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真田剣忍帖 


    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門 #伝奇時代小説 #10万字完結

    著者 土師 東
    あらすじ
     大坂夏の陣から十八年後、ある若者が江戸市中で斬象剣という剛剣を操る裏柳生の剣士、鉢屋采女に襲われた。若者の名は真田剣之介。真田大助の忘れ形見で幸村の孫にあたる。徳川幕府は剣之介の持つ名刀一両筒に豊臣家の宝の在処を示す秘密が隠されていると疑っていたのだった。
     幕府隠密と死闘を繰り広げるなか、剣之介は宝の疑義を晴らすべく、幕府老中並伊豆守の屋敷に単身乗り込み、一両筒を伊豆守に預けて立ち去るが、一両筒は裏柳生の柳生刑部によって盗まれてしまう。これを追った霧隠才蔵の娘ゆいは一両筒を取り戻すものの、采女が先頭に立つ柳生忍軍の執拗な追跡で窮地に追い込まれてしまう。
     剣之介はゆいの救出に向かい、采女と対峙する。一両筒と斬象剣の最終対決が始まった。そして豊臣家の宝とは…

    本文
    起の序

    「その刀、置いて行け」
     闇を切り裂く声に続いて飛来した手裏剣が夜道を照らす提灯を破った。破れた提灯の中で分断された蝋燭が踊り、外紙が燃え上がる。束の間の精気を放つ炎が襲われたふたりを照らし出した。荘年の武士と二十歳にも満たなそうにみえる若武者だった。
    「何奴?」
     荘年の武士は炎に包まれた提灯を投げ捨てると、すかさず刀の束に手をかけた。空き手を使い、かばう仕草で二歩後ろの若者を背後に押しとどめる。すでに亥の刻四つを回り、辺りは人の往来などあろうはずもない時分となっていた。半月に満たない弓張月は、先刻よりせり出した雲に淡い光を遮られている。荘年の武士が消え入る炎を頼って目を凝らすと、闇の奥に人影があった。
    「賊は三人か」
     中央に大男を据えた三人組が行く手を遮っていた。
    「命まで置いて行けとは言わぬが、この先に用があるなら刀を捨て置け」
     左端の男が通りのよい低い声で再び促した。
    「はてさて冥府の弁慶殿が甦ったかな。五条大橋ならいざ知らず、ここは江戸市中ではないか」
     緊迫した状況で発した若者の声は驚くほど落ち着いていた。相手にはむしろ挑発含みの軽妙な軽口にしか聞こえかねない。
    「小童、牛若を気取るつもりか。よほど首を失くしたいようだな」
     右端の男が語気鋭く声を荒げた。弁慶に模された男は微動だにしない。闇夜に慣れてきた若者の目には六尺をゆうに超える巨躯と見てとれた。放髪を肩まで垂らしたそら恐ろしい風貌は、弁慶というより牛頭馬頭を従えた閻魔を思わせる。
    「伊達藩の者と知っての狼藉か?」
     腰を落として身構えた荘年の武士が吠えた。
    「伊達藩馬廻り役岩淵長門殿……」
    「うむむ、我が藩に仇なす者どもかっ」
     名指しをされて驚いた荘年の武士は抜刀をすると、四間ほど離れた一味を目指して駆け出した。呼応した左右の地獄の獄卒が岩淵長門に襲いかかる。牛頭馬頭が手裏剣を放つも、岩渕は刀の棟で弾き飛ばし、足捌きを緩めずに進んだ。
     岩淵は攻撃の隙を与えず、左の牛頭を袈裟がけに斬り倒すと、返し刀で右の馬頭を斬り上げた。熟練の腕がなした一連の早業だった。
    「ふん。他愛もない」
     眼前には巨躯の閻魔のみが残された。
    「岩淵氏、気をつけめされよ。三人目の男はかなりの手練れ」
    「一気に片をつけてくれる」
     若者の声が耳に入らなかったのか、岩淵は閻魔へと切っ先を定め、斬り込んだ。
    「いゃああ」
     ぎゃりーん。
     激しく合わさった刃の悲鳴が乾いた夜空にどこまでも響く。
     が、二合目はなかった。
    「うぐがぁあああああ」
     気合いの一声がすぐさま闇夜を切り裂く絶望の声に変わった。雲は凄惨な死の影を覆い隠すように月明かりを拒絶していた。岩淵の身体は閻魔の剛剣によって袈裟懸けで斬り下げられ、刀傷は腹部に達していた。無防備に大地に音を立てて崩れ落ちた身体に逆らって、岩淵長門の魂ははやばやと地上を離れようとしていた。
    「一合だけでも刃を合わせた腕のほどは冥土で誇ってよいぞ」
     抑揚のない怜悧な声が闇に響く。
    「さてと、おれとお主しか残っておらぬが、どうする? 佩刀を置いていけば命くらいは助けてやるが」
     雲がたなびき、頼りなさ気な月の光がまだぬくもりを残す死体を挟んで対峙する両者を映し出した。閻魔は雲の切れ間をついて覗く一条の月光に抜き身の殺人剣を晒したままだ。吸ったばかりの生き血が剣先から零れて硬い地面で撥ねていた。足元にはすでに三体の亡骸があった。
    「まだ若いようだが、歯向かうとあれば容赦せぬ」
     閻魔は目を離さず、若者を値踏みしていた。
    「なぜに伊達藩士を狙い、刀狩りをする?」
    「ぬしの知るところではない」
     先のひと言とはうって変わって、急に声量が跳ね上がり、四辺にこだました。が、剣はまだ一寸たりとも動いてはいない。
    「閻魔殿、引けとか言っているくせに、再び殺気を放ち始めたではないか。こちらまで斬るつもりかな」
     形相を変えた閻魔は足を一歩前に踏み出した。若者に臆した素振りは見当たらない。
    「小童のくせに岩淵とかいう奴よりは使えそうに見えるな。となると無性に斬ってみたくなったわ。ふ、ぬしもこの斬象剣の錆びと消えるか。腰の物は飾りではあるまい。早々に抜いてみたらどうだ?」
     自ら斬象剣と呼ぶ一刀を血糊も拭いもせず鞘に納めると、異様な肩幅の巨躯を一歩、また一歩と悠々踏み出して、若者との間合いを詰めていった。
    「はは、察しの通り、これは飾りなのさ。抜くのはどうも気が進まない」
     声に怯えはなく、むしろ相手を揶揄する口調になっている。
    「獣さえ鳴かぬ今宵、ここで出くわした己の不運を嘆くがよい。冥土の土産に教えてやろう。このおれの斬象剣はな、血を吸えば吸うほど刃金が強さを増してくるのだ。俺の前を遮る森羅万象全てを斬り裂いてくれるわ」
     辺り一面を覆う殺気は閻魔本人が発したものか、はたまた剣が醸すものか。斬象剣と一体になった鬼気に包まれた閻魔は、まごうことなく剣鬼の化身だった。
    「今度は居合いだな」
     軽い口調を消した若者がやや腰を落とす。一撃可能な間合いに近づいてきていた。
    「まだ抜かぬのか?」
     閻魔が一歩にじみ寄る。
     鞘に収めた剣の柄に手をかけながら、総髪の死神の体躯が驚くほどの跳躍を見せた。
    「しゃーああ」
     斬象剣が抜き放たれ、刃先が胸元を捉えたかに見えた。が、そこに若者の姿はない。若者は相手に劣らずの跳躍で宙高く浮かんでいた。閻魔は降り立つ位置を測り定めて、走る。着地が先か剣先が達するほうが速いか。いずれにせよ一寸程の差でしかない。
     両者の隙のない視線が絡んだそのとき、耳をつんざく爆音が大気を揺らし、若者と剣鬼の中間で白煙がまたたくまに立ち昇った。
     ばああぁぁーん。
     耳をつんざくほどの爆発音が漆黒に徐々に溶けていく。続く静寂。闇夜でも見分けられる白い煙が空中に消えていくと、中心には斬象剣の切っ先を地面にふれんばかりにたらした閻魔の姿がひとりあった。若者の姿も影ももはやどこにも見いだせなかった。
    「ふん、きゃつめ、忍びであったか。ふっふ、仲間も二、三匹いたか。気づかなかったはおれの不覚か」
     閻魔は刀を収めてもなお、自らが屠った死体を見降ろしながら、殺気を残したまま立ち尽くしていた。
     
     生死のやりとりをしていた辺りを二丁ほど離れた暗い道を、軽やかな足捌きで歩く三人がいた。
    「若、あまり無謀な行いはなさいませんよう」
     やや猫背の好々爺然とした老人が、右手少し前を歩く若い武士を強く諫めた。牛若と呼ばれた若者だ。
    「江戸はいるものだな、桁外れの手練れが。悪鬼と言ったほうがよいか」
     若者は神妙な顔つきをしている。。
    「岩淵殿には気の毒をした。無理にでも制止すべきだった」
    「いずれにせよ、ひやりとしましたぞ。相手を挑発する戯れ言はお止めなされ」
    「はは、命乞いをしても斬られていたな。この刀を置いてくればよかったかな」
    「渡辺綱じゃあるまいし。わたしが煙幕玉を投げなければ、今ごろは軽口など叩いていられないはず」
     老人の左手を歩く小姓姿が口を挟んだ。
    「まったくだ、助かったよ、二代目。綱の相手は酒天童子で閻魔ではないがな」
    「その呼び名は好かん。煙幕玉は顔に投げつけておけばよかった」
     小姓が怒る。
    「これ、若に向かってなんという言い草」
     これだけの早足にも若いふたりはおろか老人には息の乱れは感じられない。
    「しかし……」
    「しかし、ではない。口を慎め」
     若者が嗤って引き取った。
    「かまわぬよ、じい。わたしが悪いのは判っているのだが、つい昔の癖でやっかい事に首を突っ込んでしまう。この首が胴体についているのは、煙幕玉のおかげだよ、才蔵殿」
    「それも好かん。二代目とか才蔵とか単に侮っているだけだ」
     小姓が語気を強めた。
    「これ、また」
     老人がたしなめる。
    「でも……」
    「若も悪いですぞ。そもそも江戸の往来で勝負などとはもってのほか。たとえ勝ってもこちらの益などひとつもない」
    「おやおや、こちらに矛先がきたか。勝てるかどうかも怪しいものだ」
    「さよう、あの男の腕は並外れておりましたわい。後れをとったら、どうなさる?」
    「どうなさるって、斬られればこちらの未熟、と諦めるしかない。岩淵殿が斬られた後では命乞いをして尻尾をまいて逃げるわけにはいくまいよ」
     老人の語気が強くなった。
    「いけません。武士の意地など無用になされ。かならず勝てる相手でなければ逃げるのが得策です。わしらがもう少し早く合流していれば、あるいは岩淵殿も救えたかも」
    「すまぬ、じいの言う通りだ。心配をかけた。だが……」
     老人はまだ収まらない口調で、
    「だがな、ではありませぬ。若い者は危険を冒しておいて言い訳ばかりじゃ。とにかく自重なされ」
    「ほかのふたりを斬り伏せたのは岩淵様?」
     小姓が若に聞いた。
    「そうだ。倒した相手はおそらく忍び。岩淵殿の名は知っていたし、物取りや辻斬りではない」
    「もしや若を追っていたのではありませぬか。あれだけの凄腕。雇い主のいない刺客とは到底、思えませぬ」
    「かといって既知の流派ではなかったぞ。不思議な剣の遣い手だな。じいの心配の通りまともに打ち合えば、こっちも腕の一本くらいは持っていかれていたな」
    「閻魔は刀がどうとか?」
     小姓が尋ねる。
    「わたしたちの刀を狙っていた。とすると……」
     提灯も持たず窪にも足を取られず、三人は闇の夜道をすり抜けていった。
     
    起の破
     麻布仙台坂の仙台伊達藩下屋敷。最も奥まった一室にさきほどの若一行が鎮座していた。不寝番以外の家人はすでに寝静まっている。すっと襖が開き、いかつい風貌をした五十がらみの偉丈夫が入ってきた。
    「おう、剣之介、待たせたな。息災であったか。佐助もな」
     剣之介と呼ばれた若者に笑いかけながら、男は上座に腰を下ろした。剣之介は主従ともども深々とお辞儀をする。
    「叔父上もご健勝であらせられますようで」
    「いやいや、近頃はなにかと衰えを感じるわい」
     片倉重綱。大坂の役からこのかた、すでに十八年の歳月を経てもなお戦国武将の名残りを醸し出している。
    「岩淵殿は気の毒を致しました」
    「藩内でも屈指の遣い手だったのだが、惜しいことをした。しかし岩淵も伊達藩士よ、国元を出た日より覚悟はできておるはず。責を負うのはお主ではなく、このわしだ。遺体はのちほど引き取りにいかせる」
     重綱は打って変わって沈痛な面持ちで答えた。
    「叔母上はお元気ですか?」
     剣之介は話題を変えた。
    「達者だ。阿梅はもとより、大八も白石城の水が思いのほか合っておるわ」
     重綱の後妻阿梅は大坂夏の陣で戦没した真田幸村の三女で、剣之介の叔母だ。大八は幸村の二男で、この時期幕府の目を逃れ、白石城に匿われていた。剣之介の叔父にあたる。剣之介の父は阿梅の異母兄真田大助。佐助と呼ばれた小柄な老人はもちろん猿飛佐助である。
     東軍伊達正宗の将として従軍していた片倉小十郎重綱と西軍真田幸村との結びつきは敵として相対する戦場において始まった。幸村率いる真田勢が徳川家康の本陣に決死の突撃を行う前日、真田十勇士のひとりとして巷に名を馳せた猿飛佐助は幸村から意外な命を受けた。
    ―片倉小十郎重綱? あの鬼の小十郎といわれる伊達の先鋒の武将で?
     重綱は当時、家老職についていた父、小十郎景綱の名籍を継いで小十郎重綱と名乗っていた。のち徳川家光の嫡男家綱をはばかり、小十郎重長と改名。夏の陣では大坂方の猛将後藤又兵衛と薄田兼相を打ち取っている。薄田の前身は語り草となる武勇伝を生んだ岩見重太郎とされる。
    ―さよう。その重綱の陣屋に阿梅を届けよ。この六文銭の印のある小刀を渡し、よしなにと言上して、阿梅を置いてまいれ。
    ―敵軍の武将の元に阿梅様を? みすみす徳川方へ人質をやるようなものではありませぬか。
    ―そうではない、と幸村。こたびの徳川方の陣ぶれを吟味すると、伊達軍が最も覇気に溢れていた。なかでも重綱の陣容がひときわ優れていたわ。かねてより海野六郎に調べさせておったのだが、重綱は質実剛健にして怜悧な資質を併せ持った男であると確信した。よって阿梅の行く末を託すと決めたのじゃ。
    ―上杉様か信之様にお預けになったほうがご安心かと。なにゆえ敵方に。ひとつ間違えば姫様は家康の元に送られてしまうでありましょう。
     幸村は語る。この戦い、どう転んでも大坂の負けじゃ。将軍家に睨まれている景勝殿や兼続殿に迷惑はかけられぬ。ましてや兄上に預けたりすれば、この先折に触れ徳川の迫害にあい、真田家の存続が危うくなるだろう。
     そこでじゃ、外様ではあるが、東軍では内府を凌ぐほどの器量を持つ正宗を支える片倉よ。重綱ならば必ずや阿梅を守ってくれようぞ。藤堂あたりに預けてしまえば、日を経ずして内府に差しだされてしまうわ。
     はたして幸村の目論見通り、いやそれ以上に阿梅は丁重に扱われた。戦後、家康の謀臣本多正信に、あれは幸村の娘ではないか、と問いただされたときも、重綱は戦場で拾った娘でござる、と一点張りの返答を重ねた。ならば真田の家紋のついた小刀はいかにと詰問されて、こう答えた。
     かの娘が戦場にて拾った刀でござるゆえ、家宝にさせました。もはや、これ以上のいらぬ詮索は無用。本多殿は伊達と事を構えるおつもりか、と一蹴した。
     これを伝え聞いた正宗は重綱を召し出し、そちは傾国の美女でも手に入れたか。わしは戦にはもう飽いた。ひとたび凶事が起こらば伊達全軍を預けてやる。どうともそのほうの好きにせよ、と破顔したという。
     
     重綱は連絡のつなぎを務める佐助とは何度も面談しているが、剣之介とは数年振りの再会だった。
    「剣之介、佐助の後ろの者は……?」
    「ゆいでございます」
     道すがら剣之介にからかわれていた小姓が自ら答える。
    「おお、ゆいか。おおきゅうなったな。とんと会っておらなんだ。五年振りくらいかの。小姓姿ゆえ、どこぞの若衆かと思ったではないか」
     ゆいは重綱の目を見据えた。この娘は誰と応対しても臆する素振りを見せない。
    「わたしは若様より、ひとつ年上の十八歳になりました。この格好、少しは男らしゅう見えまするか」
    「すまぬ、口が滑ったわい」
     重綱は似つかわしくないほどきまりが悪い表情を見せた。剣之介は身体を折り、くくっと小声で笑った。ゆいもつられて笑い出した。
    「これ、ゆい。若も」
     佐助が間に入る。
    「よいよい、許せ、ゆい。ふむ、眼差しといい、顔立ちといい、かなりの器量よしになったの。武家の娘なら嫁いでいる年頃じゃ。どうだ、こんな隠居三昧の気ままな主君など見捨てて、わしが目をかけている家臣に嫁がぬか?」
    「伊達のご家中にわたし以上に腕の立つ方がいらっしゃれば、ぜひ」
     無表情の顔のまま、ゆいが即答した。
    「ゆい、言葉が過ぎるぞ」
     佐助が強い語調でたしなめた。
    「叔父上、伊達藩中探してもゆいの夫になれる侍など見つかりますまい。剣の腕のみならば、ゆいなどとても及ばない腕達者が何人もおられましょう。がしかし、この泰平の世、実戦にてはとてもゆいにはかないますまい。特に忍びの術に関しては、先代の才蔵にも劣らない、と佐助も認めております」
     剣之介が茶碗に手を伸ばしながら、ゆいに顔を向けた。
    「霧隠才蔵といえば猿飛佐助と並び称される名うての真田十勇士のひとり。ゆいは父御に匹敵するほどの腕前か?」
    「それに」
     剣之介が続ける。
    「それに?」
    「見ての通りの気性のおなごでありますゆえ、ひとたび機嫌を損ねますと、婿殿は首がいくつあっても足りません。まさか四六時中、乱世の甲冑兜姿ではいられますまい。もしくは得意の術で夜な夜な行灯の油を舐める化け猫に変わり、しまいには呪い殺されてしまうかもしれません」
    「戯言が過ぎます」
     ゆいは目を吊り上げて剣之介を睨んだ。やや青白い両頬が赤く染まり膨らむ。
    「まあまあ、そう怒るな。そちたち三人、仲の良い主従でうらやましいぞ」
     重綱が豪快に笑った。つられて剣之介と佐助が笑った。諦めた表情を浮かべたゆいもついには笑みを見せた。
    「ときに叔父上。わざわざ、わたしをお呼びになったのにはわけがございましょう? 下屋敷であっても幕府に弓引いた者の末裔が出入りしているさまを隠密に嗅ぎつけられては、仙台藩にとっても好ましくはないはず」
     剣之介は本題へと移った。
    「そちたちの動向を探っている者がおる。今日日、とくと騒がしくなってきておる」
     打って変って重綱の声色が厳しく変わった。
    「相も変わらず、公儀隠密ですか。うまく身を隠せていたと思っていましたが、包囲を狭めてきましたか」
    「柳生忍軍はむろんだが、半蔵配下の隠密も出張ってきているらしい」
    「玄蕃が率いている軍団ですか」
     柳生家は当主宗矩が将軍家剣術師範を務め、柳生新陰流は当代一の流派ともてはやされていたが、これには裏の顔もあった。剣の柳生ではなく忍びの柳生も将軍家に取り立てられていたのである。誰ともなしに裏柳生と呼ばれ、隠密と呼ばれる服部半蔵率いる伊賀甲賀軍団と勢力を二分する忍者組織として闇の中を跳梁跋扈していた。
    「柳生忍軍は個々の強さはないが、集団戦を得意とします。わしは関ヶ原以来あの一党と戦い続けております。ゆい、舐めてかかると命を落とす怖れもあるのだぞ」
     佐助はゆいに厳しい。
    「なんでわたしだけ。剣…若様だって甘く考えているのでは?」
    「はは、じいはわたしの甘さもお前にかこつけて指摘したのだろうよ」
     剣之介は重綱の前でふくれ面を見せるゆいを見て、またも相好を崩した。
    「伊賀甲賀の忍びとは戦術が違いますゆえ、実戦で当たると思わぬ不覚を取ってしまいます。大坂のときも数名の真田忍者が柳生戦法でやられましたわい」
     ゆるりと話す佐助の横で、ゆいはいまだに不満な顔をし続けている。
    「佐助、具体的にどう違うのだ? 申してみよ」
     重綱は思わず身を乗り出した。
    「あやつらはわが身を捨てて仲間を生かす、一体となった攻めや、十人以上で取り囲み、二段三段構えの円陣で息をつかせぬ連続技などを用います。先頭で当たってくる忍びはまず身を捨ててかかってまいるとみてようございます」
    「特に優れた術があるわけではないが、捨て身で詰め寄ってくるというわけか。受け手としては恐い戦術じゃな」
     重綱は腕組みをしながら、佐助の言に頷いた。
    「手を焼きました」
    「真田、真田と徳川は昔の亡霊に怯えているのは滑稽の極み。いいかげん真田など放っておいてほしいというのに、将軍家は執拗ですね。天下を収めて幾年経ったと思っているのかしら」
     剣之介はゆいの言に相槌を打った。
    「野に残った真田の残党を根絶やしにしなければ安心できないのだろう。枕を高くすればするほど、ある日いきなり枕を蹴られるのではないかといらぬ怯えに眠れなくなるのだ」
    「高さもほどほどにせんといかんの。あまり高くすると、外されたときにかえって首を痛めそうだの。ただ枕が気になるのは将軍家ではなく幕閣の連中なのだ。老中土井利勝が真田探しにやたら熱心と聞く。なおかつ、ここ暫くの動きを見ていると、幕府の狙いは真田狩りだけではないのだ」
    「新しい理由ができたわけですね」
     剣之介は見当がついている言い方をした。
    「なんでも、かの幻の名刀一両筒を探しているのだとか」
    「やはり一両筒でしたか。幕府の忍びが必死に所在を突きとめようとしているのですね」
     剣之介は静かにゆっくりと茶碗を盆へと置いた。
     と、間髪をおかず、
    「曲者!」
     腰に差したままの小刀をすばやく抜くなり、振り向きざまに背後の障子に向けて放った。重綱が目を見張るほどの早業であった。小刀が障子を突き抜け、黒々とした庭へと吸い込まれるや、
    「逃がすな、追え」
     と叫び、大刀を掴んだ。
     剣之介の声に反応し、佐助とゆいが風のごとく、障子を開け放ち飛び出していった。
    「叔父上、庭先に大ネズミがいました」
    「むう、大胆な。隠密が当家の屋敷に入り込んでいたか。ゆめ警護は怠るでないと命じておいたのだが。わしにはまったく気配すら感じられなかった」
     重綱はあっけにとられたまま庭を見つめている。しかし戦国の修羅場をくぐってきた豪傑重綱に動揺は見られない。
    「仕方ありません。公儀隠密や柳生配下の腕のある忍びならば城中にさえ潜入は容易かと。たとえ伊達様の青葉城であっても」
    「むむ、太平の世と言う者もあるが、油断は禁物だな。今夜はお前たちがいたおかげで助かった。毎夜、この庭に隠密が潜んでいたとすれば、策を考えねばならんな」
    「常時お屋敷に忍んでいたのではなく、むしろわれらの訪れが途中どこかで目を引いたのかもしれません」
    「闇を通して目を光らせているわけか。わしのような戦場を駆けた昔堅気の侍にとっては見えぬ相手とは到底戦えぬ」
     言い終えると重綱は口を真一文字に結んで天井を仰いだ。
    「忍びとはそうしたものです。武士とは戦いのやり方が違います、生き方も志も。真田の家もかつては多くの忍びを抱えておりましたし、佐助たちと暮らしているので、わたしにはわかります。ああ、ゆいは普通の忍びとは少し違っているかな」
     答えながら剣之介は腰に大刀を差した。騒ぎを聞きつけた藩邸の郎党が慌ただしく廊下を走る足音が聞こえてくる。
    「では、わたしもしばし中座いたしますので、一両筒の話は戻りしだいにしていただけますか。屋敷内にまだ忍びが残っていても、まさか叔父上を襲ったりはしないでしょう。ご家中の方も駆けつけてきていますし」
    「なんの、徳川の忍びの一匹や二匹、わしひとりでも寄せ付けはせぬぞ」
    「わざわざ刀を汚す相手ではありません」
    「いまさら曲者を追っても間に合うまい。あのふたりに任せておけばよいであろう」
     重綱は開け放たれた障子越しに、闇に沈む庭を覗いた。
    「庭先のネズミはかなりの手練れです。わたしの小刀を苦もなくかわす身の軽さもありました。そやつが単身で忍んできたとすれば雑作もありませんが、屋敷の近辺に仲間が潜んでいたと考えるのが常道。相手が集団となると、佐助ならばうまく対処できるでしょうが、血気に逸るゆいではいささか心もとありません」
     
