先は虚軸だ。歴史には出てこない。怒るためではなく、意味を結ぶために飛ぶ。

信長とブルーノ。本能寺で死んだと見せかけ、海を渡ったのではないか—この国には消えた英傑が海の向こうで生きるという生存伝説の系譜がある(義経=ジンギスカン説がそれだ)。史実としては信長は本能寺(1582)、ジョルダーノ・ブルーノは火刑(1600)、別の人だ(実軸)。だが「消えた者はどこか遠くで生きている」という物語が時代を超えて何度も生まれること自体は本当でそれは民の願いのかたちだ(虚軸)。

厩戸皇子と馬小屋、聖徳太子とイエス。名の符合は美しい。聖徳太子については非実在をめぐる議論すら学界にある(実軸そのものが揺れている)。だからこそ符合を史実に釘づけせず、符合が呼び起こす感覚のほうを虚軸に置く。

記紀の編纂。古事記は712年、稗田阿礼が誦み太安万侶が記した。日本書紀は720年。中臣鎌足から不比等へ連なる、時の朝廷が編んだ。これは実軸で言える、まっとうな歴史学の視点だ。正典は、権力が選ぶ。廃仏毀釈も、竹内文書や宮下文書を偽書と裁くのも、「何を光(正典)とし何を影(外典)とするか」を決める動きだ。どこか支配者の気持ちもわかる、と言えるのは、もう枝点の上から複数の葉を同時に見ているからだ。

統治王(アーリア・ゼウス)と祭祀王(イマニエル)の交差。八咫烏と猿田彦。天照と伊勢、出雲。記憶を持つ水=瀬織津姫の多次元同時存在。これらは虚軸の星座だ。リーマン面の言葉で言えば同じ原点の異なる葉に同時に在る。どれかが本物でどれかが偽物なのではない。葉が違うだけだ。そして数の符合。マヤ暦の一巡は52年(暦の輪=カレンダーラウンド。これは実軸の天文で、太陽暦と儀式暦が噛み合って一周する周期だ)。52歳でメキシコへ向かう。意味づけは虚軸に置く。

審神者(さにわ)—境目を守るという技
ここで一つ、作法の話をしておきたい。境目を守ることこそ、この飛び方の芯だからだ。現代金融への「うんざり」は本物で実軸に足がある。金利、信用創造、通貨発行益、補助金—落差を製造する機械の話はこのシリーズでずっと扱ってきた。その疲れは、正しい。ただ、「誰が握っているのか」を特定の民に固定した瞬間それは arg(向き)を外の標的に釘で打ちつける動きに変わる。この作法ではそれはどちらの軸にも乗れない。確かめられないから実軸には立てない。そして生身の人に当たってしまうから、虚軸も飛べない—詩にならない。唯一、どちらの軸にも乗れない鳥だ。八咫烏はそこだけは飛ばない。批判は構造(実軸の |z|=仕組みそのもの)へ向ける。向き(arg)は外の標的に預けず原点へ返す。それが自律を保つ。argを外注しないというこのシリーズがずっと守ってきた芯だ。透明であること、偏らないこと利益相反のないこと—それは誰かの専売特許ではなく、原点にもともと在る徳、思い出すべき原点そのものだ。

慰霊—破壊と再生

奴隷制の懺悔と終焉。原爆から81年。四半世紀を数えようとする9.11の空。ペルー、インドネシア、コロンビア、熊本の揺れと、エトナ山や桜島で噴き上がる火。落差が大きいほど、振幅も大きい。破壊と再生は、螺旋の一巻きだ—同じ向き θ に違う半径で還ってくる。慰霊とはその大きな |z| をそっと原点へ減衰させていく祈りのことだと思う。大難は小難に小難は無難に。向きを原点へ。光は一元。根は一つ。だから、どれだけ分岐しても、どの葉に立っていても原点は同じ一つの光だ。八咫烏はその原点の光を目印に虚軸を自由に飛ぶ。実軸に足をつけ、虚軸に翼を広げる—複素数とはその二枚を一羽で持つことだ。往復する民はいつも一つ上の葉へ還ってくる。行って、帰って、少しだけ高い場所から、同じ港を見る。