    ゆい以上に速く庭先に出た佐助は庭の池傍に別の忍びが潜んでいた気配を感じ取った。小刀をかわした忍びを追うようゆいに指示をすると、自身は池傍のそれを追った。剣之介の予見は的中したといえる。曲者の跡を追い、ゆいは小物長屋の屋根瓦を音もなくつたっていった。一方の佐助はもうひとりの忍びを追い、正門を飛び越した。
     相手との距離が詰まると、ゆいは速度をゆるめずに懐の苦無に手を伸ばした。焦らず少しずつ間合いを詰めていく。潜入者は屋敷の外へと身を躍らせた。ゆいが続く。
     曲者は南北に長く伸びた下屋敷を抜け、仙台坂を下っていった。二町ほど追うと、逃げ手がぴたりと止まり、振り向いた。多少の月明かりが差してきたとはいえ、闇夜の黒装束である。何者か定かではない。覆面はしていたが、ぎらりと光る眼光が鋭い。ゆいは懐手の構えを崩さない。
    「逃げ切れぬとみて観念したか」
     黒装束は後ろ手になんらかの得物を隠していた。ゆいの目は常人ならば闇に溶けて見えるはずのない細かな仕草を捉えていた。
    「ふん、お前を倒して、ゆうゆう歩いて帰るわ」
     肢体にても見てとれたが、女声が嘯く。
    「くの一だな。柳生の者か?」
    「笑止。訊かれて名乗る忍びなどどこにいる」
     その言葉が終わらぬうちに、くの一の手が十字手裏剣を放った。ひと呼吸おいて、ゆいが身をかわす先へ新たな手裏剣が飛ぶ。一本目をなんなくかわし、二本目は苦無で払い落すと、対手の動きを待った。
    「さすが真田の手の者よ。女人にしてはすばやいの」
    「真田と知っての潜入か?」
     くの一は答えず、手裏剣を続けざまに飛ばすと、右後ろの繁みへと身を投げた。
    「逃げるか」
     くの一が繁みを揺らして移動する音擦れが聞こえた。すかさず繁みに苦無を打ち込む。繁みに目を凝らしながら近辺に気を配ると、右の肩口に向かって数本の手裏剣が降ってきた。飛びのきざまに、左上方の木立に苦無を放った。鋭利な切っ先が闇に吸い込まれていく。が、手応えはない。
    「そこだ」
     ゆいの声が響き、繁みの奥に苦無が放たれるも、苦無を跳ね飛ばす金属音が耳に返ってきた。音の方角へ駆けだそうとすると、思いもかけず左手から手裏剣が飛来した。ふいをつかれて、地を反転しながら攻撃をよける。あらぬ方向の攻めを受けて、ゆいは態勢を直し数歩下がった。視線の届く範囲に注意深く気を配る。
    「伊賀忍法乱れ打ちじゃ」
     繁みの奥の声が届く。
    「伊賀? 柳生ではないのか。すると服部半蔵配下の隠密か?」
    「ふふふ、素性を明かしたは、お前の器量を見切ったからよ。早々に死んでもらうぞ」
     乱れ打ちとは自在に手裏剣の角度を曲げられる技なのか。もしくはなんらかの眼くらましによる錯覚だろうか。ゆいは左右に気をめぐらしながら、繁みに潜んでいるくの一に声を返した。
    「伊賀者になどに後れを取る霧隠ではない」
    「なんと霧隠とな。すると霧隠才蔵の血筋か? これは面白い」
     隠れ場所を見極めるには、まず相手に攻めさせればよい。地に片手をつけ、前傾の姿勢をとると、さらなる攻撃を待ちうける。背後の雑木林ががさがさと音を立て、数本の手裏剣が林から飛び出した。身を捻って立て続けに三本をかわしたが、一本は袖を貫通し、続く一本が胸に刺さったかにみえた。
     と、着ていた軽衫袴だけが宙に浮き、手裏剣は主の抜けた袴の胸の部分に深々と突き刺さった。ゆいは袴の下に着けていた黒装束になって松の枝に跳び上がり、四方を見渡した。息つく間もなく真下の繁みを通して手裏剣が飛んでくる。
     これを引きつけて外し、繁みに苦無を打ちこみながら、隣樹の枝へ身を移した。するとはるか右の樹の裏にくの一が姿を現し、翻って裏側に消えた。
    「すばやい奴」
     繁みを見、くの一が消えた松の大木に目を配った。草むらから放たれた手裏剣が狙い違わず飛んでくる。直後に黒装束が移動した姿が見えた。信じがたいほどの素早い動きに、ゆいは目で追うのが精いっぱいの立場に追い込まれていた。
     次の手裏剣はいったん視界を外れ、大きな曲線を描き襲ってきた。かろうじて避けると、連続攻撃を防ぐために別の枝へ動く。三方攻めを受けている感覚がある。動きのすばやさが人とは思えない。 
     右手の繁みに動く姿を捉えると、ゆいは枝々を飛び移りながら、すかさず苦無を放った。苦無は繁みに吸いこまれていくが、またもや手応えは返ってこない。くの一はすばやく移動しながら、攻撃する間隔を狭めてきていた。
     速い、どこで捕らえるか、難しい。だが敵の腕に舌を巻いている暇はない。
    「ははは、こちらの攻めが速すぎて読み切れぬようだな、霧隠よ」
    「お前の速さなどなにほどもない」
    「ならば伊賀忍法移し身の術、見事かわしてみよ」
     声のする方角にくの一が現れ、手裏剣を放つと、とんぼを切って脇の繁みへと消えた。ゆいは移動を予測して懐の苦無を掴む。三本しか残っていない。刀は袴を脱ぎ棄てたときに手放していた。
     どこだ。探る間もなく、空を裂いて手裏剣が風を切る音が聞こえた。くの一の移動がさらに速くなってきている。右の手裏剣が少し速い。右手の手裏剣をのけぞってよける。左目が捉えた手裏剣は苦無で跳ね除けた。
     ゆいの目が眼下で動く異物を捕らえようと激しく動く。左の繁みが揺れたと思うと、間を置かず右の木陰から手裏剣が発せられた。
     これを凌ぐと、またあらぬ方角から手裏剣を受けた。樹上であやうく身をかがめたが、一本は黒髪の先をかすり、幹に突き刺さった。守勢一方だ。
    「これが移し身か」
    くの一は小振りの十字手裏剣を何本携えているのか、まったく掴めなかった。すでに切れていてもいいはずなのに、攻撃は激しさを増す一方だった。攻め手も失い、身を隠す余裕さえなくなり、しだいに焦りが生じてくる。
     正面の木陰、さらに背後の繁みと右の岩陰の三方から放たれた手裏剣が襲ってきた。数にして八本。瞬時に投げ分ける技に戸惑いが隠せない。ために、逃げの動作がひと呼吸遅れた。前方の手裏剣を苦無で打ち払い、後方の二本は身をゆすって逃げる。続く別方向の一本がかかとをかすめ、最後の手裏剣が太股に深々と刺さった。
    「くっ」
     焼けつく痛みが走り、思わず声を漏らすと、ゆいは落下した。受身もとれないまま、背から地面へと落ちたため、新手の攻撃を防ぐ手だてはもはやなかった。が、敵の攻撃も止んでいた。かろうじて身体を捻って腹ばいになると、首を巡らし、相手の居場所を見てとろうとした。くの一が繁みを飛び越えて、ゆいの真表に立った。
    「ふん、たわいない。たいした相手ではなかったな」
    「われらの術を見抜けなかったな」
     背後で声が上がった。驚いて振り返ると、そこにも黒装束のくの一が立っていた。
    「いかに霧隠の後継ぎといえど、しょせんは小娘よ」
     もうひとり、黒装束の忍びが木陰から姿を覗かせた。三人は顔の覆面を脱いだ。
    「さ、三人いたのか」
     ゆいは驚きを隠せない。見分けのつかないほど同じ姿形で、たがわぬ顔形をしている。
    「いかにも、われらは三つ子よ」
     三つ子と明かした女たちに囲まれても、ゆいの戦意は下がらなかった。身動きがままならない有り様ながら、苦無を強く握りしめた。
    「とどめだ、覚悟せよ」
     数本の十字手裏剣が狙いたがわず、ゆいの胸元へと放たれた。すべてを叩き落すのは到底不可能だった。
    「無念」
     ゆいは思わず目を瞑った。
     キィーン、キイン。
    胸元が鮮血に染まる前に、衝突音が続けざまに耳に届いた。ゆいを狙った手裏剣は飛んできた石礫に撥ねられ、すべて地面へと落ちた。
    「誰だ?」
     三人は驚きとともに、首を回し周囲を探った。
    「もう、そのへんにしておいたらどうだ」
     男の声がした。くの一の三人が声を頼って視線を定めると、二十歩ほどしか離れていない松の脇に若い男が現れた。
     剣之介であった。
    「うぬ、また真田の忍びか」
     繁み脇のくの一が身構えた。
    「忍びではないが、まあ似たようなものだ」
    「小癪な」
     繁みを背にしたくの一が全身を現した。
    「こんなところで大切な仲間を失うわけにはいかないのでな」
     剣之介は相手の存在など意に介さず、するするとゆいに近づいた。不用意で、無防備に見える。
    「ゆい、深手か?」
    「不覚でした。こやつらは伊賀者」
    「伊賀甲賀、どちらでもよい。さあ帰るぞ」
     くの一が揃って十字手裏剣を構える。
    「たわけごとを言うな、ふたりとも生きて帰さぬわ。伊賀の忍びを甘くみるでないぞ。伊賀乱れ打ち受けてみよ」
     三女が一斉に手裏剣を剣之介に放つ。数は十本に近い。鋭い回転を見せる手裏剣が肉眼では捉えがたい速度で迫るが、剣之介は泰然と構えている。と、手足と腰を軽く振り、手裏剣の半分を身体のひねりのみで苦もなくかわし、残りは袖の袂で振り払った。
    「もはや無駄だ。お主たちの手裏剣の軌道は見切ったよ」
    「ほざいたな」
     三女は揃って跳び上がると再び得物を投げかける動きを見せた。剣之介は女たちを越えて身体ひとつ高く跳び、三方に礫を飛ばした。
     近いふたりは礫を避けられず、顔面にまともに食らう。およそ忍びらしくない甲高い悲鳴を上げて続けざまに地に落ちる。残るひとり、剣之介と向き合っていたくの一はかろうじて避けたが、ために身体が伸びきってしまっていた。はいつくばって着地したが、背後にはすでに剣之介がいた。
    「おのれ」
     くの一は立ち上がりざま振り向いて、懐の匕首を剣之介に向けたが、
    「遅い」
     言葉が終わらぬうちに身を寄せられ、振り上げた手首を掴まれると、他方の手で肩関節をぐいっと外された。くの一は痛みによって反射的に顎を上げたが、掴まれた手を振りほどこうと短刀を左手に持ち替えて、抗った。剣之介は左手で手首の自由を奪ったまま、短刀を持ったもう一方の肩の関節も外した。
    「これでもはや戦えまい」
     両手を離すと、剣之介はくの一の足を軽く掬った。くの一は両腕をだらんとたらしたまま均衡を失って、仰向けに倒れた。
    「もはや勝負はついた。早々に退いたほうがよい」
    「く、殺せ」
    くの一は地面に倒れたままの姿勢で怒りの表情を向けた。
    「おなごを斬る剣は持ち合わせていない。お前さん、そこに倒れている姉だか妹だかにも訊かずに勝手にひとりで生き死にを決め込まなくてもよいだろうよ。そのうえこの剣は少々訳ありなのだ」
     剣之介は抜かなかった剣の柄頭を叩いた。
    「ここで始末しておかないと、後々悔いるであろう」
     剣之介は笑った。
    「わたしなどより腕の立つ者などこの世にはあまたいる。なあに死にたくなったら、夜道を歩いておればよい。ほどなく六尺以上の悪鬼に出くわすさ。さすれば望みが叶うぞ」
     剣之介は残りふたりに目をやった。礫がひとつ当たっただけなのに、身じろぎもせず気絶したままだ。
    「急所に当てたが、間もなく息を吹き返すだろう。帰って半蔵殿にこれからは伊達屋敷への潜入は無用と伝えてくれ」
    「お主、名は、名はなんという」
    「わたしの名? 知らぬのか? 庭に潜んでわたしと叔父上の話を聞いていたのだろう?」
    「忍んでいたのはそこに倒れている者じゃ」
     くの一は顔をひきつらせ苦々しげに答えた。
    「相手に名を訊かれて名乗る者などいるか、と言ったのはお前たちだろう」
     ゆいが出血部位を押さえ、膝を庇いながら言った。
    「お、ゆい。さほど深手ではないのか? ひとりで歩けるか?」
     剣之介は敵に背を向けたまま、ゆいに肩をかした。
    「わたしは真田」
     くの一に背を向けたまま言った。まるで隙だらけに見える。
    「真田……」
     苦しい息の下、くの一が繰り返す。
    「剣之介」
     
    起の急
     佐助はふたりの忍びを倒して戻っていた。
    「ひとりは生け捕りを狙ってのですが、手傷を負わせると自害いたしました」
     ゆいは運び込まれて、すでに当直の藩医によって手当てを受けていた。
    「半蔵は何人の忍びを送りこんでいたのかの?」
    「わしが倒したのは伊賀者ではなく、柳生の忍びではないかという気もします」
     伊賀の里と柳生の里はきわめて近く、忍者同士の行き来もあったため、忍びの術だけでは差異が見分けにくい。個人の技を得意とする伊賀の忍者に対し、柳生の忍者は一塊で相手にあたるとされている。身をもって知っていた佐助だったが、下忍二名と対しただけでは判別をつけられなかった。
    「佐助、まだ治療が終わらぬが、ゆいの傷は深いのか?」
     佐助の報告を聞きながらも、重綱はゆいの容体に気をもんでいた。邸内で曲者が露見したときよりも慌てた素振りを見せて、ゆいが運び込まれてのちは気もそぞろだ。
     騒乱のあった座敷とは違って、茶会を開くにはうってつけな六畳間に席は移っていた。壁や襖にいっさいの飾りはない。重綱は時折佐助の酌を受けながら、たいがいは自分で盃に酒をぐいと注いでいる。が、盃を運ぶ手も重い。
    「手裏剣に毒が塗ってあったわけではなさそうですし、ご心配には及びますまい」
     ゆいの話題に戻るたびに佐助は同様の返答を繰り返す。
    「半蔵の手の者、なかなかの腕達者のようだの」
     剣之介が静かに入ってきた。
    「剣之介、胡座でよいぞ。で、容態はどうだ?」
    「では、お言葉に甘えて」
     剣之介はどっかと胡座を組み、重綱と対坐した。佐助は正座をしたままだ。
    「やっと落ち着いて、寝てくれました。踵はすり傷ですし、腿に刺さった手裏剣も血の道は外れておりますゆえ、半月もたたずに全快しましょう」
    「ひとまず安心できそうだ。お主たちになにかあっては阿梅に会わす顔がない」
     安堵の表情を浮かべながら、重綱は伏せてあった盃を剣之介に差し出した。
    「叔父上、わたしは下戸でございますゆえ」
    「そうだったかの」
     一杯だけと、重綱は剣之介の手に盃を押しつけた。
    「わしが目をかけている杜氏が仕込んだ酒じゃ。旨いぞ」
    「受けた傷より敗北がよほど悔しかったのでしょう。確かにゆいの腕をもってすれば、不覚の類いです。相手をひとりと思い込んでしまった。今晩の乾いた土の上では霧隠の術も効き目がありません。慎重に戦うべきでした。叔父上、もうそのくらいで」
     剣之介は注がれる酒を盃の八分目ほどで制した。
    「佐助に聞いたが、三つ子の女忍者とか」
     安心ゆえか重綱の顔つきに柔らかさが増してきた。
    「ひとりと思わせたが、まず術の一です。わたしが戦いの場に着いたときには、すでに三人が正体を現していたため、わたしはことなきを得ました」
    「わしやゆいならばいざ知らず、若ならばどんな相手でも正体を見破るのは雑作もなかったはず」
     剣之介は首を振りながら大きく笑う。
    「これ、じい、叔父上の前で。まるで孫自慢のようではないか」
    「いや、いま少し聞いてみたい。剣之介の力量について、本人の前であるが忌憚なく申してみよ」
     佐助は総白髪の髪を撫でながら、剣之介を見やった。
    「確かに若に関してはややもすると贔屓が入りがちですが、太刀筋を見ておりますと、江戸にいる名のある剣士と比べても決してひけをとりませぬ。間違いなく上と思われる剣客はふたりしかおりません」
     重綱は剣之介に目を移した。
    「そこまでの腕前とは」
    「じい、買い被りだ」
     剣之介はからりと笑い、盃に口をつけた。
    「ふたりとは誰じゃ?」
    「ひとりは幕府剣術師範、小野次郎右衛門忠常。あとひとりは荒木又右衛門」
    「世に名高い兵法者だな。剣之介はそのふたりに迫ると申すか」
     佐助はさらにかしこまって、
    「はっ、手前の見立てではございますが。荒木の新陰流といえば、但馬守宗矩とは大坂城の夏の戦いの折、一度手合わせをしております。運悪く宗矩に出くわしてしまいまして。もちろんわしにまともな勝負などできませぬゆえ、早々に退転いたしました。往時の宗矩の気と今の若の腕は互角に見えまする。又右衛門は宗矩を凌ぐ腕前と聞きますれば、今日明日だけであれば若より一日の長があるかと。いまひとり、伊藤一刀斎の唯一の後継者である小野忠明の一子忠常は、柳生の剣を上回ると聞いております」
     剣術の話題に重綱の声も弾む。
    「頼もしいばかりじゃ」
    「この先の研鑽しだいですが、あと数年もすれば両名に追いつきましょうぞ」
    「聞けば聞くほど、惜しいのう。我が藩の剣術指南に推挙したいくらいだ。天賦の才を持ちながら、身を隠して生きねばならぬとはな」
    「はは、叔父上、剣を交えてもいない者同士の力量など測れません。わたしは真田の生き残りにすぎませぬゆえ、表に出られぬのは宿命と思っております。お嘆きには及びません。実を申しますと、わたしはさほど剣術が好きではありません」
    「確かに若は剣を抜きませんな」
     佐助はもの足りなそうな顔で剣之介を見た。
    「ほう、剣を抜かぬ剣士か」
     重綱は右手で顎をしゃくりながら剣之介に顔を向けた。
    「戦国の世とは違い、今の世に人に向ける剣は必要ありません。抜かずに済ませるが第一。ただ、われらの場合は守りの剣がなくては身を防げませぬ。幕府の追手が迫ったときは嫌でも使わねばならなくなる」
    「いまの世では逃げの剣、守りの剣でしかないのが残念でなりませぬ。わしは若を荒木や小野と立ち合せてみたい」
     佐助は口惜しそうな顔をみせた。
     胸を軽くさすりながら、剣之介が歪みのない顔で笑う。
    「老齢のせいか、じいの贔屓目が過ぎまして。わたしが両人と試合をしても、せいぜい五本に一本も取れますまい。しかもじい、世間は広いぞ、わたしより腕の立つ奴がもうひとりいるではないか」
    「あやつですか」
    「あやつとは?」
     思わず重綱も身を乗り出す。
    「岩淵殿を斬った鬼の剣を使う男です」
    「むう、そやつか」
     重綱の眼光が鋭くなった。口元に持っていこうとした盃の手が止まる。
    「この騒動で話が途切れてしまったが、ここ数日で我が藩の武具奉行と御供番が斬り殺されておる。岩淵を含めて三人。今宵いまだ帰っておらぬ者もおる。曲者が刀を狙ったと聞き、どうも一両筒が狙われているのだと思うのだが」
    「一両筒ですか」
     剣之介がため息をついた。
     
    「一両筒、確かにそう言ったのだな、蘭花?」
     半蔵屋敷では幕府隠密総帥、服部半蔵正範が身を乗り出して、負傷した三人の報告を聞いていた。
     この時期、服部半蔵はふたり存在した。浪人暮らしを経て諸藩を転々とし、ようやく桑名藩に雇われた半蔵正重と伊賀忍者の総帥、半蔵正範である。
     二代目服部正成が慶長元年十一月に没すると、嫡男正就が服部家の家督、半蔵の名跡と、伊賀同心二百人の支配を引継いだ。正範は正就の弟だが、生母がくの一であり下賤の出であったため、正就によって下忍と変わらない扱いを受け、不遇をかこった。
     このため正範は兄・正就の高圧的な支配に反発する伊賀者を率いて慶長十年に乱を起こす。騒乱後、正就は役を解かれた。正範は四代目の跡目を弟・正重と争った。正範は出自のせいで、またも後れをとる。妻の父である大久保長安の後押しを受けた正重が四代目服部半蔵の家督を継いた。
     しかし、正範の才を高く評価していた老中本多正純の推挙によって、正範は二代将軍秀忠の側近土井利勝の管轄のもと、伊賀忍者を束ねよとの命を受けた。柳生に表と裏があるように、服部家も表半蔵の正重は旗本、裏半蔵の正範が幕府隠密の頭領の地位に就いた。解任された兄・正就は再興を目論んで松平忠輝に軍に加わり大坂夏の陣に赴くが、行方知れずになる。
     忠輝は元和二年、夏の陣の際の不行跡をとがめられ、兄・秀忠に改易を命じられる。忠輝の附家老であった大久保長安は全国の金山銀山奉行を務めていたが失脚、正重も長安事件のあとほどなく家禄を没収され、浪人の憂き目にあう。一連の事件の裏に正純の子、本多正信の命を受けた土井利勝の策略と配下の裏柳生、正範率いる伊賀隠密の暗躍があったのは言を俟たない。
    「潜伏を見抜かれる直前、片倉重綱と真田剣之介と申す者が確かに」
     眉間に礫を受けたくの一が答えた。
    「一両筒にはどのようないわくがあるのですか?」
    「まあ待て、菊花。わしも記憶を探り、道をつけて話すゆえ」
     半蔵は瞑目して腕を組んだ。三女とも黙して息を凝らした。
     暫くして半蔵はうっすらと目を開いた。
    「柳生ほど執拗に追っていたわけではないせいもあるが、真田剣之介、聞いたことのない名じゃな。いっさい表に出ててはこなかった名だ。ぬしら三人がかりでも歯が立たぬほどの腕なのだな」
    「申し訳ござりません」
     肩を外されたくの一が首を垂れたまま、一段と頭を下げた。
    「けれど下屋敷に潜入していたかいがありました」
    「蘭花、その剣之介とやら、年の頃は幾つぐらいじゃ?」
    「はい、どう見ても二十歳は越えていないように見えました」
    「重綱を叔父上と呼んでいました」
    「桜花、それに聞き間違えはないか?」
    「はい、しかとこの耳で」
    「幸村の子なれば重綱を義兄上と呼ぶはずだ。となると大助の子だろう。おお、そうであった。大坂城陥落の際、わしは城を抜ける真田の忍び、猿飛佐助と霧隠才蔵に遭遇した」
     半蔵は一語一語、旧時を辿りながら語り始めた。
    「猿飛は宗矩殿が向けた刃をいとも簡単にするするっとかいくぐったわ。猿飛は赤子を背負っていたな。そのときの赤子がひょっとすると剣之介か」
    「霧隠才蔵と猿飛佐助ですか?」
    「そうだ、菊花。お主たちが仕留めそこねた霧隠ゆいという名の女忍びは、おそらく霧隠の縁につながる者。あるいは娘かもしれぬの」
    「霧隠も剣之介と同じくらいの年格好でありました。赤子はもしや霧隠?」
    「蘭花、ならば霧隠が抱いておろう。お前はいつも見立てが甘い」
    「ふふ、菊花に言われてはたまったものではないな、蘭花」
     半蔵の言葉に屋敷に戻っても沈痛な面持ちをしていたくの一たちの面持ちがやや緩んだ。
    「わし自身は千姫様をお救いするという密命を帯びていたため深追いはできなんだが、当時の伊賀十人衆と下忍二十名を割き、宗矩殿も配下の玄蕃以下三十名ほどの忍びに猿飛たちを追わせた。大坂城を抜け出ようとする者はなんびとたりとすべて殺してよいと権現様より厳命されていた。まして赤子だ。誰の子かは判らぬが捨て置けぬ」
     落城後、女、子ども、雑兵を問わず豊臣家に加担した者への追及は執拗を極めた。ほどなく家康は潜伏していた秀頼の子、国松を捉え、処刑している。国松はまだ八歳だったが、京都市中を引き回され、六条河原で斬首となった。家康は鎌倉殿の再来を恐れたのだろう」
     
    「落城の折、わしが若を背負い、大助様に授かった一両筒を才蔵が差して大坂城を抜けました」
     佐助はぽつりぽつりと語り出す。
    「いまさらながら、冷や汗がでます。あの混乱の中、よく若に傷ひとつなく抜けられましたわい」
     重綱も当時を思い出す。
    「豊臣家、最後の日であったな」
     敵軍の武将だった重綱にしても、豊臣家の悲惨な末路にはいまも悲哀を禁じえない。
    「柳生宗矩と弟玄蕃が率いる柳生忍軍と半蔵率いる伊賀忍軍に出くわしたのは二の丸を抜けたあたりでしたな。きゃつらは百人ほどもおりました。うち三十名ほどがわしらを追ってまいりました。追手には玄蕃もおりました。才蔵はとても逃げ切れぬと判断し、わしに一両筒を渡し、追手を食いとめるべく、ひとりきゃつらと対したわけで」
    「わたしとゆいはその子守話を幾度となく聞かされましたよ」
     剣之介が苦笑いをしながら言う。
    「わしも伊達の軍勢の中におったゆえ、いま聞いても生々しさがあるのう。わしが佐助に初めておうたのも落城の数日前であったのう。翌日だったか、左衛門佐殿が大御所の陣を散々蹴散らしたのち、壮絶な最期を遂げられたのは」
     重綱はぐいと一息で杯をあおった。
    「わしは若と一両筒を持って身を隠し、才蔵はわざと淀川付近に追手を誘い出して、霧隠の術を使って全滅させてしまいました。いや玄蕃ひとりだけは生き残りましたな。悪運の強い男ですわい」
     
    「玄蕃は霧隠才蔵によって片腕を失ったのだ」
     半蔵は桜花蘭花菊花の三女を見渡した。
    「才蔵ひとりに玄蕃を除いた柳生忍者が殲滅させられた。いま思い出しても信じられぬわい。柳生忍びの技量は知らぬが、伊賀者は精鋭ぞろいぞ。十人衆のうちふたりだけ半死半生で戻ってきたが、ひとりは片目を失い、もうひとりは有り様を報告するなり事切れた。それが発端だ。玄蕃の真田への憎悪ははなはだしく、権現様のご指示もあったとはいえ、真田の残党狩りは熾烈すぎるほどであった。だが、さほどの成果は上がらなかった。真田信之の松代藩や片倉重綱らが真田の生き残った者たちを召抱えたりしておったので、なかなか手が出せなかったのだ」
     半蔵は白髪交じりの鬢をこすった。
    「逃げおおせた者はほかにもいる。猿飛や霧隠、大坂城を抜けた生き残りの真田十勇士たちの行方は天に消えたか地に潜ったか、皆目掴めなかった。先だって裏柳生が再び盛んに真田狩りをし始めたと知らせを受けたが、玄蕃の悪い虫が騒ぎ出したのかと、意にも留めていなかったわ。
     夏の陣から十八年、佐助や才蔵が生きていたとしても、もはや表に現れはしないと思っていたが、紛失したまま行方知れずの一両筒とともに現れるとは」
     
    「追手は撃退しましたが、才蔵も重傷を負い、もはや一流の忍びとしての再起は叶いませんでした。わしが白石の城に重綱様や奥方様にお目どおりするときや、諸国を廻っているときなど、才蔵がひとりで若やゆいの世話をしておりましてな。若とゆいに忍びの術を教えていたのはわしではなく才蔵です」
     猿飛は懐かしそうに剣之介を見やった。
    「すると剣之介もゆいと同様の霧隠の術が使えるのか?」
    「ゆいでなければ使えません。わたしは忍びのコツというのかな、じいや才蔵に教えてもらい根元を齧っただけで、精進したのはもっぱら剣のほうでした。才蔵には剣術の初手も学びましたけれど」
    「わしと違って、ただ飛んで跳ねたりする軽業忍びではありませんでしたな、才蔵は」
    「その歳で伊賀や裏柳生の術者などとうてい及ばないほど飛んだり跳ねたりできるのだ。十分ではないか。少壮の頃はどれだけの腕だったのか見てみたかった。それはともかくとして、叔父上」
     剣之介は重綱と向き合った。
    「話を一両筒に戻しましょう」
    「ひと月ほど前、柳生玄蕃が一両筒を血眼になって探していると我が藩の探索方が報告してきた。大助殿がお主を落ち延びさせた折に佐助か才蔵に持たせた名刀だと、以前、大八が言っていたのを思い出しての。老婆心ながら心配になり、つなぎをつけたというわけだ。柳生はおろか半蔵にもお主たちの訪問が筒抜けだったとはの」
    「公儀隠密はあちらこちらに根を張っております。伊賀と柳生、不仲でもありますし、相手より手柄を立てようと、互いに競っているのでしょう。叔父上もご注意ください」
    「ここ数年、柳生の真田狩りもさすがに緩んだかと思っておりましたが、また一両筒によって慶長元和の時代に戻ってしまいそうですな」
     かつての真田残党狩りを思い出したのか、佐助は苦い顔でかぶりを振った。
    「むむっ、いやがうえにも災いを引き付けてしまう一両筒は凶刀かの?」
    一両筒は南北朝時代の名工、備前長船兼光作の名刀である。雷を二度まで切り分け、雷神を封じ込めたとされ、もとは雷切と呼ばれていた。後、上杉謙信の家臣竹俣慶綱が所有者となったため竹俣兼光とも呼ばれたが、数年を経て謙信に献上された。第三次川中島の戦いのさい、謙信自身が一両小判と同程度の天地幅がある筒状に作られた火縄銃の銃身を一閃両断した一件で、雷切こと竹俣兼光は一両筒の呼び名で広く天下に流布されていく。
     のち謙信より養子景勝へと伝えられた一両筒だったが、評判を聞いた豊臣秀吉に召し上げられた。こうして豊臣家秘蔵の刀となるも、大坂城炎上とともに焼失したとされる。落城のあと、家康が血眼になって焼け跡を探させたが、後を残さず滅してしまったのか、ついぞ名残りとなる痕跡さえ見つけられなかったという。
     夏の陣が終わって数年は口さがない浪花庶民がかまびすしく嘴を動かした。曰く、持ち主が転々と変わるのを一両筒そのものが嫌ったとか、最初に切られた雷神が持ち去ったのだ、などなど。果ては、家康はとうに手に入れているにもかかわらず、吝嗇と言われるのが嫌でわざと金の延べ板一〇〇枚という莫大な懸賞金を懸けて探させているのだと吹聴する者が出る始末だった。
    「いえ、わたしは守り刀だと思っております。父が秀頼公より拝領いたしましたが、落城の前日、父が佐助に託したと伝え聞いております。家康がさんざん手を尽くして探し求めた名刀ですし、これが家宝でなくてなんでありましょう」
    「幕府に知れたいまとなれば、必ずや災いとなるであろう」
     剣之介は重綱や佐助と違って微笑みを絶やさない。
    「わたしがまだ幼少の頃、じいに連れられてご健勝だった当時の直江兼続様にお目にかかったさいに似た話をされたそうです。一両筒は上杉家の所有であるべき名刀でありますゆえ、兼続様お返しいたすつもりでした。ところが兼続様は、いきさつはどうあれ上杉家から太閤殿下に献上した宝刀であり、秀頼君と父君が剣之介殿に託されたのであれば、いまさら上杉家にお返しいただきたいとは思わぬ。万が一、当家が所持していると幕府の知るところになれば、痛くもない腹を探られ、石高がなおも削られてしまいかねん。剣之介殿も一両筒の正統なる所有者になったとなれば、幕府に狙われる覚悟がなくてはならぬ。左衛門佐殿直系の血筋であるゆえの宿命だ、と」
    「兼続殿はそう言われたか。家宝であっても一両筒がお主に災いをなさぬとは言い切れまい」
     剣之介は柔らかな表情で語る。
    「叔父上、心配なさいますな。わたしが今日ここに至るまで、生き延びてきたことこそが、なによりこの一両筒が守り刀である証左でしょう。いまさら手放すなどできませぬゆえ、徳川の手に渡るときはわたしの首も共連れとなりましょう。実は……」
     剣之介はここで言葉を切った。
    「一両筒には幕府がつけ狙う別の理由があるのです」
    「いかな名刀とはいえ、柳生と伊賀、いや幕閣の誰かがこれほど必死に追うのが解せなかったが、やはり、な。将軍家に献上して、より一層の権力を得る目論見があったにせよな。それで別な理由とは?」
    「豊家の隠した財宝のありかが印されていると伝えられております」
    「それはまことか?」
     
    「一両筒に豊臣家の財宝のありかが隠されているというのだ」
    「まことでござりますか?」
     菊花の眉間にはまだ丸い礫のあとが赤く残っている。
    「お主たちにはただ真田の残党を探し出せとしか命じてなかったがな。柳生には土井老中直々に一両筒を探し出せと沙汰があったようだが、伊豆守様はわしに一両筒の逸話などあまり本気にするでない、宝など法螺話の類いと思っておればよい。真田にばかり関わっていると玄蕃のように取り憑かれてしまうぞ、とおっしゃられた」
     半蔵率いる伊賀隠密は数年前に土井利勝の手を離れ、松平伊豆守信綱の下知によって動いていた。伊豆守は三代将軍家光の懐刀であり、若手官僚の頂点に君臨していた。
     柳生玄蕃の裏柳生へは幕府内一の実力者、利勝が自ら指示を出している。幕閣においては老中土井利勝と老中並の伊豆守では地位に差があったが、伊賀隠密は家光直轄といっていい立場にあった。共に利勝の配下だった頃は徳川忍びとして伊賀より風上を自負していた玄蕃も内心穏やかではいられない。これが両者の関係を複雑にしていた。
    「隠し場所の地図でも埋め込まれているのでしょうか?」
     あまりの展開に桜花は気が急いた聞き方になっていた。
    「さあて、な。刀身になのか鞘になのかあるいは鍔であろうか、そこに謎を解き明かす手がかりが刻印されているのではないか、と噂されてはいるが」
     半蔵はなおも続けた。
    「わしが伊豆守様に聞いた話はこうじゃ。一両筒が諦めきれなかった大御所は焼失を信じず、柳生に命じて密かに探させていた。大御所がお亡くなりになると捜索はいったん打ち切られ、ひとまず一両筒は忘れられた。真相が露見したのは昨夏だ。大坂城で一両筒が大助に渡された場に居合わせた腰元を裏柳生が捜索によって突きとめたのだ。腰元は戦後ほどなく京の尼寺に身を寄せていたそうだが、柳生の責めにとうとう口を割り、当時を語ったという話だ」
    「当時の話とは?」
     すぐさま桜花が身を乗り出した。蘭花と菊花は固唾を呑んで聞き入っていた。
    「夏の陣が迫りくるある日、右大臣家がわざわざ幸村と大助を召して、名刀一両筒を大助に賜与した。秀頼、淀の方、どちらも重々しい顔つきだったとか。下賜のとき秀頼はこう付け加えたそうだ。豊臣家が残した宝はこの一両筒とともにあり」
    くの一たちが揃って肯じた。
    「大助は一両筒を受け取ると、しかと受け賜りましたと叩頭して拝領したそうな。淀殿はわれらに万が一があっても、豊臣家の再興はその宝によって成せるであろう、と言ったそうな」
    「二十年経って真相が判明したと?」
    「天下の名刀とはいえ一両筒のみならば、土井様もこれほどやっきにはならなかったはずだ。財宝ともなればとうてい放っておけぬ。秘蔵された宝とはなにか、何処にあるのか、淀殿の言を信じるならば天下を揺るがしかねない騒動がおきかねん、とおっしゃられた」
    「それゆえ柳生の忍びが真田を血眼になって追っているのですね」
    「玄蕃が真田の残党狩りにやっきになっていたのは私怨がもとだ。一両筒と宝の噂が漏れるはるか前だ。だが、こたびの件は玄蕃が執拗に追った功績ともいえる」
    「ついにはわたしどもにも下知が?」
     待ちきれずに蘭花が口を挟んだ。
    「そうだ。いっこうに所在がつかめぬため業を煮やした土井様が柳生だけでなく伊豆守様にも探索を指示し、わしが命を受けたわけよ。ただし伊豆守様はひととおりでよい、と付け加えられた」
    「しかし、先に見つけられては、裏柳生の後塵を拝するやも」
     桜花が不満顔で言った。
    「やはり六道衆を使おうと思う」
     半蔵が三人を見回した。
    「伊賀の里から呼び寄せるおつもりですか?」
    「うむ、お主たちの話を聞くと剣之介は思いのほか腕が立つ。霧隠の娘がいるとすれば、真田忍軍がいまだ存在していてもおかしくない。下忍はもとより江戸表の十人衆だけでは心もとないのじゃ」
     半蔵は菊花の額の痕を気遣って、
    「なんの痕であろうかの?」
    「それが、ただの黒い碁石かと」
     蘭花も同調した。
    「わたしに当たったのも碁石だと思います。白でした」
     
    「宝は一両筒とともにあり?」
    「大助様にそう聞いております」
     佐助が間をおかず答えた。
    「十蔵」
    「お呼びで」
     名を口にするや、剣之介の隣に忽然と現れた者がいる。
    「おおっ」  
    剛で知られたさすがの重綱も身構える。一畳と離れていない。
    「これなるは筧十蔵と申す者。お見知りおきを」
    「確か十勇士のひとりであったかの」
     重綱は十蔵に声をかけた。年格好は重綱とさほど変わらない。鬢にはかなり白いものが混じっていた。下屋敷の女中が見たら、縦一文字に頬に入った深い傷に恐れをなしそうな武者面である。
    「大殿に殉じて大坂にて果てるつもりが、いまだ生き恥を晒しております」
    「なんの、そなたにはまだ大事な使命が残っているはずだ」
    「ありがたきお言葉」
    「家康追撃に際して、祖父幸村の影武者にて倒れたる者など、ほとんどが討ち死にを遂げ、いまや十勇士も数名。残った者はいずれもわたしを落ちのびさせる任を担った者です」
    「さもあろう」
    「十蔵、一両筒を」
     十蔵、自らの差料をすっと抜き、
    「これでござる」
     と重綱に差し出した。
    「これはなんとも、思いがけぬところから出てくるのう」
     重綱は苦笑いを浮かべて受け取ると、赤漆の鞘をじっくりと眺めた。
    「常日頃、十蔵に所持させております」
    「鞘にはとくに印などもないようじゃ。しかし名高き天下の宝剣にしてはありきたりの鞘ではないか?」
    「大助様に渡されたときにはすでにその鞘でござりました」
     佐助が重綱に答える。
    「難を避けるために豊臣家にて差し替えたのではないか。とすると鞘には秘密は隠されていないであろう」
     重綱が抜き放つと、行燈の明かりであっても刀身が濡れるがごとく光り、息を飲む眩さを醸し出していた。
    「刃の長さは二尺五寸二分。鍔から目釘に至る細部に渡り幾度となく調べましたが、隠された秘密など拙者には見つけられませなんだ」
     十蔵はいくぶん悔し気に刀身を見つめた。
    「鉄砲切り兼光、凄まじい圧と溢れかえる覇気はさすがだのう」
     重綱は誰ともなく呟いた。
     
    承の序
     宵はいまだ肌寒く感じられる寛永十年卯月十日、土井利勝邸を退出し、帰宅した松平信綱は遅くに客を迎えた。
    「殿、播州明石藩士とだけ名乗るご仁が取次を願っておいでですが。もはや五つ半になりますし、お断りいたしますか?」
     夕餉を済ませて書見をしていた信綱に近習が襖越しに告げた。
    「播州? して名は? 風体は?」
    「供も連れずおひとりです。それがしの見立てでは二十歳過ぎたばかりの物腰の柔らかなお方です。口上では、忍ぶ訪問ゆえ姓名お許し願いたく、と。ただ面識はあるゆえよしなにと。それで判らねば、昨年の御前試合の折にお目にかかりましたとだけお伝えくだされ、と付け加えられました」
    「おお、おお、あのご仁か。通せ通せ。誰ぞに酒を運ばせよ。そうさな、お袖がよいかの」
     