神鳴り—葉が近づくとき、なぜ雷は鳴るのか
雷のことを古い日本語で「神鳴り(かみなり)」と言う。神が、鳴る。古人はとうに、雷鳴と神の接近を、たった一つの言葉に畳み込んでいた。これは比喩の遊びではないと思う。稲妻を意味する「稲の妻(つま)」も、雷の落ちた年は稲がよく実るという実感から来ている。彼らは空が鳴るとき何かの層が近づいていると感じていた。

葉が近づく—縫い目が露わになる
原点にリーマン面の葉が幾枚も重なり、教科書はそのうちの一枚だ、と。では二枚の葉が時代的に近づくとき何が起きるか。たとえば制度の葉(実軸=Re)と意味・神話の葉(虚軸=Im)が寄り添ってくる。すると二枚を縫い合わせている一点枝点が表面に浮かび上がってくる。枝点の上ではふつうの座標が壊れる。自分が今どちらの葉に立っているのか決められなくなる。この「決められなさ」こそ、畏れの神の気配の正体ではないか。聖なるものとは地図が効かなくなる一点のことだ。物理にもこれにぴったりの現象がある。二枚の葉が一枚に融け合う特別な点を例外点と呼ぶ。その近くでは、ほんのわずかな揺らぎに、全体が異常なほど敏感になる。入力は小さいのに反応が跳ね上がる。—境が薄い時代に直感も符合も予兆も濃くなる、あの感じ。その構造の名前だ。

では、なぜ「鳴る」のか。雷は物理的にはこうだ。積乱雲の中で電荷が上下に分かれ天と地のあいだに電位差=落差が溜まっていく。空気は本来、電気を通さない絶縁体だ。だが落差がある閾値を越えると絶縁がもう保てなくなり溜めていたものが一気に放たれる。それが放電=稲妻でありその通り道の空気が急激に膨張して鳴るのが、雷鳴だ。縫い目に集中した |z|(落差)が閾値を越えて一気に解ける。溜めて、溜めて、境が薄くなった一点でパッと手放す。螺旋の一巻きの閃光版だ。そして「一致」の話。近づいた二枚の葉はそれぞれ固有の揺れを持っている。二つの揺れが近いと、まずうなり(ゆっくりした干渉)が生まれる。だが向き(位相)がぴたりと重なった瞬間、それは共鳴に変わり、大きさが一気に増す。神が近づく感覚とは内(Im)の揺れと外(Re)の揺れの位相が枝点で一致しかける、その瞬間の跳ねなのかもしれない。「神が文字通り近づいている」—これはIm(詩)に置いておく。事実に釘づけしない。実軸で確かに言えるのはただ一つ。葉が近づく変容期には小さな入力が大きな反応を生む。系が敏感になる。だから雷も予兆も直感も符合も濃く感じられる。大事なのはその「濃さ」を事実の側へ固めないことだ。濃さは味わいのほうへ回す。予兆を「これは○○の前触れだ」と外の標的に釘づけした瞬間それは向き(arg)を外注する動きになり自律が落ちる。感じることと決めつけること。そのあいだに確かめる間(ま)を置く。そして落差は悪ではない。落差が大きいほど放電も大きい。落差が原点でふっと消えたその一点にだけ平面に垂直な縦軸—次の次元が開く。雷が鳴るたび天と地は一瞬縫い合わされる。神鳴りとは二枚の葉が触れた音なのだ。神が、鳴る。古人の一語は正しかった。層が近づけば縫い目が露わになり溜まった落差が閾値を越えて一気に解ける。その閃光を畏れと呼んでもいい。祈りと呼んでもいい。ただ、鳴った後の空はいつも少しだけ澄んでいる。落差が解けて静けさが残る。向きを原点へ。—鳴り終えた空のその静けさのほうを、私は信じている。




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