    「昨秋の御前試合以来でござるな」
    「ご無沙汰をしておりました」
     評判の剣客らしくない細く高い声だ。さほど体躯に恵まれているとも思えないこの男が、御前試合で荒木又右衛門と相譲らぬ死闘を繰り広げたのだった。二刀流で。 
     寛永九年九月二十二日、剣術好きの将軍徳川家光の声がかりで、江戸城武術稽古場にて御前試合が行われた。家光の側近である伊豆守も当然、同席している。
     当日は大久保彦左衛門、柳生但馬守宗矩、小野次郎右衛門らが審判を務め、全十一試合が行われた。彦左衛門自身や伊達正宗が出場した試合もあり、真剣での勝負ではなかったが、第五試合の柳生新陰流荒木又右衛門対新免二刀流宮本伊織の試合は万座が息を飲む白熱した試合となった。結果は相討ち引き分け。
     すべての勝負が終わったあと、家光は両名の呼び健闘を称えた。
     この席で宗矩はなにを思ったか、
    ―真剣にては二刀流より新陰流に分がありまする。
     と言上した。おそらくは幕府指南役としての矜持を保つためであったのだろうと、小野次郎右衛門は後日述懐している。十兵衛がいれば、と宗矩は悔しがったが、その十兵衛、力量のほどは定かでない。
     これを受けて伊織、
    ―これはしたり。我が父武蔵からの果たし合いの申し入れを再三お断りになった柳生様のお言葉とも思えませぬ。
     と返答した。
     柳生嫌いの彦左衛門、即座に、
    ―では再試合ですな。
     孫にものをねだる老人よろしく家光に迫った。
     興に乗った家光も、ならば真剣での勝負をわしに見せいと命じた。彦左衛門は我が意を得たりとばかり、その場で早々と翌日の再戦を決めてしまった。
     彦左衛門は生涯武闘派を公言していた男だけに、将軍家の剣術指南でありながら権謀術策に長けた柳生宗矩を毛嫌いしていた。大久保長安事件に連座したとされ、一時改易となったが、事件自体を柳生一族と土井利勝の陰謀だと言ってはばからなかった。
     伊織、宗矩双方は了承したが、又右衛門はこれを拒否。柳生の客分として参加しただけの又右衛門には新陰流を背負って命を賭ける義理など毛頭ない。まして八歳年下の十兵衛の名前を引き合いに出されては面白くない。
     おれより強いという十兵衛にでも出てもらうがいい、と言うが早いか早々に柳生屋敷を引き払った。慌てたのは宗矩である。頼みの綱の十兵衛も江戸にはいない。翌日、これまた客分として柳生屋敷に滞在していた新陰流の流れをくむ槍術の武田宗軒をもって、伊織の対手とした。宗軒は武者修行中に盗賊を含め十数人を斬り伏せたと豪語していたが、すべて本人の弁でしかない。なかなかに野心のある男で、宗矩がどのような報奨を約したかは不明だが、真剣勝負ともなればかなりの好条件を示したとされている。
     試合の見分は家光、彦左衛門、宗矩、次郎右衛門、そして伊豆守の五名のみで行われた。記録に残らない番外御前試合である。
     彦左衛門の始めの合図で、宗軒がまず動く。宗軒は二間の片鎌槍を軽く二度ほど前に押し出して伊織を牽制する。伊織が剣を抜いたまま動かないと見てとると、頭上で一回転振り回し、悠然と槍身を伊織へと向けた。穂先を覗き込む姿勢をとって、胸元にぴたりと狙いを定める。伊織動かず、正眼に構える。小刀は鞘に収まったままだ。
     宗軒はひと呼吸おくと、怒号を上げて右手を離し、左手のみで柄を突き出した。伊織は一本刀でこれを三合と受けて、槍を撥ね上げ、左手で右腰に差していた小刀を抜いた。大刀は上段、小刀は下段と二刀流の構えを取り、宗軒を誘いこむ。
     えいやぁ、の声で宗軒が踏み込むが、伊織、小刀で穂先をいなし、大刀で柄の中ほどをすぱっと斬り落とす。
     たたらを踏んで前のめりとなった宗軒の首筋に、物打ちを逆に返した刀を打ち込んだ。峰打ちであった。宗軒、顔面から地面に這いつくばって失神。これで宗軒は戦闘不能。勝負はついた。
     あのときの但馬守の心中、推し量ってみたわ、と彦左衛門は伊豆守に言った。さぞかし指南役の座が二刀流に真っ二つにされまいかとやきもきしていたであろうよ、と彦左は太鼓腹を抱えて大笑い。
    ―新免二刀流は道場にての剣ではございませぬ、
     と伊織は一礼して去った。
     宮本伊織。武蔵の養子である。微塵も殺気を感じさせない男だ。むしろそこが怖い。名うての兵法者宗矩でも又右衛門との引き分け試合では伊織の潜在的な力を測りそこなったのだ、と伊豆守は改めて思い出していた。
    「数日前、藩命にて江戸に出府いたしました。本日はあつかましくもあの試合によって知己を得ました縁を頼りに私人としてまかりこしました」
     伊織はまだ二十歳をひとつ過ぎた年齢ながら播州明石藩の家老を務めていた。その才は剣のみにあらず、若くして藩政に参画するほどの能も持ち合わせていた。
    「はは、江戸に来られた節は遠慮なくわが屋敷にお立ち寄りくだされ」
     伊豆守はあたりさわりのない話を順次聞いていく。しばし剣術の談義となった。
     そこへ失礼致たしますと声がかかり、襖が開いた。伊豆守の腰元らしく、矢絣裾引き振袖に金襴の帯であでやかに装った腰元が女中ふたりを連れて膳を運んできた。
    「お袖、伊織殿の酌をせい」
     お袖は声にならないほどのしとやかな声色で返事をした。右肩を柔らかく前に倒しながら徳利の首を握った。身体をにじらせ、伊織に杯を勧める。
    「これは国元の地酒だ。この娘も国元より連れまいった名産でな」
     殿、お戯れを、と腰元は袖で口元を隠す。無造作に杯を差し出した伊織は、なみなみと注がれた酒を一思いにあおった。
    「伊織殿にはなにか用むきがあってのご来訪かな?」
     伊豆守が来意を質すと、伊織はお袖をちらりと見て、
    「私人の戯れごとを申し上げにきたにすぎませぬが、内密の話でございますゆえ」
     お袖が下がると、伊豆守は座っていた綿入りの座布団ごと身体を前に押し出した。伊織との距離はいっそう近くなった。
    「これでよいか?」
     伊豆守自ら徳利を摘んで、伊織の杯を満たした。
    「では一献」
     伊織はひと口で飲み干すと、
    「その前に改めましてお人払いを。隣の間に控えし取次の方と、渡り廊下の隅にいるさきほどの腰元に聞こえまする」
    「さすが天下有数の武芸者。お袖の居場所にまで気がついたか。これ蔵人、下がってよいぞ。お袖にも下がれと伝えよ」
     伊豆守は襖向こうに声をかけた。
    「お袖殿とおっしゃいましたか、あの腰元は。武芸の心得があるお方のようですな。いささかの隙もございませんでした。幕府重役方の屋敷にはああした腰元ばかりがおられるのですか。あの者ならば下がれと伝えずとも、いまの伊豆守様のお声は聞こえておりましょう」
    「はっは、伊織殿はさすがでござるな」
     伊織は心内を窺うように伊豆守の目を探る。が、眼差しはさほど厳しくない。
    「あの者どももわしを心配しただけであろう。他意はないはず。お気を悪くされるな」
     伊豆守は小皿に盛ってある塩をひとつまみ口に入れた。ひとりでの晩酌ときなどはそうして酒を嗜んでいた。
    「越前の塩雲丹だ。美味このうえないぞ」
     伊織に大皿に盛りつけた雲丹を勧めた。
     酒の肴にひとしきり手をつけると伊織は、
    「馳走になりましたところで、わたくしが持参した噂話をご披露いたしたく存じます。お聞きくだされますか?」
    「ほう、なんであろう」
    「近頃、真田の残党狩りが激しさを増しているなどと、馬鹿馬鹿しい噂が我が藩の江戸詰侍の耳にも伝わってきております」
    「さようか」
    「とりわけ幕府隠密服部半蔵殿の働きが目覚ましいとか」
    「知らぬ」
    「では流言飛語の類いですな。ただ、お聞きくださいませ。わたしも播州明石藩の藩士としてではなく、一介の剣士、宮本伊織個人としてお話しております。風の便りによりますと、稀代の名刀が真田の生き残った一族の手元にあるとかで、ご公儀はその刀を欲して幸村様の末裔を日夜追っているとか」
     伊豆守はひと言も発しない。
    「将軍家はすでに三日月宗近、大典太、鬼丸、童子切といった天下に知られた名刀を所蔵しているというに、吝嗇がすぎるともっぱら」
     の噂、あくまで風評でござると伊織は涼しい顔で肴を摘んだ。
    「手厳しいな。わしも幕閣に名を連ねておる以上、根も葉もない噂の流布には手を焼いておる」
     伊織は伊豆守の言など耳に届かなかった素振りで続けた。
    「加えて江戸雀の鳴き交わしにも耳を預けますと、くだんの名刀には豊臣家の財宝のありかが隠されているとか」
    「伊織殿はその噂、どこで知ったのかの?」
     伊豆守の目の奥に光が灯る。
    「聞いたではなく、知ったとお訊きなさるとは、あながち噂ではありませなんだか」
    「言葉のあやじゃ。財宝などとは世迷言にすぎん」
     伊織は語りを繋いでいく。
    「豊臣家が滅亡して徳川様の天下となり、早や二十年にならんとしております。いまさら天下を騒がす者どもがいるとは思えませぬ。仮に真田が財宝を手に入れ、天下騒乱の野望を抱いたとて、いまさらどこの大名が後ろ盾になると幕府のご重鎮方は思っておいでですか?」
    「いないとは申せまい」
    「例えば尾張の権大納言様ですかな」
     尾張藩主徳川義直は家康の九男で、現将軍家光は甥にあたる。謀反の嫌疑をかけられた過去もあり、終生、家光とは不仲であったと伝えられる。
    「これ、口の端にのぼってよい軽々しい話題ではない」
     多少の怒気を含んだ伊豆守の声が響いた。
    「これは片時も取り乱さぬ伊豆守様らしからぬ仰せ」
    「いや、失礼した。しかし、内情がこうもあけすけに漏れておるとは。不思議でならぬ。おおかた尾張自らが流しておるのであろう」
     伊織の涼しさには変わりがない。
    「では話題を変えまして、噂の種明かしをいたします。秘中の秘を明かしまする。真田大助様にはお子がおりました。名を剣之介と申します」
    「初めて聞く名だ。片倉が庇護しているという大八以外にも直系がおったのか」
     知らぬふりをしたが、伊豆守は数日前に半蔵の報告で剣之介の存在を知っていた。
    「その真田剣之介が名刀一両筒の持ち主でござる」
    「これは驚いた。伊織殿は剣之介を存じておるのか」
    「存ずるもなにも拙者の弟弟子にて」
    「これは驚いた」
     武蔵に三木之介、伊織以外に弟子がいた。さすがの伊豆守にも初耳である。最初の弟子三木之介は武蔵の推挙により、姫路新田藩に出仕した。初代藩主藩主本多忠刻は本多忠勝の孫で、播州姫路藩主本多忠政の嫡男である。忠刻は大坂夏の陣の後、千姫を正室に迎え、化粧料として姫路新田藩十万石を与えられた。順風満帆にみえた三木之介だったが、主君忠刻が三十一歳で病死すると、初七日に切腹、殉死してしまう。二十三歳の若さだった。
    「武蔵殿のもとに真田の血筋が匿われていたのか」
     伊豆守は符合した事実に二度も頷いた。家康の孫、二代将軍秀忠の娘千姫は秀頼のもとに嫁いだのだが、数奇な運命に翻弄される。大坂城落城の折には前夜に城を脱出した。千姫自身は退城を望んでいなかったとも言われている。戦後、秀頼が側室に産ませた奈阿姫が幕府に処刑されそうになると、自らの養女にし、家康に必死の助命を乞い、これを救った。
    後に千姫が嫁いだ本多忠刻の父忠政の姉は小松姫という。小松姫は本多忠勝の娘で忠刻の伯母にあたり、真田信之の正室であった。信之に嫁いだのは関ヶ原前になるが、忠勝は信之をたいそう気に入り、我が娘の腰入れを強く望んだとされる。伊豆守はこれを偶然と判断する甘さは持ち合わせていない。
    「剣之介とは師武蔵のもとで寝食を供にいたしました。人となりを見ても天下が収まった世に再び乱を起こすなどとは到底思われませぬ。まして尾張などと、先祖代々の敵である徳川家と組むなど到底ありえませぬ」
    「伊織殿を信じるとしてもだ。わしごとき若輩者ではどうもならぬ。真田の件なら療養中の身であっても酒井大老のほうがふさわしいのではないか?」
     酒井大老こと酒井雅楽頭忠世は土井利勝と並ぶ幕府の重鎮で、忠世の次女は真田信之の長男信吉の正室であり、真田家との縁は深い。しかし昨年、中風を患ってのちの影響力は応年の比ではない。
    「わたしは酒井様と面識はございません。ご病気の酒井様に迷惑がかかってもいけません。わたしが伊豆守様を頼ったわけは」
     服部半蔵は伊豆守様の配下。柳生玄蕃は土井様の命で動いているはず、と伊織は続けた。
    「伊豆守様は三代様の懐刀ともっぱら。二代様と違い家光様は真田を憎んではいないはず。折を見て真田追討は無用とのお口添えをしていただきたい。幕府隠密の跳梁を抑えていただきとうござる」
    「しかし半蔵は抑えられても柳生、特に玄蕃は止められぬ。奴なれば土井様の下命を受けても面従腹背の懸念もある」
    「伊賀者だけでかまいません。裏柳生なら真田のみでも始末できましょう。まさか表の柳生が出張るとも思えませぬ」
    「土井様は財宝の真偽が明らかになるまで追及を緩めるとは思えぬ」
     これを聞いて伊織、口の端でにやりと笑う。伊織は対戦を楽しんでいた。
    「となると土井様が心配ですな。真田を追いつめるあまり、かえって江戸城が血で汚れてはいけません」
    「真田ごときに江戸城が蹂躙されると申すか?」
    「真田を侮ってはいけません。大坂城炎上よりこのかた幕府は真田の残党で名の知れた者を捕らえてはおりますまい。対して徳川方の忍びの犠牲者は甚大なはず。真田には腕利きの忍びが残っておりますので、犠牲はなおいっそう増えると思われます」
    「当主の剣之介がうつけであれば追い詰めることもできよう」
     伊織は居住まいを正した。
    「簡単にはいきますまい。剣之介の武芸者としての力量は遠からずわたしを凌ぎましょう」
    「伊織殿の腕を上回ると?」
     苦い表情を装ったまま伊豆守の眉がぴくりと動く。
    「剣技のみであればわたしに一日の長がありますが、剣之介は忍びの術も体得しておりますれば、実戦ではおそらく御前試合で拝見つかまった小野忠常殿の腕にもひけはとらぬと見ました。加えて猿飛佐助の飛燕の技があれば、江戸城内の明日にでも朽ちて落ちそうな桃なぞ軽くもぎ取りましょう」
    「伊織殿、脅すでない。あい判った。お主の言、しかと江戸城の熟れ過ぎた桃に伝えよう」
    「いたみいります。ご無礼の言の数々お許しを。まあ、ほっておいてもほどなく朽ちそうですが」
    「これ、口が過ぎる」
     伊豆守は笑いをこらえて、苦い表情を作った。
    「それはさておき一両筒だが、真田は宝のありかを突き止めたのだろうか?」
     伊豆守、なに食わぬ顔で探りを入れる。
    「わたしなどはもし隠し場所を見つけたらば、我が藩に二、三十万両くらいは融通せよと、剣之介に申しておりますが。そもそも財宝など存在しないと思っております」
    「わしはなければないでよいのだが、尾張様のほかにも困りごとがある。財宝が存在したとして、さるところに流れるほうが心配になる」
     伊織、なみなみと注がれた酒を三度飲み干し、
    「伊達、上杉まして松代でもない。伊豆様のご心配は長崎の踏み絵ですかな」
     近年、島原でキリシタンが不穏な動きを見せていた。藩と幕府の強硬派が弾圧を強めるなか、穏便に収めたい伊豆守は対応に苦慮している。
    「はっは、伊織殿、お手前にはかなわん。すべてお見通しか」
     今度は伊豆守の杯が満たされる。
    「一両筒の力がご心配なら、ご公儀が百万両で買い求めればよいのです」
    「幕府にそんな余剰金があれば、真田が旗揚げしようとも恐れまいぞ」
    「ごもっとも。だが買い取れば真田反乱の噂は消えましょう」
    「よしんば買い取っても、宝が発見できぬときはわしの首が跳ぶ。すでに見つけられていたとしてもだ」
     いまひとつ聞きたいのだが、と伊豆守は伊織に杯を勧めた。
    「真田剣之介、どのような男だ?」
     伊織はひと口で盃をぐいとあおると、
    「では、しばし昔話を」
     伊豆守に酒を勧めながら語り出す。
     わたしが父武蔵の養子となったのは十三歳のときでした。遡ること七、八年前になりますか、実父である田原久光に連れられて、たびたび武蔵庵を訪れて、稽古をつけてもらっておりました。ときには数カ月に渡って庵に寝泊まりいたしました。
     わたしが七つのときです。まだ幼い男児が庵にやってきました。武蔵はお前の弟弟子の木花(このはな)剣之介だと、わたしに告げました。剣之介は毎日ぐずって、ねえ、ねえと泣いてばかりおりました。無理もありません、生まれてこのかたずっとねえと一緒に暮らしてきたのです。さすがの武蔵もこれにはまいったようです。数日して、ねえを呼び寄せました。ゆいという名の娘です。剣之介の母はすでになく、猿飛佐助と霧隠才蔵という真田の忍びが男手で育てましたが、才蔵の娘ゆいも剣之介とともに育ちました。
     ゆいはわたしとはふたつ下で、剣之介とひとつしか違わないのに、これがまたしっかりした娘でした。ゆいといるとわたしのほうが年下である気がいたしました。
     武蔵さえ扱いに戸惑っていたのに、稽古でビシビシと打ち据えるのですよ。どこで剣術を習ったのか、幼い娘でありながら竹刀で剣之介を叩きました。幼女の太刀ですので、たいして威力はありませんでしたが。
     泣いてはいけません、当主がそのありさまでどうするのです、と手厳しい。当主とはなんなのかわたしには想像もつきませんでしたが、剣之介を厳しく鍛えるゆいの目にどことなく悲しみが宿っていたのを覚えております。あなたはわたしが守ります。ゆいは言いました。ですがわたしがいないときは誰があなたを守るのですか。武蔵様に剣術を習って、できるだけ強くおなりなさい。
     すると剣之介はゆいねえがいないときは、伊織の兄さまに守ってもらうもん、と答えました。わたしは唖然としましたが、ゆいは二の句も継がず、再び剣之介を打ち据えました。
     武蔵はゆいが男に生まれておれば、お前を弟子に取らなかったもしれん、とよく言っておりました。それほどにゆいには天性の素質が備わっておりました。
     稽古が終ると優しいねえに戻りました。剣之介は毎晩ゆいの布団に潜り込んでいって甘えておりましたな。
    ひと月ほど滞在して、ゆいは去っていきました。いま思えば、おそらく武蔵が引き放したのでしょう。数ヶ月経って剣之介が落ち着くと、真田の旧臣とともにゆいも頻繁に武蔵庵を訪れていましたので。
     さて、剣之介も新しい生活に慣れて、兄弟子のわたしとも打ち解けてきたせいか、ゆいが去っても今度は思ったほどはむずがりませんでした。おそらくゆいも去る前にだいぶ言い聞かせたのだと思います。しかしひと月と経たぬ間に剣之介は稽古に身が入らなくなり、あまり木刀を手にしなくなりました。剣術なんかつまらないと言うのです。武蔵はわたしに捨ておけと言って、そのまま剣之介は毎日を書見ばかりの日々。たまたま迷い込んだ野良とおぼしき仔猫をかわいがって、半月ほど間断なく餌をやっておりました。
     ある日のことです。剣之介が餌をやっていると、武蔵はなにも言わずにわたしと剣之介の目の前で猫を斬り捨てました。剣之介は泣いて泣いて、わたしがいくら慰めてもひと言も返さず泣きじゃくるのみでした。なぜこれほど酷い仕打ちをするのか、わたしは武蔵の真意を測りかねました。武蔵はわたしに裏庭に猫の死骸を埋めてこいと指示し、剣之介には自室謹慎を命じました。
     剣之介も強情で食事を終えるとさっさと自室に引きこもってしまいあました。わたしにはどうしていいか判りませんでした。 
     武蔵も剣之介も互いに目も合わさず三日ほどが過ぎました。日課の稽古のあと、武蔵がわたしに言いました。
    ―剣之介をこれへ。
     言われた通り、剣之介を引きずり出して、武蔵の前に引き連れました。
    ―わしが憎いか?
     剣之介は黙して答えませんでした。まだ小さきゆえ口で説明ができなかったのか、悲しみかあるいは怒りで声が出なかったのかはわたしにも判りません。武蔵はわたしにも尋ねました。
    ―か弱き猫にあまりにも酷いなされよう。
    ―ならば、そちはなぜ猫を救わなんだ? わしは斬る前にそちにも感じられるほどの殺気を放ったはずだ。
    ―猫同様にお師匠の恐ろしさに動けませんでした。
     わたしは武蔵の燃える殺気に足が震えて竦んでしまったのでした。わたしでさえ無力なのです。ろくに修行を積んでいない剣之介は気を失うほどの殺気を浴びていたとはずです。思い返しても仔猫を斬るのにあれほどの殺気は必要なかった。武蔵は剣之介に問いました
    ―身を呈してもという気構えがあれば、なにをおいてもわしの剣の前に立てたはず。そちはわしを阻まなかった。
    ―それは……
     剣之介は答えられませんでした。
    ―ならば猫でのうて、これが人ならばどうした? ゆいであったなら、どうしたか?
    ―守ります。
     剣之介は即答しました。武蔵は待っていたように、
    ―わしの剣を防げるか。ともどもに斬られてしまうであろう。
    ―剣之介なら我が身を投げ出しても、ゆいを助けようとするでしょう。
    ―伊織、お前に訊いてはおらん。
    ―守る。必ず守る。
     剣之介は一心に武蔵を見つめていました。
    ―剣術の嫌いなお前がどうやって守る。なんびとも救えぬ力量ではつまるところ口だけで終わる。よいか、人を救い自らも生き延びるためには、相応の覚悟、身の処し方が求められるのだ。
     武蔵はそれだけ言うと口をつぐんでしまいました。剣之介も幼いながら自分なりに考えたのでしょう。翌日、わたしが素振りをしていると脇にやってきて素振りを始めました。 そこが剣之介の契機でした。剣の上達には目を見張りました。
     立ち合えば五本なら四本、十本なら八、九本はわたしが勝ちました。しかし最後の一本は必ず剣之介が取るのです。ここぞのときの一心はわたしを凌駕しております。
     仕官が決まってわたしが出立する日、剣之介に稽古をつけました。十本目は勝負がつきませんでした。
    ―兄上、わたしも真剣を抜いて、人を斬らねばならぬときがくるのでしょうか。
     木刀を構えた剣之介にそう訊かれました。
    ―私に答えを求めても詮無いことよ。お前がそのとき、その場で決断しなければならない。
     わたしはかつての武蔵の言葉を思い出しました。  
     あやつはお前を超えてはるかに強くならねばいかん。お前はいずれどこかの藩に仕官させてやれるが、あやつにはさせてやれぬ。宿運といえばそれまでだが、自らを鍛えるしか生き残る道はないのだ。望まずとも、この先襲いかかる者を殺めなければならぬ日が来るだろう。
     その頃には剣之介がどういう出自なのか知っていましたので、剣之介の葛藤を知れば知るほど胸が痛みます。
    「剣之介の剣は守りの剣か」
     じっと聞いていた伊豆守が口を出した。
    「わたしはいまもって未熟者ゆえ、剣之介がどの程度の高みに達していくのか見極められません」
    「むむっ、最後の一本か」
    「実は剣之介の本気の剣を見ておりません。わたしの知る限り剣之介は一度も真剣を抜いていないはずです。先に申しましたが、いまだ器量を測れておりません」
    「まさか武蔵殿を上回ってはおるまいな?」
    「それはなんとも」
     武蔵庵を離れて久しゅうございまして、と伊織は含みをもたせた。
    「わざわざ、こうして伊織殿がわしの屋敷にわざわざ出向いてくるとは、剣之介は幸せ者であるな」
    「かわいい弟なのですよ。わたしが小笠原家に出仕する際に武蔵は言いました。伊織、判っておろうが後ろ盾のない剣之介は天涯孤独といっていい。わしが死んだあとも、あやつをよろしく頼む」
     お前や剣之介が平穏無事であることがまずもって尊い。二天一流の継承などはどうでもよいのだ、と武蔵はつけ加えた。胸の奥底には武蔵の言葉が刻まれていた。
    「弟になにかあれば、脱藩をしてでも駆けつける覚悟だけはできております」
     
    伊豆守は泊っていくように勧めたが、伊織はこれを辞して、屋敷を去った。去り際に伊織はひと言付け加えた。
    「わたしが裏庭に埋めろと命じられた猫ですが、ほどなく息を吹き返し、一目散に藪の中に姿を消しました。武蔵は峰打ちで仮死の体にしていたのです。修行が足りぬわたしにはまったく見抜けませんでした。武蔵は剣之介には教えるなと厳命しました」
    「いやはや」
    「剣之介は長きに渡って真相を知らされていませんでした。師に伝えられたのは剣之介が旅立つ日だったそうです」
     
    「桜花、聞いたか」
    「しかと」
     お袖を呼ばれていた娘が襖越しに声を返す。音もなく部屋に入り、行燈の脇に控えた。
    「半蔵の報告通り、一両筒は真田剣之介が持っているようだの。大助の遺児であったのだな」
    「伊織様の後をつけますか?」
    「無用無用。伊織ほどの者なればよもや斬りつけはすまいが、あっさりまかれてしまうであろうよ。人払いのあとも、お前が気配を消して聞き耳を立てていたことは承知であったはず」
    「判りました」
    「あの男も顔に似合わず豪胆な男よ。わしに圧をかけに来たか。幕府を軽んじおって、なかなかよい度胸よの」
     行燈を見つめながら、信綱は脇息に肘を乗せた。照らされる顔に不快はない。
    「この件、急ぎ策を練らねばならぬ」
    「ではわたしどもは?」
    「変わらず真田を追えい。六道衆は役にたつのか?」
     桜花が頷いた。
    「はっ、伊賀の里でも名うての手練れの者どもです。探索などにはかかわらず、戦いにて敵を倒す術に長けた戦闘集団でございます。よもや真田の忍びにおくれをとるとは思いませぬ」
    「だが、そなたも剣之介の腕前を聞いたであろう。ゆめゆめ侮るな」
    「では六道衆を真田にぶつけてもよろしゅうございますね」
    「ふむ。一興だな。剣之介の腕のほど測ってみたくなってきたわ。しばし好きにしてよいと半蔵に伝えよ。次第によっては真田ごと一両筒を葬ってしまえばよい」
    「心得ました。実は真田剣之介とは一度手合わせいたしました」
    「そちは剣之介と戦ったのか? で、どう見た?」
    「それが……」
     桜花は口ごもった。困惑気味に言葉が揺れた。
    「……判りませぬ」
    「判らんと?」
    「わたしどもが手裏剣を放ち、殺気づいておりましたのに気が返ってこないのです。なのにいともたやすく敗れてしまいました。思い起こすにあの男に気が吸いこまれてしまったような」
     わしは剣術がからきし使えぬのでよう判らんが、と伊豆守は前置きをして、
    「それもまた達人の域なのかもしれんな」
    「あんな相手は初めてでした」
     伊豆守は暫く黙した。
    「いまひとつ気になることがある。桜花、耳を貸せ」
     桜花はすばやく伊豆守に身体を傾けた。伊豆守は小声で新たな命を下した。桜花が目を見開く。
    「よろしいのですか?」
    「よい。くれぐれも慎重にな」
    「伊賀の三婆に見張らせます。われら三姉妹の師匠筋にあたるくの一ゆえ、遺漏はないかと」
    「うむ。ごくろうだった。もう下がってよい」
    「では……」
     言葉の終わらないうちに行燈の明かりがゆらりと揺れた。桜花の姿は室内にない。
     それにしても、
    「天下無双の宮本武蔵、猫を斬る、か」
     行燈を見つめながら、伊豆守は思わずひとりごちた。
     
     渋谷の武家屋敷の連なりを抜けると、一面を見渡す限りの水田が広がっていた。この一帯は稲作農家が点在していた。その一軒、敷かれたばかりの真新しい茅葺屋根の上を雀が跳ねながらさえずっていた。庭の池脇に植えられた染井吉野がこのときとばかり権勢を誇っていた。光のどけき爽やかな辰の刻が過ぎていく。
     見なりからして相当な家禄があると思われる深編み笠の武士がその家の庭に足を入れた。武士は背を向けて縁側で針繕いをしている家の娘らしき者に声を掛けた。
    「水を一杯所望したい」
    「お待ちを」
     百姓娘は土間の水桶に寄って、一杯の水を掬うと、
    「これを」
     と柄杓を差し出した。
    「旨い。旨いぞ、ゆい」
     娘はさっ、と身構えるが、武士に殺気はない。
    「伊織の兄様?」
    「気を消し、声音と骨相を柔らかくしただけで見抜けぬとは、まだ警戒が足りぬ。わたしが徳川の手の者であればどうするのだ」
    「申し訳ありません。久方ぶりでありましたゆえ」
    「わたしが気づいておりましたよ」
     障子が開いていない部屋から声がかかる。
    「兄上、お久しぶりです」
     剣之介が顔をのぞかせた。
    「一夜の宿を探しておるのだが」
    「丁度、旨い酒を手に入れまして」
     伊織は笠のくけ紐を解きながら、
    「剣之介は下戸ではなかったか?」
    「佐助がいける口だったですから。六郎はかなりのうわばみですし」
     六郎とは真田十勇士の生き残り望月六郎である。
    「六郎も戻っているのか?」
    「ゆいが不覚を取りまして、好機とばかり六の奴は治療と称してのべつこの家に居付いております。夜は自らの臓腑の治療と嘯いて徳利を首に下げて寝る始末」
     伊織は笠を預けて、しばしゆいを眺めた。
    「左足か」
    「ご彗眼」
     ゆいは目を伏して答えた。伊織ほどの武芸者になると、かすかな身体の違和も見逃さない。
    「養生しろ」
    「だいぶ回復しております」
     風に煽られた桜の花びらがうなじにかかる。この一年でずいぶんとたおやかさが増した。が、不憫だ。この主従を見ていると、積年の哀れみがこみあげてくる。
     宿命か。にしても残酷な。
    「兄上、旬の菜もありますよ。ただし、ゆいの手料理でよろしければ、ですが」
    「こらっ」
    「ははは、おまえたちは変わらぬだな。これほどに美しい娘の酌で飲めるなどは明石の城下にても、まずない。明け方、季節外れの美しい蝶を見たが、あの蝶が女人に生まれ変わってもゆいには敵うまい」
    「まあ、おたわむれを」
     ゆいは涼やかに笑った。
    「蝶は化かしませんよ」
    「わたしは狐、狸の類ですか?」
     ゆいの声質が強くなった。
    「ご城下の色街にはこの娘御に比肩する化ける花魁はおりませんか?」
    「またぁ」
     上気した叱責が飛んだ。
    「はは、ゆいにかなうおなごがいるものか。色街どころか名家のご息女といえど尻尾を巻いて逃げ出すわ」
    「思ったとおり狐だ」
    「剣之介さまぁ」
     これにはゆいも伊織に合せて笑うしかなかった。
    「今夜は楽しくなりそうですね。伊織様がいらっしゃられて本当にようございました。毎日剣之介様とばかり顔を合わせていると、眉間の皺が取れませぬ」
     土間に入った伊織は草鞋を脱ぎながらも依然として笑いが止まらない。
    「これ剣之介、ゆいを怒らせてばかりいるとわたしが明石に連れて行ってしまうぞ」
     ゆいは水を張った盥を上り框に置くと、袖を手前に引き、伊織の足を洗う仕草を見せた。
    「よいよい。姫御前に洗わせたら、剣之介に寝首をかかれる」
    「まあ、伊織様ったら」
     ゆいは少女のごとくはにかんだ。
    「先日、松平伊豆守に会ってまいった。やはりというべきか、どうにも一筋縄ではいかないお方だ」
     伊織は奥の剣之介に向けて声を大きくする。
    「伊豆守はいかがでした?」
    「押しも引きも心得た男だが、一両筒がお主の手元にある限り追手を放ち続けるであろう。おや、薬指の根元に小さなマメができている」
     伊織は自ら足を洗いながら、しげしげとおのが足の指先を眺めている。
    「江戸ならば逆に身を隠しやすいと思ったのですが」
    「隠れ家が露見したら、包囲される恐れがあるぞ」
    「伊豆守の屋敷に忍んで脅してやればよい」
     ゆいは伊織の腰の物を預かりながら、わずかに胸を張った。
    「これはこれは、変わってないな。相変わらずの巴御前らしいの」
    「まだまだ血の気が抜けきれてないようです。さほど傷が深くなくて、出血が少なかったせいでしょう」
    「これまたぁ。許しませんよ」
     
     伊織は対座して、剣之介の前に鞘袋を置いた。
    「義父上から預かってきた」
     剣之介が刀身を掲げると、刃紋が光を吸って煌めいた。
    「兄上、これはかなりの業物ですね」
    「無銘刀だ」
    「これほどの剣に銘がないとは」
    「義父上自らが鍛え上げた二本のうちの一本だ。あえて銘は入れていないとおっしゃった」
    「生涯、命に代えても大切に致します」
    「それがいけない。わたしまで義父上に怒られてしまう」
    「なぜでございます?」
     傍らで茶を点てていたゆいが訊いた。
    「人の命に勝る刀などない。人を生かし、命を救ってこその名刀だ」
     ゆいの手が止まる。剣之介は静かに納刀すると、頭を下げた。
    「まさしく、兄上のおっしゃる通りでございます」
    「なあに、義父上の受け売りだ。わたしもお叱りを受けた」
     伊織は口元を緩ませた。
     
    承の破
     剣之介に斬りつけた閻魔は柳生下屋敷にいる。名を鉢屋采女という。
     その采女が斬象剣の手入れをしていると、裏柳生の総帥、柳生玄蕃が入ってきた。玄蕃は石舟斎の妾腹の子であり、宗矩の一歳下の異母弟にあたる。一見すると恰幅のよい好々爺にしか見えない。昼間江戸の町を歩いても、道行く誰もが日本橋あたりの大棚の隠居と見間違う好々爺然の風体をしていた。
    「采女、あまり勝手な殺生はやめよ」
    「これは殿。異なことを承る。拙者がいつ出過ぎたまねをいたしましたかな?」
     采女は主が入ってきても叩頭もせず、振り向きもしない。
    「伊達藩士を斬ったであろう」
    「あ奴は馬廻り役と申しておりましたな。一両筒を所持している疑いで差料を拝見つかまつろうと、声をかけましたら、なんのかのと抵抗いたしましてな。なあにうるさい虫を潰しただけでござる。たかが外様の下っ端でござろう」
    「それよ」
     いかに土井利勝の後ろ盾があろうと、裏柳生の碌をはむ者がむやみやたらと人を斬ってはならん、と采女には厳命してあった。雄藩の名の知れた侍を斬るなどもってのほか。殺害が公になると責を負わされるやもしれん。伊達、上杉、松代と真田に縁のある藩士ばかりが斬られておるではないか。ご公儀に苦情を持ち込まれ詮議されたら、困るのは土井様ではないか。とどのつまり柳生が責めを負わされるになる。
    本人をどれほど説いてもいっこうに埒があかない。今年に入っても五人は斬り殺していた。このまま放置すれば、日々の機嫌の向きによって、外様のみならず徳川御三家の侍さえ手にかける危うさがあった。柳生の里で剣のみを己の頼りとしてきた采女にはそこが判らない。いや判らない振りをしている。
     玄蕃はもちろん宗矩も、采女が柳生一門で一番腕だと認めている。真剣にては十兵衛さえも上回ると見ていた。奔放な采女をもてあましてはいても、放逐などはもってのほか、厳しい叱責をも控えているありさまだった。宗矩は昨年の御前試合で一門として出場させた武田宗軒が、いともたやすく宮本伊織にひねられた一件をいまなお苦々しく思っていた。あのとき采女がいれば、屋敷で采女を見かけるたびに玄蕃にこぼしていた。
     だがしかし、とも宗矩は言う。試合に出したら出したで、不祥事を起こされる危険も拭えない。対戦相手を酷く惨殺して、家光の不興を買う恐れもあったであろう。采女の剣は殺人剣である。しょせん表通りを袖振って歩ける者の剣ではない。玄蕃にももちろん判っている。裏には裏のお役目があるのだ。
     土井老中は服部半蔵と裏柳生を競わせている。真田の始末を首尾良くなせば、公儀隠密の主たる役目を柳生の忍びが任されるかもしれぬ。そこでこそ采女の斬象剣が生きる。
    「半蔵の配下などかたっぱしから斬り捨ててもいっこうにかまわん」
    「同士討ちですな。拙者はそれでけっこう」
    「断じて同士などとは思うなよ。互いに成果を求めて手柄を競い合っている敵じゃ。伊賀者などなにするものぞ。きゃつらよりも先に一両筒を見つけるのだ」
    「さすれば裏柳生の天下ですな。刑部殿も喜びそうなご命令だ」
     玄蕃はおのが子の名前を出されると露骨に嫌な顔をした。玄蕃にしてみれば刑部は我が子ながら宗矩の子、十兵衛と比べて、胆力も剣の腕もはるかに及ばないとの思いがある。刑部にとって剣は二の次、女を手篭めにするばかり考えているうつけだった。なおさら采女は手放せない。
     玄蕃は表柳生にかまわず、服部家と敵対してでも裏の勢力を伸ばすべく奸計を巡らしてきた。幕府の重役たちの指示で汚れ始末を引き受け、有り余る益をもたらしてやった。一両筒の件がいわば最後の仕上げなのだ。それだけに不肖の刑部が嘆かわしい。采女の剣に頼らなくては半蔵すら出し抜けないと踏んでいた。
     こやつには野心などない。ただ、ただ、おのが本能にしたがって斬り殺すという欲望だけで動いている。そのうえできるだけ手練れの使い手を斬りたがる。こやつを御するのは難しい。玄蕃は己が育てた剣鬼の隆々とした背を眺めた。
    「真田一党を探しあぐねたら、代わりに半蔵の手下でも捕らまえて、一両筒の消息をどこまで掴んだか白状させよ。きゃつらの後塵を拝してはならぬ」
     柔和に見えた目がきらり冷たく光った。顔には険が浮き彫りになっていた。
    「お宝探しにやたら手間をかけておりますが、そんな面倒をかけずに真田の残党を根絶やしにしてしまえばよい」
    「采女、馬鹿を申すな。殲滅するだけでは解き明かされていない宝の在処が判らなくなる。一両筒には隠し金山か銀山あるいは銅山か、はたまた百万両千万両の在所を示す手がかりがあるのかもしれんのだぞ」
    「そんな宝など当初よりないと思えばよい。なまじ欲をかくと寝首を掻かれますぞ」
    「土井様が見つけ出せと厳命しておるのだ。汝がとやかく口を出すべき事柄ではない」
     好々爺が転じて、玄蕃の口元が醜く歪んだ。
    「ほう、吝嗇なのは土井様ですかな。もしや、どこかの殿とか」
     采女は控える素振りもなく、平然と言い放った。
     
     鉢屋采女はみなしごだった。親を知らない。父も母も。したがって自分の生年を知らない。柳生道場の門人には親は恋しくはなかろうか、欲しいと思わなんだかと聞かれたが、なんの感慨も湧かなかった。
     もの心ついたときには庄屋秋山権兵衛の家に住まわっていた。ある時、門の前に裸同然で倒れていたという。村の子ではなく、捜索の範囲を広げても親は姿かたちもなかった。村の者はおおかた宿場を渡る飯盛り女郎が旅に疲れ、連れていた子をもてあましたのだろうと噂しあった。庄屋の七つになる総領息子と比べてもはるかに年下に見えるのに頑健な身体つきをしていたせいか、言葉が通じる歳になると力仕事を含めあらゆる雑用に使われた。
     名前を覚えていなかったため、定吉と名づけられた。粗食ながら食事もきちんと与えられていたので、定吉には格別不満はなかった。あまりに口を開かないため不気味がられて、家人も用向きを言いつける以外はほとんど寄りつかなかった。用のないときは村中の薪割りに貸し出された。薪がなくなると、村人に連れられて、山林に立ち入り樹を切り倒した。伐採のコツを教えられると、あとはひとりでやらされた。
     下働きにきていた近所の農家の四十がらみの女が、着のみ着のままだった定吉に小作人の古着をあてがい、綻ぶと縫い直してくれた。まもなく粗末な小屋に定吉を引き取り、食を含めて定吉の世話係となった。
    定吉はいったい幾つなのかねえ、どんどんと大きくなるねえ。女は定吉が自慢の種だった。女の夫は一年ほど前に流行り病であっけなく逝っていた。若い頃娘をひとり産んでいた。
     権兵衛の息子とはおそらく五歳は離れていたはずが、数年で背丈が追いついた。粗末な食い物だけで、なぜあれだけの体格になるのか、権兵衛どころか村の住人も首を捻った。
    女の家に住んで三年ほど経って、女と関係を持った。定吉が野犬に噛まれて血だらけになったときだった。素手で野犬を殴り殺したせいで、拳といわず身体中が血まみれとなった。噛まれた部位は太股だけだったが、女は古着を脱がせて全身を洗って、手当をした。定吉のたくましい身体つきに女は我を忘れた。まだ十にもなってなくとも、男と女のいろはを知っておいて損はないよ、と言って定吉を導いた。
    女と関係を持ち始めてひと月後、子が産めないと山向こうの桶屋を離縁された娘が出戻った。娘は母親の口利きで庄屋の屋敷に住み込みで働き始めた。
    人目を忍んでいたつもりのはずが、ひと月もすると草むらで情を交わす現場を娘に見られた。日ならず定吉は母と娘の共有となった。娘は母親が働く隙を見つけては実家に入り浸った。
     女たちとの交歓が定吉の野生を目覚めさせたのか、身体の成長度もさらに速くなった。定吉は薪割りの合間に太木を削って木刀を作り、夜な夜な野犬狩りをした。犬ではなく狸の場合もあったし、猪を屠ったりもした。慣れてくると山犬さえ叩き殺した。獣の血の臭いが精神を高揚させ、殺戮は続いた。
     
    しばらくして娘の月水が止まり、ほどなく腹がせりだした。村中で父親探しとなったが、名乗り出た者はいなかった。娘も頑として口を割らない。石女であったがために出戻った娘が孕むとは、天狗様の仕業に違いないと言い出す者が出始めた。定吉は母娘と侵食をともにしていたが、その歳ゆえに疑う者は誰ひとりとしていなかった。
     
    生い茂った雑草が独得のむせる匂いを散らしていた風の強い夏の日、定吉の運命が変転した。いつもと変わらず、人目を忍んでさんざ草叢でまぐわった。小袖に腕を通した娘は庄屋に言いつかった定吉の用むきを思い出した。定吉は言いつけを一度たりとも忘れはしないが、娘はときに権兵衛の用を伝え忘れる癖があった。
     定吉は腰紐に木刀を差して、小走りの娘について行く。木刀は獣の血が沁み込み、どす黒い。のどかな細い畦道を武士の一団が歩いてきた。急いた娘は大胆にも身体をひねって一団を避けようとした。一陣の突風のせいか、早足のせいか、腰をまわし過ぎたせいか、腹の子の動きのせいか、急いた女はよろけて先頭の武士にぶつかった。
    ―無礼者。
     陽に煌めいた白刃が、いきなり娘の首を飛ばした。首は泥田へと転がり落ち、道に座り込んだ首無し女からは血飛沫が止めどなく噴き出していた。
     娘を斬った武士が懐紙を取り出したとき、頭上に黒い影を感じた。見上げるとそこには跳躍し、木刀を振り下ろさんとする定吉がいた。
     鳴きたてる蝉のやかましさが一瞬消えた。鈍い音だけがあぜ道に響く。
    ―こやつ……
    ―うぬ、小僧。
     武士は頭を割られ即死だった。怒りを露わにした仲間の武士が刀を抜いた。続けてひとり、ふたりと定吉に刃を向けた。定吉は臆せず武士を睨み返す。最後尾の武士だけが刀に手をかけていない。
    ―待てい。
    ―しかし玄蕃様。
     玄蕃と呼ばれた武士は深編み笠に手をかけながら、定吉を見降ろした。武士には左腕がなかった。
    ―小童に倒されるとは、なんたる未熟者よ。捨ておけ。
    ―し、しかし。
    ―そちたちもこの小童の跳びに対処できておらなかったではないか。
     玄蕃は木刀を構えたままの定吉に話かけた。
    ―人を殺したのは初めてか?
     頷く。
    ―誰に剣を習った?
     被りを振る。
    ―ついて来い。
     定吉は無言で従った。威圧感に気おされたというのもあるが、なによりその武士はむせかえるような血と死の匂いを醸していた。定吉がかつて嗅いだ匂いのなかでもっとも自分の心を騒がせる匂いだった。
     
     叩き殺した武士は鉢屋采女といった。
    ―お前は今日から采女という名だ。
     玄蕃にそう言われ、定吉は鉢屋采女になった。
     十月経って、女が女児を出産した。村では娘の生まれ変わりだ、いや、あのとき娘の腹にいた子が宿ったのだと大騒ぎになった。娘が惨殺された日に風とともに消えた定吉の失踪も含めて、あれはやはり天狗様の仕業だったのだと言う者が大勢を占めたという。定吉の消息など気にする者もなく、すでに忘れられていた。去ってのち、采女は一度も村に足を向けてはいない。
     
    承の急
     翌朝、ゆいと佐助、六郎が去って一刻後、剣之介と伊織も住まいを後にした。江戸周辺では十日毎に住居を移ってはいたが、伊織の訪問で二日ほど日延べしての出立となった。点在する農家を後にすると武家屋敷が建ち並ぶ道へと入った。屋敷の土塀はようやく差してきた朝日に照らされ始めたが、まだ眠りについているのか人の気配はない。
     道すがら、伊織は松平伊豆守邸へと剣之介を誘った。
    「徳川方の重鎮になど会いに行く気はありませんよ」
    「大坂の役とは世代が違う。わたしもお前も伊豆様もだ。真田を目の敵にしているわけではないぞ。お前を狙っているとしても会っておいて損はないお人だ」
     歩を進めるふたりの前に忽然と巨漢が現れ、行く手を遮った。鉢屋采女だった。左右には新顔の牛頭馬頭を伴っていた。
    「小僧、また会えたな。ぬしが真田の残党と判っていたら、あの晩追いかけてでも斬り殺していたわ」
    「会いたくはなかったよ。しかし牛頭と馬頭はやたら何人もいるのだな」
    「剣之介、この男は?」
    「昨夜、お話した刀狩りです」
     采女は口を歪めて笑う。
    「伊豆守の屋敷に張り込ませていた甲斐があったわ。真田と縁のある者が伊豆守の屋敷に出入りしているとは驚きだったがな」
    「してみるとわたしが数日の間つけられたか。幕府隠密のくせに伊豆様の屋敷にまで張り込んでいるのか?」
    「わしらを甘く見るな。追尾に長けた者を数十人と費やして追ったのだ」
     と馬頭。牛頭が得意げに続ける。
    「天下無双の武芸者であっても振り切れぬわ」 
     剣之介は首を傾げた。
    「周りは武家屋敷ばかりだ。天下の往来で辻斬りか。この間といい大胆にもほどがある」
     采女はすでに鯉口を切っている。
    「命と刀をいただこうか」
    「これは噂の閻魔殿、ここはわたしが相手になろう」
     伊織が剣之介を抑えて前に出る。
    「ふん、おれが閻魔だと。では地獄の門番としてあの世へ送ってやろう。どちらの真田が先でも構わん」
    「わたしは真田ではないが。まあお主たちにすれば同じ類か」
     伊織はまだ剣を抜かず、采女との間合いを測っていた。
    「はて閻魔大王は門番に格下げになったのかな? 後ろの牛頭馬頭と同格ではないか。のう剣之介」
    「腐れ儒者のような男よの。おれの斬象剣受けてみるか」
     采女がぎらりと斬象剣を抜き払った。血糊が塗り重なったせいか刀身が鈍く黒光りしている。牛頭が懐に手を入れた。
    「内膳、余計なまねはするな。邪魔立てすると貴様を叩き斬るぞ」
     恫喝に恐れをなした牛頭と馬頭が及び腰でゆっくり後ろへと下がった。
    「兄上、お気をつけて」
    「うむ。聞きしに勝る大刀だな」
     采女はゆったりと構えると、ひと呼吸もおかず凄まじく跳躍した。伊織は抜き払った剣の鍔元で斬象剣を受けた。二合、三合と打ち合ったが、真正面の受けは避けている。力技で振り下ろしてくる斬象剣の刃先を微妙にずらしながらの受けだ。采女は二歩引くと、
    「五手受けて、生きていたのはぬしが初めてだ。いや、楽しいぞ」
    「まさに殺人剣よな」
     伊織が言い終わらないうちに采女の体躯が宙に浮き、伊織の脳天を狙った。伊織は刃を合わせずにするりと身をかわした。素早き足さばきだった。
    「臆したか、臆せず打ち合え」
    「剛には柔だ。剣之介、このご仁は剣術の初歩を知らんとみえる」
     続いての一撃も刃を合わせずに飛びのいてかわす。
    「どうした、振り回してばかりでは人は斬れんぞ」
     采女はまったく表情を変えない。
    「おれを焦らそうとしても無駄よ。いくぞ」
     采女は人とは思えぬ咆哮を伴って伊織に斬りかかった。伊織は振り下ろされた斬象剣を左にかわし、物打ちを返すと、刀の棟で斬象剣を抑え込んだ。互いの息がかかるほどの間合いとなって袖が触れ、棟と棟がぎしぎしとせめぎ合う。が、腕力で上回る采女が伊織の刀を撥ね上げると、胴を狙って斬象剣を横一文字に一閃させた。伊織も飛びのきながらもすかさず逆袈裟斬りで応じる。
     伊織は十歩ほど離れた位置に落ち着いた。緊張はなおも続く。伊織は次なる攻撃に備えて八相に構えた。手首から肘にかけて血の筋が流れていた。
    「ふふふ、よいぞ」
     采女は伊織の剣先を見据えながら口元だけで笑った。采女の左袖がばくりと口を開け、二の腕がむき出しになった。
    「これほど痺れる殺し合いはめったにない」
     采女は斬象剣をより高く天に突き上げた。
    「剣之介、引くぞ」
     伊織の指示で剣之介は即座に四方の地面に煙幕玉を打ちつけた。付近一帯、猛然たる土煙が蔓延した。
     視覚はもちろん、炸裂音に一時的に聴覚を失い、牛頭馬頭はもちろん、采女でさえ視界に伊織と剣之介を捉えられなかった。うっすらと地形が見え始めた頃にはふたりの気配はなかった。
     
    「しかし、恐ろしい遣い手だった。あのまま続けていたらどちらかが倒れていたろう」
     傷跡を見る伊織の顔は青ざめたままだ。すでに斬り合った地点を二里ほど離れていた。
    「恐るべき怪力でしたね」
    「見ろ、刃こぼれしている。研ぎに出しても元には戻らぬなあ」
     伊織は刀を翳して剣之介に示し、しみじみと見いった。
    「傷はいかがですか」
    「大事ない。切っ先が触れた感触はなかったのだが、まさか風圧で斬られたか」
     伊織は首を捻った。
    「かもいたちの剣ですか?」
    「だとしたら空恐ろしい使い手だな」
     渋面を崩さない伊織は傷んだ刃を眺め続けていた。
    「腕だけなら、かつて試合でまみえた荒木又右衛門以上とみた。殺人剣とはいえ雑念がないのだ。奴は男女問わず貴人、要人をも丸太を切るごとくに斬れるはずだ。老若男女誰彼かまわず躊躇なく斬り殺せる邪鬼だ。剣之介、今のお前では勝てぬ」
    「以前争ったときに負けずとも勝てぬと感じました」
    「剣筋は見切れたか?」
     伊織は剣之介に太刀筋を見せるために進んで采女と剣を合わせたのだった。
    「新陰流の流れがあるかと」
    「新陰流が基本になってはいるが、あれは鬼才、いや化け物のみが使う獣の剣だ」
    「獣の剣?」
    「そうだ。本人が意識しているかは判らぬが、生殺与奪への飽くなき渇望が生んだ血まみれの魔剣と言ってもいい。決して伝承できる剣ではない」
     義父上にいただいた利剣であったのに、と伊織は刃こぼれした剣を惜しそうに鞘に収めた。
    「いまの義父上だとまともに打ち合っては分が悪いかもしれん」
    「まさか、そのような」
    「若き頃ならなんなく勝てるだろう。その昔、桁外れの天賦の才を持った男の剣を相手にしている。ほれ、あの佐々木小次郎よ」
     小次郎を一撃で倒し、天下一と言われた武蔵であっても周到に準備を整え、正攻法では戦わなかったとの批判もあった。もっとも武蔵は小次郎を倒した後の面倒を避けるため、最善の策を講じただけなのだが。数を頼んだ小倉藩士たちの仇討を避けるために小舟に乗り、すぐさま小舟で去るという兵法を使ったのだった。
    「よいか、避けられぬ戦いであれば、初太刀からまともに打ち合ってはならんぞ。お前があの男と比べて優れている点は身の軽さだ。二刀もここぞ、というときまでは封印しておけ」
     ために伊織はわざと二刀流を封印したのだった。剣之介は返す言葉を失った。
    「兄上……」
     それだけ言うのがやっとだった。
     
     伊織と別れて早や十日が経っていた。その間、およそ考えられない平穏な日々が続いている。剣之介はゆいと佐助を伴って、甲州街道八王子を少し脇道に外れた百姓家の離れに身を寄せていた。人里を離れ、道行きのさかんな在所ではない。佐助が出、六郎が入った。
     そこへ松代から剣之介の大伯父にあたる信濃松代藩主・真田信之の書状を携えてきた者があった。弓削作之助、新田天元、猿飛小玄太の三名である。三名とも松代藩の禄を食む真田忍びであった。
    「して若、信之様はいかに仰せで?」
     六郎が聞く。まだ昨夜の酒が残っていそうな顔つきだ。
    「相手方の挑発に乗るな。くれぐれも軽挙は避けよ、と」
     剣之介は読み終えた書状を巻くと掌に収まるほどに小さく丸めた。開くと手の平に乗せたまま、囲炉裏の火箸を取り上げ、ほどよく潰れた書状に火を点けた。小玄太は口を開いたまま、目を皿にして見ている。
    「徳川と一戦交えてもよいのに」
    「ゆい殿はいつお会いしても血気盛んですなあ」
     作之助が半ばあきれ顔で笑った。
    「公儀の追及耐えがたくば松代に参れと」
    「松代にご迷惑がかかります。かかる火の粉は払えばよい。打って出て、真田憎しの急先鋒を数人血祭りに上げれば風向きは変わります」
     ゆいはすでに正座ができる状態になっていた。
     剣之介はゆいには答えず、
    「血縁の者を見放したとあっては父上や信繁に会わす顔がない。遠慮せず頼れとあった」
    「逃げの姿勢が敵方を図に乗らせるのです」
    「さすがは真田本家のご当主」
     六郎が感嘆する。ゆいは上田の三人にあえて聞かせるために主戦論を唱えているが、六郎がゆいの言葉を中和してしまう。
     書状は灰となって黒く固まった。剣之介は手の平に灰を乗せ、ふっと息を吹きかけた。灰は切れ切れになって宙を遊び、ゆいが袖から取り出した切り紙の上に落ちた。小玄太の首がゆいへと伸びる。ゆいは事もなげに、切り紙を四つ折りにして袖の袂にしまった。
    「いやはや、三人で書状を持ってくるとは、信之様は慎重を期されますなあ」
    「は、われら三名は剣之介様の身辺警護にあたれと」
     天元が答えた。年若い小玄太は首をすくめて神妙にしている。
    「いたみいる。お主たちも難儀だなあ」
    「剣之介様、滅相もございません」
     作之助らは慌てて三者三様に頭を下げる。
    「佐助とはどういった縁にあたる?」
     ゆいが小玄太に問いかけた。
    「はっ、遠縁でございます」
    「小玄太、わしは今夜立つが、足手まといにはなるな」
     佐助は小さく縮こまった小玄太にきつい口調で言った。もともと身体の大きなほうではない小玄太はさらに小さくなった。
    「ともかく三人も遣わしてくれるとはありがたいですな」
     白くなった顎鬚を撫でながら、六郎が取りなした。
     
     ゆっくりと朝の食を済ませると、一行は江戸を目指して百姓家を後にした。幾分離れて無言のまま裏街道を行くが、昼を過ぎて国領で作之助が異変に気づいた。
    「つけられてますな」
     ゆいはいまさらと背後を歩く作之助を振り返った。
    「やっと気づいたか、十町も前からだ」
    「十町どころか、はるか前だ」
     剣之介が訂正した。
    「しだいに数が増えてきている。二十名ほどかな」
    「え、そ、そんなに多く?」
     小玄太が驚きをあらわにした。天元はすでに刀の柄に手をかけている。
    「わしにはまるっきり気配など感じられんがの」
     小玄太、天元の緊張を察して、六郎はあえてのんびりを装っている。
    「案外、お主たち、松代城下を出てすぐさまつけられていたのではないか?」
     六郎の問いに天元は顔色を変えた。
    「まさか」
    「いや、ありうる。幕府隠密ならいともたやすく足跡を辿れるだろう」
     ゆいは代わる代わる作之助ら三人を見やった。
    「五月蠅いハエを払いますかの?」
     六郎が剣之介に同意を求める。
    「ハエなどひねりつぶせばいいのです」
     ゆいが刀の柄をたんと叩いた。
    「では、ここらでいったん分かれる。じいの待つ馬場で落ち合って船橋へ移ろう」
     気が高ぶったときのゆいに対しては剣之介もあえて口を挟まない。
    「十蔵は釣りが上手いし、魚が旨そうですな」
     船橋の隠れ家には筧十蔵が待っていた。魚と聞いて六郎は舌舐めずりしてみせた。
    「別行動では剣之介様をお守りするというわれらの使命が果たせなくなります」
    「作之助殿、われらといるほうが剣之介様は気を使われる。家臣が守られてどうする。ここは別行動がよいのだ」
     ゆいには取りつく島もない。
    「小玄太、まず逃げよ。面と向かって戦う必要はない」
     剣之介は自分とさほど年の変わらない小玄太を気遣った。
    「ではわたしがしんがりを」
    「ゆい、病み上がりだろう、無理をするな」
     天を仰いだゆいは剣之介に向き直り、にこりとした。濃い灰色の雲が風に乗って飛ぶように来ては去っていく。
    「今日の雲行きなら、あなたが相手だとしても逃げ切れます」
    「判った、任す」
     剣之介の頷きでめいめいが動き出した。まず六郎が本道筋を逸れ、脇道へ移った。戸惑い顔の小玄太は作之助の指示を受けて木立の奥に消えた。ひとりふたりと外れて、あとにはゆいと剣之介が残された。背後の追手ももはや殺気を隠そうとしない。ゆいは瞬く間に小姓袴を脱ぎ捨て忍び装束に変化した。
    「手練れが数名混じっているようだ。足止めするだけでいい。ひとり残らず倒そうなどとはゆめゆめ考えるなよ」
     ゆいは黙諾すると、剣之介を安心させるためか目元を細めて笑った。
    「前みたいな油断はしないつもり」
     ふたりきりのときの主従を越えた口調になる。
    「ほうら、倒すつもりでいるな。軽挙は慎め」
     剣之介はゆいに自制を促しながら軽く手を振って、分かれ道を左に折れた。
    「判ってます、気をつけるから。さあ、行って」
     ゆいは歩みを止めると振り向きざまに太刀を抜いて、街道の中央に立ちはだかった。まだ怪しき影は認知できないが、目を閉じ耳を澄まして、待つ。
    ご無事で。早足で去る剣之介にはすでに届かないことくらい判っているが、ゆいはあえて声に出して呟いた。
     木立を揺らす黒い影が風塵を巻き起こしながらゆいに迫ってきた。真田勢を追尾する先陣の忍者たちだ。ゆいの手裏剣が樹上を疾走する影法師に放たれた。うがぎゃ。ぐう。ぎええ。絶命した三体が落下した。
     続けざまに傍らを過ぎる第二陣に手裏剣を放ち、これも二体を撃ち倒した。逃した一体は捨て置き、次の集団を待ち受ける。
    第三陣がゆいを追い越そうとするが、これを阻止して一体を屠った。
    「お、足止め役か」
     と、ひとりだけ手裏剣をかわした忍びが道に降り立ち、ゆいの目の前に姿を見せた。忍び装束ではなく武家のいでたちをしている。
    「この先は行かせない」
     後続の二人が降りてきた。
    「どうした右近?」
    「なんじゃ右近?」
     いかにもといった忍び面ではない。ひとりは托鉢僧、もうひとりは木こりの風体をしていた。
    「どうやら、この女がしんがりらしい」
    「伊賀六道衆相手に無謀な抗いだ。そこに倒れている下忍のようにはいかんぞ」
    「無謀かどうか、やって見なければ判るまい」
     ゆいは細く長い眉を吊り上げて、三人を睨みつける。
    「おまいの相手はわしがしてやろう。きひひ」
     四番目の声がした。声の相手はと見ると身の丈四尺ほどしかなかった。侏儒といっていい。ざんばら髪で、首が異常に短く、粗末な襤褸を着て、薦被りにしか見えない風体だ。
    「半蔵はこんな忍びしか飼っていないのか」
    「きひひ、見かけで判断をすると命がいくつあっても足りんぞ。右近、九相、妖丸、先に行け。この女はおれがいただく」
    「よし、任せたぞ、幻児」
     薦被りに声をかけて三人が飛び立った。
    「待て」
     投げた苦無が右近らを追尾するも、やすやすとかわされた。幻児と呼ばれた小男の手裏剣が追う姿勢を見せたゆいの行く手を阻んだ。
    「小娘、相手はこのわしじゃ。あいつらを追いたければわしの屍を踏み越えて行くんだな」
     幻児はおぞましげに笑い、禿げあがった頭部を撫でた。
    「ならばそうするまで」
     ゆいは剣をまっすぐに立て、胸元に引きつけた。
    「霧隠ゆい、参る」
     
    「忍びのくせにやたら息が切れているではないか、ご老人」
     望月六郎は皆と別れてすぐに標的となっていた。追いついてきたのは、キツネ目で肩幅のがっちりした威圧感に満ちた大男だった。
    「わしも年じゃでの。ま、若い頃から走りは苦手じゃったわい。だがな、お主程度にはまだまだ負けん」
    「たるんだ身体でなにができる?」
    「やってみにゃあ、判らんじゃろ」
     思わず六郎は下腹を撫でる。朝な夕なに飲んで寝てばかりだったわい。六郎はにたりと笑う。
    「腰の刀を渡せば片腕を貰うだけで見逃してやろう」
    「あいにくだがどちらも大切でな。わしはもともとしわい性分だし、諦めてお帰り。もしくは、そうさなあ、お主の命と交換なら、この刀をやってもよいぞ」
    「ふざけるな。貴様らを皆殺しにして刀を奪ってもよいとの命を受けておるのだ。四半刻たたず地獄巡りの遍路旅に送ってやるわ」
    「ほ、年寄り相手にずいぶんと時間がかかるのう。もう長いこと真剣勝負なんぞしとらんが、ゆっくりぼちぼち相手になってやるわい」
    「伊賀六道衆、いかづち丸が秘術雷電を見るがよい」
     やおら、いかづち丸の頭上に黒々とした雲が集まってきた。黒雲がぴしりぴしりと稲妻が走らせている。
     どうやら容易ならないやっかいそうな奴じゃわい。指の関節を鳴らすと、六郎は四肢の肉を引き締めた。
     ばりばりっと天をも切り裂く轟音が鳴ると、目が眩むほどの稲妻が続けざまに六郎の頭上に落ちてきた。再三飛びのいて避ける。樹に身を寄せると、ばりばりっと雷鳴が轟き、背後の樹木が縦に引き裂かれた。熱気と焼け焦げた匂いが充満し、六郎を包んだ。
    「いつまで避けられるかな、ご老人」
    「空は晴れておるのにゴロゴロとうるさいのう。音のやかましさだけは一人前じゃわな」
     六郎はいかづち丸に手裏剣を投げつけると、背を向けて走り出した。いかづち丸は無防備な態勢を見逃さない。
    「じじい、逃げられると思うたか。足が遅いわ」
     いかづち丸が拳を振って六郎の背を差し示すと、幾条にも別れた稲妻の光が先を争いなが背後を襲う。雷光は次々に背に突き刺さり身体を貫いた。六郎は手を上げたままの形でよろけて前のめりに倒れた。
    「他愛のない年寄りだ」
     稲妻が消えると、背には六本の手裏剣が刺さっていた。
     
     鋭利な刃に肩をかすられて、天元は枝から足を踏み外した。横転はしたが、かろうじて態勢を立て直す。
    「ほう、よく避けた」
     追手は陣羽織を着た武士のいでたちをしている。手に十尺に余るかという赤い鞭が握られていた。天元を襲ったのはこの鞭だった。
    「死ぬ前にわたしの名を聞かせてやろう。不見上右近だ」
    「近頃の忍びは名乗るのが当たり前なのか」
    「三途の川の渡し守に自分を殺めた男の名も言えぬのでは恥ずかしかろう」
    「おれは名乗らぬ。名も知らぬ者に打たれたと、三途の川で恥入って貰おうか」
    「ふん、ならば死ぬ間際に名前を聞き出してやろう」
     右近が喋り終わらぬうちに天元は煙幕玉を投げつけた。続けざまに三度、猛煙が上るなか、右近の気配目がけて毒針を吹きかけた。
     黒煙が風になびき、視界が開けてくると天元は目を見張った。右近は三歩と違わない距離に位置取りをしていた。
    「そんな子供騙しはわたしには効かん」
     手にした鞭が左右自在に空を切った。右近が鞭を地面に下ろすと、鞭には数十本の針が刺さっていた。
    鞭は先端にいけばいくほど尖度がついて鋭利さを増していた。研ぎ澄まされたそれは、のたうちまわって硬い土塊をめくり上げた。さながら狙いすまして獲物に襲いかかる蛇の仕草だった。
    「ならば、わたしの蛇頭鞭受けてみるか」
     右近がしなやかに鞭を振るうと、牙を剥いた毒蛇さながら、ぐん、と噛みつかんばかりに先端が伸びてきた。鋭利な鞭先は掠めただけで天元の服を破り皮膚を裂いた。まともに受ければ骨も砕け散るほどの強度があった。
     樹上に逃げても追ってくる鞭は枝の根元に絡みつき、いとも易く枝をへし折った。たまらず飛び降りて草叢に身を隠しても、鞭が追ってきた。天元は吹き針攻めの反撃を繰り返すが、すべてうねる鞭に飲み込まれてしまう。
    「あの鞭を封じねば」
     天元は右近の正面に立った。顔面にうなりを上げて迫りくる鞭は、一本の槍とまがうほどだった。これを天元、鞘ごと抜いた刀で受けて、鞭を鞘に絡ませた。すかさず抜刀して鞭の頭を切り落とした。
    「なかなか、やるではないか」
    「鞭の威力は半減だな」
     天元は汗を拭いながら、距離を空けた。
    「どうかな。これが受けられるか」
     右近はためらいもなく首を失った鞭を捨てる。手にはなにひとつ携えていない。
    ところが右近が手の平を草叢にかざすと、一本の黒い鞭がするするっと地を這って現れた。鞭は頭を分裂させて二本となった。分かれた鞭は赤い色をしていた。
    「こ、これは?」
     天元がいぶかしむと、分離した鞭が四本に分かれた。黒から赤、青、黄が生まれ、左右におぞましく動き回る。
    「ふふふ、忍法多条鞭」
     四本がさらに八本となり、おのおのが意思を持って自由に動き回っている。色もさまざまに増えている。八本の鞭の先端すべてが天元を見据えて鎌首を上げ、飛びかかった。
     天元は代わる代わる襲ってくる八本の鞭をかろうじてやりすごしたが、邪悪な生き物と化して間断なく迫る鞭は天元を囲み退路を断った。ついには縦横無尽に押し寄せる鞭の一本に左腕を巻きつかれ、したたかに噛まれた。
    「む、鞭に牙があるのか?」
     天元は混乱の極みにあった。真っ直ぐに伸びてきた先端の尖った鞭が太股を貫通する。たまらず天元は悲鳴を上げて倒れ込んだ。好機と見たか、残りの鞭が一挙に群がり、たちまちのうちに身体を包みこんだ。
     
     次の樹へと身を移しながら小玄太は隙を窺う。九相法師と名乗った僧形の忍者は数珠を手に変わらぬ姿勢で念仏を唱えていた。
    「小僧、飛び回るばかりだな。攻めてこい」
     念仏を中断し、九相が手をだらりと下げて誘いをかけた。慎重を期する小玄太は誘いに乗らず、樹上にあっては山猿を凌ぐほどめまぐるしく位置を変えていた。佐助直伝の攻守に優れた猿飛の技だ。
     猿飛の本名は知られていない。どれほど技量の優れた忍者でも容易になせない敵城への侵入や、厳重に警戒していた敵陣をやすやすと突破しうる人であって人でない稀有の能力によって付けられた呼び名だった。
     真田家に帰順して数年も経たず、猿飛佐助の名は忍者仲間のみならず、武芸者の間にも広まった。敵方は恐れ味方は喝采した。徳川家康は暗殺を恐れた。佐助の全盛時ならば可能であったろう。しかし権謀に長けているといわれていたはずの真田昌幸、智将と謳われた幸村は真田の忍びに武将の暗殺を禁じていた。
     権力欲にかられた権謀術数まみれの家康とは矜持が違うのだ。大名としての誇り、武将としての誇り、さらには武士としての誇りを失ってまで犯すべきではない、と昌幸は言った。
     剣之介様が逃げおおすまでは、食い止めなくてはならぬ。もしや、もう追いつかれてしまっただろうか。おなごのゆい殿をしんがりに残してよかったのだろうか。小玄太は樹上から九相に手裏剣を打ち込んだ。九相は数珠で手裏剣を払うと、絶え間なく念仏を唱え続ける。無防備な九相に業を煮やした小玄太が飛びかかって斬りつけると、他愛もなく九相の首は托鉢笠ごと草叢に転がった。
    「やや?」
     切り落とした首が骨と皮の木乃伊へと成り替わる。木乃伊は横向きになったまま、カッと目を見開いて、死ねや、死ねやあと喋り続けていた。
    「これは面妖な」
     木乃伊に気を取られている隙に、首を落とされた九相の身体が小玄太に襲いかかった。小玄太は腰を落として刀を真横に一閃し両脚を払った。骨などないほどにいともたやすくすっぱりと寸断され、九相の身体は前のめりに這いつくばった。切断部分はどす黒い血を噴き出している。
    「これは、いったい」
     切断された脚が地を這って踊り出した。胴体は腕を足代わりに使って這い出し、小玄太を目指して前進を続けた。両腕が爪を立てて掴みかかってきた。小玄太は左右の腕と胴体を斬り離した。しかし血塗れになった九相の胴体は動きを止めない。
    「死ねやあ、死ねや」
     小玄太は分断された首、脚、腕、胴体の周囲を遠巻きにめまぐるしく回った。仕掛けを見抜けなければ。うかつに九相の身体に手を出すまいと決めた。樹々を飛び回り、油断なく身体を見張る。五、六周回ると大木を背に動きを止めた。小玄太は四辺の枝木に五本の細い線糸を張り巡らした。左手の指に糸を括りつける。
    「死ねやあ、死ねやあ」
     喋りまくる木乃伊首から目を離さず、呼吸を整えて、待った。九相の分断胴体が迫ってくる。左斜め下の線糸が反応した。微妙ながら、ほんのわずかだが線糸を結びつけてある左薬指が引っ張られた。
    「そこか」
     小玄太は七本の手裏剣をに左奥の繁みに放った。
    「ぐええっ」
     七本の手裏剣を身に受けた九相がよろけながら現れた。
    「真田忍法北斗打ち」
     北斗打ちとは夜天に輝く北斗七星の形状になぞらえて、敵の七つの急所へ投げ分ける手裏剣技だ。全本をかわすのはよほどの術者でも難しい。さすがに九相は眉間と心臓の二本はかわし、即死はまぬがれていた。が、残りの五本は額、喉、肺、腹、陰部に刺さっている。
    「わ、わしの傀儡が敗れるとは。なぜに判ったのじゃ」
    「臭いだよ。千切れた身体が流した血は人の血の臭いではない。おそらく鳥か獣の血だな。微かだが火薬の臭いも漂っていた。こちとら常人がとうてい及ばぬほど鼻が利くんでな」
    「わしが倒されても、お主らに明日などない。お、追いつめて、その命奪うであ……」
     悔し気に顔を歪めると、九相はどっと仰向けに倒れた。
    「おおかた傀儡には火薬が仕込んであったのだろう」
     小玄太の読みは当たっていた。九相は爆殺を狙い、傀儡の身体への攻撃を待っていた。よしんば攻撃を受けなくても、傀儡師は胴体を接近させて小玄太を爆死させたはずだ。
    恐ろしく不気味な忍びだった。小玄太は息を整えると、仲間の安否を求めて戦場を後にした。
     
     すでに始まっていた。剣之介の間合いには三人の忍者が仰向けに倒れている。三粒の碁石礫だけで、気を喪失させていた。
     そこへ木立の葉を揺さぶる音を伴い、白髪痩躯の男が剣之介の前に立った。距離にして五間。剣之介は身構える気配すらなかった。
    「むう、若いくせにかなりの腕立者よの。だが、こやつらは昏倒しているだけに見えるがが?」
     切れ長の目が油断なく剣之介を探った。
    「殺生は好かない」
    「ふふん、甘いな。それが命取りになろうよ。見れば目立つ傷もないが、得物はなにを使った?」
    「ただの碁石だよ。困ったことに使いすぎて碁が打てなってしまいそうだ」
    「碁石とはな。真田の末裔か、松代藩士か? その若さでその腕だ。さぞかし名のある者であろう。もしや真田忍びの頭領ではあるまいか? 拙者、公儀隠密服部半蔵が差配する伊賀六道衆、百地燈幻斉と申す者」
    「察しの通り、真田剣之介だ」
     剣之介は己の名を隠そうともしない。
    「ほほう。わしが当たりくじを引いたか。では腰の物が一両筒か」
    「打って変って貧乏くじかもしれぬぞ。わたしが持っている刀が目当ての刀とは限るまい」
    「では、その身に聞くとするか」
    「百地といえば服部、藤林と並ぶ名門。なにゆえ半蔵の下風につく?」
     対話を交わしながらも両者には少しの油断もない。間断ない足捌きで立ち位置を変え続けていた。燈幻斉はいまだ両腕を羽織の袖に隠したままだった。
    「なるほど伊賀には詳しそうだが、この太平の世、戦国と違って、割拠する大名への奉公もままならず、伊賀として一門が半蔵殿に従ったわけよ」
    「百地などと聞くと佐助が逆上しそうだな」
     猿飛佐助は本名を上月佐助といい、伊賀の出である。若き頃、真田幸村に心酔し、抜け忍となって幸村を助けた。関ヶ原、大坂の陣でさんざ徳川方を翻弄したため、後日の真田残党狩りの標的として佐助の生地柘植野が狙われ、住人の多く、女子供までが虐殺されている。
    「佐助とは猿飛か? あやつめ、まだ生きておったか。下忍の分際で伊賀に弓引く者は許せぬわ」
     燈幻斉は剣之介に向けて鋭い眼光を放った。
    「多少なりとも、佐助の縁者の仇、取らせてもらおうか」
    「ここで宝のありか吐いてもらうぞ、真田剣之介。身体の自由を奪ってゆっくり聞き出してやろう」
     燈幻斉は袖から右腕を出し、順に五指を開いた。
    「灯り」
     人差し指を立てると、爪先に狐火が現れた。
    「聞くが残りの六道衆とやらは腕が立つのか?」
    「仲間など忘れておのれの心配をしたほうがよいぞ。もっともわしの配下の者が真田の忍びなぞに後れをとるわけはないがな」
    「するとお主が首領か」
    「いかにも。ふたあつ」
     中指を立てると、指先に新たな二つ目の狐火が灯った。
     
     繰り返し幻児に斬りつけてはみたが、伸縮自在の身体をしているのか、丸くなって転げたり細くなったりと変容を繰り返し、なんなくゆいの刃先を逃れてしまう。
    「幻児とやら、たかが小娘の刃を避けまわるだけか」
    「きひひ、おまいが疲れて苛ついて隙ができるまでずっとこうしていてもいいのだぞ。あちらで稲妻が光ったであろう。あれはわしの仲間の術だ。おおかたもうおまいらの忍びを仕留めてるだろう」
    「では、こちらが去るまでだ」
     ゆいが飛び去ろうとすると、
    「逃がさんわい」
     と言い放ち、幻児はすういと息を吸い込んだ。
    「ああっ」
     周囲の空気がすさまじい勢いで幻児に体内に取り込まれていく。余波でゆいは態勢を崩し、草叢に着地した。
    「おおっ」
     吸いこみ続ける幻児はみるみる巨大になっていった。九尺、十尺、幻児は丈を伸ばしていく。人でさえも飲み込んでしまう凄まじい吸気だった。ゆいは急ぎ樹の後ろに身を隠した。
     ならば、と強風を逆に利用して、巨大幻児に向けて火薬粉を流した。吸い込みは一段と勢いを増した。もはや風力に抗えないとみるや、幻児を目指して引き寄せられる方角へ跳んだ。ゆいは幻児の吸引を利用して身を加速させると、ともに引きつけられる木切れや枝葉を両の手で手繰り寄せた。火打石を取り出し発火させると膨らみ続ける幻児の巨体に向けて火片を手放した。火片はあっという間に幻児に吸い込まれていく。
     ばあーんと目の前で巨大幻児が破裂した。ゆいは反動で跳んできた方向へと押し戻された。爆風に逆らわず身をくるくると回転させると、難なく太い枝に飛びついた。すばやい動作で木々を伝って爆圧を緩和すると、白煙の中でうごめく煤けた柔らかい塊に手持ちのすべての苦無を放った。
     
     これは幻術だ。こんなまやかしに騙されてはいけない。伊賀妖丸は名の通りの幻影を生んだ。作之助は昼夜が目まぐるしく変転反転する天の巡りに翻弄されていた。
    ―わしらが戦って何日が経ったと思っているのだ。
     天の声が降りてくる。
    「まだ戦い始めたばかりではないか」
     声に向けて手裏剣を放つが、すぐに力なく落ちてきてしまう。
    ―ほおれ、三日目に入った。刻々と時が移っているではないか。もう戦っているのはわしたちだけだぞ。
     妖丸の声が耳脇で聞こえてくる。目に痛いほどの陽光が差してきた。
    「嘘だ!」
    ―嘘ではない、お前の仲間はすべて討ち取った。
     地の底から声が沸き上がる。しかも作之助の足元で聞こえた。
    ―お前だけが生き残ったのだ。だが地獄の口はすでに開いている。
     まさか、まさか、まさか。皆が討たれるなんて。
     地面がゆらゆらと揺れる。夜に入ったのか、空は少しずつ闇に包まれてきていた。作之助は声の出どころに刀を突き立てた。すると作之助が刺した刀によって、ぎりぎりぎりと大地が裂かれて左右に分断されていく。
    「バカな、おれの剣が地面を割るなどと」
     慌てた作之助は拡がっていく断裂部を覗き込んだ。すると割れ目から剛毛がびっしりと生えた腕がにゅっとせり上がり、指がするりと首に巻きついた。
     く、苦しい。
     声にならない叫びを内にためながら、作之助は腕を振りほどこうともがいた。地割れから伸びる腕は五本の指で喉元を圧迫しながら、蛇のとぐろさながらに、ぐるぐると幾重にも作之助の首に巻きついていく。作之助は苦し紛れに刀の柄を両の手で握り、腕を目がけて思いきり突き上げた。
     ぐがあああああ。
     絶叫がこだました。
     作之助は自らの喉を刺し貫いていた。刃先は口舌部を貫き、脳髄に達した。
     
     狐火が数を増やしていく。炎は三つ。
    「わしの鬼火、受けきれるかな。動」
     右手の人差し指を振ると、指先に鬼火がまたひとつ灯る。鬼火は伸縮を繰り返し、自在に燈幻斉の頭上をゆらゆらと回り始めた。
    「攻」
     燈幻斉が剣之介を指差すと、左右の鬼火が真っ直ぐに向かってくる。剣之介が身体を捻ってかわすと、鬼火は背後の樹木に直弾した。樹皮がじゅっと焼け焦げる。
    「まやかしか、うつつか?」」
    「ならばこれはどうだ。転」
     鬼火は燈幻斉の肩先でぐるり回ったかと思うと、波を打って不規則な動きをみせながら、剣之介へと到達する。目前でぎゅっと大きく曲がるが、剣之介はいとも軽く首をひょいと傾げて、鬼火をやり過ごした、
     かわした鬼火の後ろに隠れていた後続の鬼火が急に速度を上げて目前に迫ってきた。これを危うく避けると、鬼火は真後ろの樹に激突し、炸裂した。
    「自在に操って、緩急がつけられるのか。かなりの熱を放つ火の塊だな。幻術ではないのか?」
    「わしの術に剣など通用せん」
    「わたしも剣を使うつもりはない。忍術にはこれでお相手しよう」
     剣之介は白の碁石をふたつ取り出し、指先でじゃらりと音をさせた。
    「下忍は倒せても、飛び道具がただの碁石ではわしを倒せぬ」
    「まずは試してみよう」
     振り被って二石を順に投げた。二石は目に止まらぬ速さで燈幻斉を目指す。負けじと燈幻斉も鬼火を射出した。
    「滅」
     鬼火の炎に包まれると、碁石は溶けて消滅していった。
    「ふはは、碁石などたかが蛤の作り物、灼熱の炎に焼かれて消えたわ」
    「火の正体が判らないが、炎そのものはまがい物ではないな」
    「ここがお前の墓場だ」
     燈幻斉は五本の指を開き、鬼火を灯した。
    「では、これは受けられるか?」
     剣之介はすばやく左へ移動しながら、白ふたつ、黒ひとつ、加えて白と黒を同時に放った。これを燈幻斉が迎え撃つ。迫ってきた石を白白と消していった。が、続いてきた黒が燃え尽きない。慌てて身体を捻って避け、次の白と黒を焼き尽くそうと鬼火を放った。白を消滅させたが、黒石は炎をものともせず焼け焦げたまま右脛に命中した。
    「ぐっ、不覚」
     燈幻斉が顔を苦痛にゆがめ、しゃがみこんだ。
    「蛤は焼けても石は焼けまい。たかが碁石でも痛いはずだ。音からすると折れたかな」
     燈幻斉が碁石を蛤の作り物と発言したのを聞いて、剣之介はこの男が碁石は白も黒も蛤で加工されたと思いこんでいると確信した。黒石は石で作られている。剣之介は相手の死角を狙い、石の速度に緩急をつけ、さらに罠を仕掛けた。白を先攻させ、後続で火に投じても溶けない黒石を投げたのだった。目論見通り、燈幻斉は目測を誤って避けられずに直撃を受けた。燈幻斉は痛みを堪えながら険しい目つきで睨んだ。
    「今度はこちらの番だ。碁石ではわしの鬼火は受けられまい」
    「では、これで受けさせていただこう」
     剣之介は鉄扇を取り出した。
    「こざかしい。そんな小道具で逃れられると思うか。まずは扇を焼いてやろうぞ。変」
     燈幻斉が肩口でゆらいでいる鬼火を解放した。鬼火は交錯しながら、ふたつ、みっつと襲って来る。剣之介は鉄扇でなんなく弾き飛ばして軌道を変えた。鉄扇と衝突するたびに硬質の破裂音が響く。撥ねつけられた鬼火は火の粉を散らして破裂した。足捌きは軽く、爆滅する残り火をかぶりさえしない。残る鬼火は振り払う鉄扇の風圧に負けて力なく地面に落ちて、はかなく消えた。
    「芯に火薬入りの鉄撒菱でも入れていたな。この程度の術なら童の雪洞遊びと変わらぬな」
     剣之介は左親指で鉄扇を開閉しながら燈幻斉を挑発する。
    「うぬぬ、全開」
     燈幻斉は五本の指全てを剣之介に向けた。鬼火が五つ、一斉に襲ってきた。これを油断なく叩き落し、かわす。剣之介は一気に間合いを詰めると、鉄扇をはらりと開き、燈幻斉に向けて回し投げた、猛烈な回転のついた鉄扇が一直線に燈幻斉を見舞う。慌てて燈幻斉が右に避ける。鉄扇も燈幻斉を追って鋭角に曲がり、左肩を捉えた。
    「あうう」
     鉄扇の親骨は鋭く尖った刃になっていた。燈幻斉は砕かれた肩骨を庇うと、痛みに耐えかねて前かがみに身体を折った。剣之介は機を見逃さず、すぐさま燈幻斉の眼前に寄って、すばやく肩口から鉄扇を引き抜く。残る鬼火は両肩の上で燃え立つふたつのみ。
     虚を突かれた燈幻斉は仰け反って逃れようとする。剣之介は間を開けず追随した。
    「この距離ではその炎、使えまい」
     間は三尺もない。
    「こしゃくな」
     燈幻斉は右腕を縮めて剣之介の胸元を指差そうとする。剣之介は鉄扇を翻して手首を払いのけた。
    「うぐう。爆」
     骨の折れる音が剣之介の耳に達したが、さすがの燈幻斉、捨て身でふたつの鬼火を一気に爆裂させた。たまらず剣之介は目を閉じて身を庇った。
     燈幻斉は、と目を開くと、姿はかき消えていた。
     
     止めをさすため背を丸めて伏している六郎に近寄った刹那、飛んできた手裏剣が続けざまにいかづち丸のひたい、こめかみ、のど、胸にかけて深々と刺さった。数にして四本。
    「???」
     いかづち丸はなにが起きたのかもわからずに絶命した。即死だった。死体の脇にゆっくりと六郎が現れる。倒れたいかづち丸の脇には六郎の十徳に包まれた小枝の束だけがあった。
    「空蝉の術じゃ。音が光より先に鳴るわけがないではないか、馬鹿ったれ。すぐにまやかしと判るわ」
     六郎は死人に対しても口が悪い。
    「ふん、いかさま丸だったの。いかさまが得意なくせにじじいのいかさまを見抜けなかったお主は三流じゃの。死んだふりも忍術だろうて」
     ぶつぶつ呟きながら、六郎はいかづち丸の死体を見降ろした。
    「老人を大切にしない阿呆たれには天罰が当たるのよ。南無阿弥陀仏の南無妙法蓮華経。これで弔いも済んだな。あらら、羽織を穴だらけにしてしまいおって、困った奴だ。これはかなり縫わんといかん」
     誰に喋っているのか、六郎は饒舌だった。
    「まったく、わしも老いたの。独り言は多くなるし、北斗打ちは五本しか投げられん、年は取りたくないのお」
     六郎は手裏剣で数か所穴の開いた十徳を拾い上げ、埃を払った。
     しんがりだったゆいに手負いはなかろうか。こやつの力量から測ると小玄太ら三人は危ない。六郎の危惧は尽きない。
    「あながち年寄りの取り越し苦労とはいえまい。暗くなる前に済んでよかったわ。この頃はとんと夜目がきかん」
     六郎は街道をとって返し、まずはゆいを探すことにした。
    「晩飯までには馬場に着きそうにないのお」
     
     大火傷を負い、全身に十本近い苦無を受けて絶命している幻児を見てみると、初めに姿を現したときの小男にすぎなかった。ゆいは刀を収め、苦無を回収した。
     剣之介様に危険は及んでいないだろうか。滴り落ちる汗を袖で拭い一息ついた途端、剣之介を思い、気が急いてしまう。
     と、ざざっと木の葉が揺れ、蘭花が目前に降り立った。
    「お、霧隠の」
    「三人揃って一人前のくの一か」
    「ぬかしたな」
     続いてふたり、三人と蘭花の脇に降り立つ。樹上にまだ数人。
    「や、幻児ではないか」
    「六道衆のくせに情けない。女ひとりに伊賀の名折れじゃ」
     敗れ去った幻児への憐憫はない。
    「いかづち丸の雷を追ってきて、爆発を辿ってみたら、お前に遭うとはな。剣之介はどこにいる?」
    「まだ、見つけられないのか。伊賀者を総動員してこの程度か」
    「蘭花殿、こやつが霧隠なのか?」
    「そうだ。霧隠ゆい。おおかた才蔵の娘かなにかであろう」
    「ならばちょうどよいわ。大坂での仲間の仇、ここで取らせてもらうわい」
     左目に黒い革の眼帯をした年配の忍びが一歩前に出た。
    「はっはっは、わたしが赤子だった時分からの仇とは、伊賀の忍びは気の長い者が揃っているのか。もしや足腰の弱った老人と女狐くらいしかいないのか」
     敵は蘭花と十人の忍びだ。ゆいは不利を悟った。挑発しながら包囲のどこかに綻びがないかを探る。
    「こんな小娘、わしひとりで事足りる」
    「柘植の金吾、甘くみるな。幻児も倒されているし、この女、なかなかに腕が立つ」
     蘭花は腰をおとして身構えた。
    「蘭花殿心配めさるな。なあにわれら十人衆が束になって敗れるわけがない」
     幻児との戦いで消耗の激しいゆいには全員攻撃に耐える体力は残っていない。
    「まあいい。まずはその素っ首、剣之介に見せてや……」
     蘭花が言い終わらないうちに煙幕玉が破裂した。
    「や、逃げおったぞ」
    「追え、逃がすな。鼻利きの甚兵衛どっちだ?」
     甚兵衛と呼ばれた忍びはひくひくと鼻腔を膨らませ、ぐるり頭を巡らせた。
    「西だ」
     
    「六道衆は人を惑わして隠れるのがうまいらしい。だが、燈幻斉とやら、わたしは騙せない」
     剣之介は身体を捻り、碁石礫を真後ろに放った。
     三石は背面の松の幹に深くめり込んだ。
    「ぐはっ」
     幹から呻き声がした。松の皮に溶け混んでいた燈幻斉の姿が徐々に現れてきた。燈幻斉は右胸と右腰に被弾していた。黒石は確実に骨に達していた。
    「わ、わしの術を破るとは」
     燈幻斉を頭とする六道衆は幻術に長じていた。なかでも燈幻斉の幻術は特に優れ、一度たりとも破られてはいなかった。
    「しょせんまやかしを基にした術。同じ力量なら勝てようが、鍛練を積んだ武芸者には通じはしない」
    「無念」
     燈幻斉は喀血をしてはいたが、かっと目を見開いて剣之介を見据えたまま膝をつく。
    「勝負はついた。諦めろ。引けばよし、命を取ろうとは思わん」
    「情けは無用だ。まだじゃ。まだ勝負はついておらんぞ。わしの結びの術、火焔爆を見せてやろう」
     燈幻斉の肩口に焔が上がると、しだいに全身が赤光の炎に包まれた。
    「いかん」
     大量の火薬に匂いに剣之介は急ぎ樹上へと飛び移り、燈幻斉のもとを離れた。みるみるうちに燈幻斉の身体が火焔に包まれていく。
    ぐわわわーん。ぐわわわーん、すどどーぉぉぉんと轟音を響かせて、燈幻斉の身体が四方へ弾けて分散した。
    「相討ちを狙ったか。命を捨てるなど愚かな」
     頬が爆風でひりひりと痛む。剣之介の胸に不快感と虚しさが押し寄せた。
     六道衆は思いのほか腕が立つ。よもや後れを取りはしないだろうが、雨が来ないのはゆいにとっては当てが外れたはず。無傷できり抜けられるだろうか。上田の忍びたちの生死も気になった。討たれたりすれば大叔父にどうお詫びしてよいのやら、と作之助らの安否を案じながら剣之介は街道に戻った。
     
     数名なら逃げおおせるが、相手は蘭花を含めて手練れの伊賀忍者が十余人。樹々を移るゆいを目がけて飛んでくる手裏剣をかわしながら、苦無を打ち返す。
     雨、いやせめていかばかりかの水があれば、とゆいは渇望する。いまにも雨が降りそうな曇天であるのに、いまだ一滴たりとも落ちてこない。気持ちが焦るままに枝を伝い、生き延びる場所を探る。
     目を斜め先に向けると、雑木林の向こうに一軒の薪小屋が見えた。ゆいは一目散に庭先に降り立った。息せき切って母屋に入ると人の気配はない。竈のあたりを見回すと、
    あった。
    水瓶にはたっぷりと水が残されていた。外の気配を探ると、すでに家は囲まれている。伊賀忍者は蟻の這い出る隙もない布陣を引いていた。
     ゆいは掌でひと口の水を掬い、ゆっくりと飲み干した。
    これで凌げる。
    桶に水を灌ぐと、蘭花たちが待つ屋外へ足を運んだ。小屋の庭には雑草が生えているだけで目立った樹々があるわけではなく、見渡しても逃げ場はおろか死角さえなかった。
    「こやつ、自ら出てきたぞ」
    「燻り出す手間が省けたわい」
    「真田忍者が伊賀者に勝てるはずがない」
    「水桶など持って気でも狂うたか」
    「柄杓が武器になるのかえ」
    「自ら死に水か」
    「末期の水にしては少々多すぎじゃの」
     すでにゆいの命が手中にあるらしき口ぶりだ。手にした得物をかざして包囲をじりじりと狭めてくる。
    「わたしの勝ちだ」
     ゆいは蘭花以下伊賀忍者のひとりひとりを見廻した。蘭花だけ一歩後ろに控えている。桶の水を掬うと、足元に半円を描くようにざざっと水を撒いた。残りの水を桶ごと十人衆に向かって放り投げた。数多くの手裏剣が桶に刺さる。桶は砕けて水沫が飛び散った。
    「女、これだけの人数に囲まれて血迷ったか」
    「こりゃあ、ほんにただの水じゃ。魔除けにもならんわ。毒くらい入っておるのか、ひひひ」
    「魔除けの水くらいではわしらを退散させられんぞ」
    「癇癪玉を投げてみるかい。もう飛び道具もあまり手持ちがなかろう」
    「お前の細腕で刀に自信があるならわしが一対一で相手をしてやってもよいぞえ」
     ひと際背丈のある男が刀の柄をとんとんと叩く。つられて数人が嗤う。
    「峠の甚八、抜け駆けするなよ。その女、わしの獲物じゃ」
    「片目の音彦、大阪の意趣返しかい」
     ゆいは伊賀者の嗤いを引きとって、頬笑みを返して見せた。
    「お前たち相手ならこの水で十分に足りる。早々に退治してくれる」
    「言うにことかいて退治じゃと、小娘風情が。くくくっ」
    「藤林の善蔵、油断するな」
     隻眼の忍びが語気鋭くたしなめても、善蔵は意に介さない。
    「伊賀十人衆に退路を断たれては、命乞いするしかあるまい」
    「わしらに嬲り殺しにされたくなければの、さっさと一両筒のありかを吐くほうが身のためじゃ」
     乾いた地面に水が染みわたっていった。するとなにやらゆいの足周りが陽炎のゆらぎを見せて霞んできた。取り囲んだ十人衆にはそう見えた。水煙がうっすらと沸き上がり、みるみる足腰を包んでいく。
    「これはいったい?」
     水煙はしだいに霧へと様変わりしていった。十人衆がゆいはと見ると、髪が、腕が、そして全身が霧の中へと溶けていった。濃度を増した霧は薪小屋の屋根に達し、周囲はもちろん小屋の外観も霧に侵食され、消え始めている。慌てて蘭花が手裏剣を浴びせたが、朧と化したゆいをすりぬけてむなしく霧の奥に消えていった。
    「おおっ、これは、この術は。これはいかん」
    「どうした、音彦?」
     すでに術にかかったのか、十人衆はこの状況を漫然と見ているだけだったが、音彦がまず我に返った。
    「霧隠の術だ。わしは命からがら逃げおおせたが、大坂城落城の日も才蔵を追った先代十人衆のうちわしを除いた全員と柳生忍軍が殲滅されたのじゃ」
    「こ、これを見ろ」
     善蔵が自分たちの膝元を指差した。割れた桶から零れた水が霧となって拡がっていた。地面はもはや肉眼で捉えられないほど濃い霧に沈んでしまっている。
    「まずい、いったん引くぞ」
     蘭花が退却の指示を出す。
    「もはや遅い」
     おぼろげな人の形の影となったゆいの声が響き渡った。ゆいの影を起点にした水粒のひとつひとつが白と黒のまだら模様になり、無数に増えて四方へと拡散していくと、伊賀忍者たちは両隣の仲間さえ認識できないほどの深い霧に包まれた。
    「霧隠の術、たっぷり味わうがよい」
     それは善蔵が耳にした最後の言葉だった。
     
     どのくらい刻が経ったのか。地を這って逃げたため、蘭花はまだ生きていた。蘭花たちを飲み込んだ濃霧はどこまで拡がっているのか見当もつかなかった。ゆいはもちろん、味方の気配も感じられなっている。逃げおおせたか。息遣いが少し落ち着いたときだった。
     ぐっ、腿に酷痛が走った。かつての仕返しを狙って放ったわけではないだろうが、太股にゆいが投げた苦無が刺さっていた。
     おのれ、霧隠め。
     右手に気配を感じた。
    「蘭花様、ご無事ですか?」
     伝七郎がすぐ近くに潜んでいるらしい。すぐさまドスッ、ドスッと苦無が肉に刺さる音が聞こえた。ぐえっと死に向かう伝七郎の喘ぎ声が聞こえ、消えた。その向こうでも悲鳴が起きた。
     こちらの居場所がなぜ判る。蘭花の本能が逃げろと伝えてきていた。恐怖ゆえか、日頃の蘭花らしくもなく、ろくな用心もせずに三歩先も見極められない霧の中を迷っていた。
    ほどなく目の前にどさりと人が落ちてきた。甚兵衛だった。額が一刀両断されて、深々真っ二つに割られていた。蘭花の平常心が失われていく。霧隠にはこちらの姿が見えているのか。甚兵衛を乗り越えて進むとなにかに躓いた。伝七郎だった。こちらも狙い違わず額と心臓に苦無が突き刺さっていた。
     まさか同じ場を徘徊していたのか。どこに逃げる。このままでは殺られる。蘭花はほとんど漂わない霧がわずかに流れていく方向を探した。
     こっちだ。一か八か定石に逆らって風下に行こう。蘭花は足を引きずりながら駈け出した。度重なる攻撃はなかった。霧隠はもはや引き上げたのではないか。蘭花は止血を施して腿に刺さったままの苦無を抜くと、味方を呼び集める忍び笛を鳴らした。伏せたまま暫く待ってもひとりとして応答はない。目の前に音彦の死体がころがっている。眼帯をしていないほうの目に苦無が深々と刺さっていたが、胸には十字手裏剣を受けていた。同士討ちをしたのか。蘭花は唇を噛んだ。十人衆が全滅したのか。蘭花に霧中の恐怖心が甦る。
     暫く埋伏を続けていると、ようやく霧が晴れてきた。動脈が傷ついたのか止血した布が赤く重い。痛みをこらえて刀を支えに起き上がり左右を見渡すと、背後の繁みがわさりと動いた。さては生き残りがいたかと蘭花が振り向くと、期待は大きく裏切られた。
    「ほう、真田を追ってきたと思ったら、半蔵のところのくの一か。まあ、女猫に変わりはないがな」
     柳生刑部だった。傍らには生き鬼を象った顔をした大男がいた。背後には配下数人が控えている。
     蘭花は半蔵に伴われて伊豆守の屋敷に出入りしていたときに数度、玄蕃に連れられた刑部とすれ違っていた。残忍そうな酷薄な面相をした男だった。半蔵には味方とは思うな、と言われていた。
     刑部の表情を見て、助かったとの期待は失せた。
     その刑部、獲物を品定めする目つきで、
    「ではこの女を責めて聞き出すとするか。こう見るとなかなか艶めかしい顔つきをしとるではないか」
     案の定だった。刑部は長く毒々しい赤色の舌で唇を舐めると、好色そうな笑いを投げかけた。
     
     高田馬場を流れる一筋の川に面し、道をやや外れた百姓家にひとりふたりと人が入っていく。ある者は深編み笠の浪人風、またある者は薬売りの行商人とさまざまだ。
    翌日陽が高く昇ると、新たに入ってきた若い百姓風の男に囲炉裏を囲んで座っていた三人の老人のひとりが声をかけた。猿飛佐助だ。
    「小玄太、遅かったの。伊賀者に敗れたかと思っておったぞ。草鞋を脱いで上がって鶏鍋を食え」
    「じい殿か、お久しゅうございます。内藤宿の手前でつけられている気がして、品川に留まって丸一日ぶらりとしておりました」
    「女郎でも買っておったか」
     望月六郎が陽気に冷やかした。
    「いや、わたしは……」
     わらじの紐を解きながら、小玄太が口ごもると、筧十蔵が椀を差し出しながら助け舟を出す。
    「まあ、よいわ。若も少しは見習って遊郭で乱痴気騒ぎを起こすくらいでないと」
     奥の間の障子を開き、血相を変えたゆいが顔を出した。
    「なりません。剣之介様はそういった卑俗なふしだらをしていけません」
    「ははは、心配するな。ゆいに似た女郎がいても通わんよ」
     柱にもたれ、足を投げ出して座っていた剣之介は六郎が差し出した碗を受け取りながら、楽し気に揚げ足を取った。顔を真っ赤に染めたゆいが肩を震わせる。
    「なんですって。そもそもその格好はなんですか。農家の子より行儀が悪い」
    「これ、ゆい」
     佐助がゆいをたしなめる。
    「天元と作之助がいまだ来ていないとなると、伊賀の六道衆とやらに敗れたかの?」
     十蔵が六郎に尋ねた。
    「小玄太が生きておっただけでよしとするか。油断できん相手じゃったのよ。わしと若、ゆい。小玄太お前も倒したかの? そうか。すると六道衆もあとふたりか」
    「そういえば六郎よ、まだ怪我がろくに治っておらぬゆいに殿を務めさせたの。そりゃいかなんだ」
    「じい、わたしが望んだのだ」
     すかさずゆいが抗議の声を上げた。十蔵も異を挟んだ。
    「おい、猿飛。ゆいを孫のように大切に思うのは判らんでもないが、わしらは真田の家臣。誰が討たれようとも、剣之介様が息災であればよいではないか」
    「すまぬ。言いすぎた」
    「いや、こちらこそすまん。お主がもっともじゃ。白髪頭のじじいに比べれば、ゆいのほうが得難い。若いもんは貴重じゃ。ゆいや小玄太は行く末を担う者たちだ。若、こうもぶっそうになってくると、そろそろ江戸は潮時ですかの」
     六郎がふうふう碗の口を吹き、汁を啜ろうとしながら言った。まったくすまなそうではない。
    「長居をするつもりもないが、一両筒の疑いを晴らしたくもあるのだ」
    「徳川が諦めるわけがない。わたしたちが攻めに出て、主だった伊賀と柳生の忍びどもを襲ってやれば、ろくな探索ができなくなるのに」
    「ゆい、ここにいるわしたちが幸村様直属としては最後の真田忍びだぞ。これ以上犠牲者を増やすわけにはいかん。わしらの使命は剣之介様をお守りすることだ。進んで伊賀者を叩き潰すたりすればこちらの犠牲も増える」
     佐助は眉を顰めながら諭した。毎度の光景に剣之介は声を立てずに笑った。
    「奴らの中にはかなり腕立者がおったわ。数で来られてはかなわんぞ。ごろごろとニセの雷を鳴らす奴がおった」
    「六郎殿も苦戦したのですか?」
    「した、した。着物に穴が開いたでな」
     そう言ったあと、六郎の表情が変わる。
    「小玄太、つけられたな」
     佐助、十蔵も頷く。
    「え、まさか。あれだけ……」
    「いまほど脇の道を通り過ぎた足音は忍びだ」
     剣之介はなにごともなく小玄太に言った。
    「未熟だな」
    「申し訳ありませぬ」
    「ゆい、責めてやるな。いったいどこで目をつけられたのかのう」
     佐助が庇う。
    「では、やはり伊賀者ですかの」
     六郎がのんびりと剣之介を振り返った。
    「おや、これはなんだ?」
     十蔵が小玄太の背中についた黒く小さな塊を引き剥がす。六郎も十蔵が指で摘んだ物を覗き込む。
    「なんだか人の指のようじゃの。こりゃあ、お前が倒した相手の指ではないかな。なにやら異な匂いがするぞ」
    「嫌だ、気味の悪い」
    「はは、ゆいもうら若き乙女らしい口を利きよるな」
    「六さんまで、わたしをからかわないで」
    「目ではなくて指だったか」
     六郎は腹を抱えて笑った。
    「わらいごとではありません」
    「小玄太、お前は死人の指と一緒に旅をして、連れて来ちまったんだな。おそらく伊賀者は微かな匂いで容易に追ってこられたってわけだ」
     十蔵は干からびた指を放り投げると、手裏剣を投げつけて、天井の小屋梁に貼りつけた。
    「おい、十蔵、腐れ指はまだ罠として使い道があったろう。集まる伊賀者を一網打尽にする策を練ろうと思ったのに」
    「策など必要ありません。ひとすら倒せばいいだけ」
     ゆいは手元に刀を引き寄せた。六郎が箸を持つ手を軽く振った。
    「まあ待て。そう急くな。鍋を全て平らげたあとでも遅くはない。腹が減っては相手を仕損じるでな。ゆい、おかわりをもらえるかの」
     
     半刻が経って深編み笠の浪人が出てきた。時を待たずもうひとり出てくると、これは反対方向へ去った。
    「右近様、いかがします。奴らが別れてしまうと、全員を追うのが難しくなりますが」
     草叢に伊賀忍者数名が潜んでいた。
    「真田は六人、こちらで互角に戦えるのはわたしと妖丸だけ。ひとりかふたりなら倒せよう。残りの真田勢は奴らが再び集結した頃合いを狙ってまとめて全滅させる」
    「よい段取りだ。お前たちは追って次の隠れ家を突き止めろ。伊賀忍びの総力を挙げて一網打尽にしてしまおうぞ」
     妖丸が右近に同意して、下忍に尾行した。
    「九相を倒した若造は俺が殺る。右近、お主にはあの爺をやろう」
     妖丸は百姓家を退出ばかりの六郎を指差した。
    「ふうむ、あの老人、身なりにそぐわぬ刀を差しておるな。調べてみるか。妖丸、頭に血が上って刀の件を忘れるでないぞ」
    「判っている。あれが例の物かもしれぬ」
     すでに腰を上げた妖丸と違い、右近の姿勢には少しの変りもない。
    「真贋はわれらではなく、半蔵様が吟味する。われらはあやつらを始末して、刀を奪えばいいのよ」
     
     三々五々散った真田の勇士たちを伊賀忍者が追っていく。足を速めた六郎は人気のない獣道に逸れると、背後の木立に呼びかけた。
    「そろそろ姿を現したらどうじゃ」
     右近が木立を抜けて姿を現す。
    「腰の物、検めさせていただきたい」
    「ほほう、侍の身なりをした男じゃな。お主と雷小僧とではどちらが強いんじゃ?」
    「ご老人、いかづち丸はお主に敗れたのか?」
     六郎はまだ爪楊枝で歯を梳いていた。
    「おのれが術を過信しとったよ。で、雷のあとの天変地異はなんじゃ?」
     右近は答えず、蛇頭鞭を取り出した。
    「いかづち丸の仇取らせてもらうぞ」
     右近は蛇頭鞭をしならせた。
    「六郎、食べすぎで腹が膨れているだろう。下がって見ておけ」
     右近は知らずのうちに背後を取られていた。振り向くと剣之介がいる。
    「右近とやら、わたしが相手をする」
    「もうひとりいたか。ならば二本とも手に入れるまでよ」
    「残りの忍びも倒されるか、逃げるかしているだろう。どうする、引き下がるなら見逃すが?」
    「馬鹿な。お前を倒して、ゆるりとそこの老人も葬ってやろう」
     右近の蛇頭鞭が一直線に剣之介を目指した。剣之介は鉄扇を開いて待ち構える。あと二、三寸で鮮血が迸らんかと見えたが、直前で伸びきったまま動きを止めた。鉄扇がぴたりと閉じられ、鞭は鉄扇の小扇骨に挟まれていた。右近は引き抜こうとするが鉄扇に挟まれた蛇頭はぴくりともしない。
     剣之介が手首を内に反し鉄扇と捻ると蛇頭の首がすぱっと落ちた。首を失った跳ね戻った鞭の反動で右近は三歩後ろによろけた。
    「若の鉄扇には内側の骨に刃が付いておってな。これでは鞭の威力も半減じゃな」
     六郎はやや離れた場所に腰を降ろし、膝に頬杖をついて見物している。ゆったり口調だが、目はしっかりと右近を見据えていた。危急に備えての抜かりはない。
    「なんのこれしき。この多条鞭、破ってみるか」
     右近が手を天に翳すと草木がざわめいた。草叢をかき分け、赤と黒の鞭がむくりと持ち上がり獲物を見極める。たちまち分裂した色とりどり思い思いに蠢く十六色十六本の鞭が一度に敵を目指して飛びかかった。対する剣之介は親指と人差し指をせわしなく動かし、碁石を次々と放った。
     石は正確に蛇頭を捉え、鞭は三本、四本と続けて草に埋没していった。が、うねる数本の鞭は石をかわして剣之介の喉笛に迫る。剣之介は鉄扇を一閃するや、眼前で蛇頭の首を切断した。間髪をいれず右近を狙って鉄扇を振ると、八間の骨が扇から一斉に飛び離れ、右近を目指した。
     弧を描いて執拗に飛びかかる鞭を剣之介は右手の手刀ではたき落とす。地に落ちた蛇頭は驚くべきか生き物のように身を震わせた。頭を切断された胴体だけの鞭も同じく草叢をのたうちまわっていた。
    「鞭の数本を生きた蛇に差し替えるとはあなどりがたい術だな」
     剣之介の言葉はもはや右近には届いていなかった。右近はすでに碁石に被弾し、気を天に預けていた。さらに鉄扇の骨を成していた鋭利な寸鉄によって両腕両足の肉が肉奥深く抉られていた。
     剣之介の右手に鮮血が迸った。剣之介に迫った鞭は毒蛇だった。手刀ではねのけたが、必死で食らいつく毒蛇の牙に手の甲を噛まれていた。
     右手首を抑えながら、剣之介は六郎に声をかけた。
    「六郎、毒消しをくれるか」
    「飛び道具の応酬でしたな。若とさほど変わらぬ速さの攻めとはなかなか。わしならやられておったわ。伊賀にもなかなかの術者がおりますな」
     六郎は懐をまさぐり、印籠を取り出した。
    「失礼して」
     印籠を剣之介に投げ渡す。
    「表面に軽く塗り伸ばすだけですわ。わしがお伴で早急な手当てができて幸いでございましたな。薬は常にお持ちなされ。ゆいもそうじゃが怪我や毒への備えが甘すぎますぞ」
    「判った、判った。さあて行くか。油断はしてなかったはずだが危なかった」
    「若は止めを刺しませんのう」
     六郎は倒れている右近を一瞥して、こらしょっと腰を上げた。尾てい骨を拳で軽く叩く。
    「四肢の腱が切れているはずだ。半年は鞭など使えないだろう。十分だ」
     
    鋪の序
     腰元を下がらせると松平信綱はひとり碁盤に向かい、棋譜に習って石を並べ始めた。時刻は四つにならんとしている。途中、信綱は定石を無視して小目に黒石を置いた。
    ―それは悪手でございますね。
     耳元で囁く声がある。
    「半蔵か?」
    ―お味方ではございません。
     碁石を持つ手が止まる。伊豆守は動悸を抑え、平静を装った。
    「名前くらい名乗ったらどうだ?」
    ―名乗るほどの者ではありませぬ。
    「名前のない者と話はできんの」
    ―では、宮本伊織の舎弟とお呼びください。
     ついに来たか。半ば予期していた伊豆守だったが、さすがに背筋がひやりとした。
    「舎弟殿、御用のむきは?」
    ―夜分にお騒がせいたしますが、巷で評判の伊豆守様のご尊顔を是非一度と。
    「桃を取りに来たかと思ったぞ」
     自らの言葉で伊豆守の強張った身体がいくぶんかほぐれた。
    ―は?
    「しかし、わしの顔を見に来たはよいが、格別、面白くもないわしの顔をど隠れて眺めているだけか。おのれの顔を見せぬとあっては話などできぬ」
     すると音もなく襖が開き、着流しの若者が入ってきた。伊豆守は知る由もないが真田剣之介である。
    「失礼つかまつりました。お初にお目にかかります。宮本伊織の舎弟でございます。黒石に声をかけたご無礼をお許しください」
     囲碁は古来中国より伝わったが、対局のときは年長者が黒石を持つとされていた。剣之介は打ち間違いの指摘を詫びたのである。
    「碁には通じておるのだな」
    「下手の横好きでございます」
    「して舎弟殿、ご尊名は?」
    「名乗るほどの者ではございませんが、吉祥丸とでもお呼びください」
     若者の返答がますます伊豆守の気を引いた。吉祥丸とは日蓮の弟子で、師と打った碁の棋譜を残したとされる僧侶である。その一局は日本最古の棋譜として伝えられている。
     眉目秀麗。伊織よりもさらに武芸者らしからぬ風体が伊豆守には意外だった。
     しかも、と伊豆守は思った。才気が顔に現れていないところがいい。どこか人好きのする若者だ。
    「この顔でご満足いただけましたか」
    「うむ、どことなく伊織殿に似ておる。それはそうとお主の浪人風の身なりはなぜじゃ?」
    「継裃にしては家紋が付きましょう。六文銭はお好きですか?」
     六文銭は真田家の家紋である。
    「滅相もない」
    「本日は真田剣之介の名代としてまかり越しました」
    「剣之介の名は伊織殿に聞いておる。しかし若いのお、いくつになる」
    「生まれたのは丁度剣之介と同じで、大坂落城の年でございます」
     爽やかな笑顔をみせた。伊豆守も思わず引き込まれる。
     嫡男輝綱と五歳ほどしか違わない。輝綱が想像もできないほど剣之介は死線をくぐってきているはず。だがどうだ。生後常に追われ続けた者がみせる所作には思えない。伊豆守の脳裏に武蔵の影がちらついた。伊織といい剣之介といい、武蔵はどうやって育てたのだろう。剣豪、剣のみにあらず。
    「ふうむ、吉祥丸殿は戦後に生まれてきた子かの」
    「さようです。剣之介は大阪城で生まれたと聞いておりますが、大坂のしがらみなどはなにひとつ背負ってはいないと言っておりました」
    「怨念も恨みつらみもないと?」
    「むろんです。なれど、昔の戦の生霊がまとわりつき、日夜難儀して困ると申しておりました」
     澱みのない返答だった。
    「そのわりには剣之介とやらは勝手気ままに江戸市中をうろついているようだの」
     これまた剣之介はにこりとして当意即妙。
    「古より小隠は野に逃れ、大隠は市中に暮らす、とありますゆえ」
     唐の詩人白楽天の詩文である。
    「広々とした長安ならそれもよいが、取り締まりが厳しい江戸ならばすぐにあぶり出されるであろう。ましてここは虎の穴ではないか」
    「その穴でこうして伊豆守様のお目にかかっておりますれば」
    「そう言われると二の句が継げぬ。屋敷のまわりは伊賀者に固めさせているのだが、こうも易々を潜入されるとはな。まるで大阪城に潜入した古の石川五右衛門のだな」
    「そういえば剣之介のもとに猿飛佐助という者がおりまして。潜んでいた五右衛門を捕らえたのがその猿飛です」
    「そんな者までおるのか」
     先日伊織が言っていた忍びだな。伊豆守は知らぬふりを装う。
    「おおかた警護の伊賀者は日夜の務めで疲れが出たのでしょう。よく眠っておりますが、お咎めなきよう」
    「しかし、剣之介か猿飛がわしの首級を取りに来たら、こんな体たらくでどうすればよい?」
    「心配はご無用かと。剣之介は伊豆守様のお屋敷で面倒ごとを起こすほど無粋ではありません。たまさか一対一で正対しても天下の若年寄様ならば真田など恐れるはずもございますまい。それに」
    「それに?」
    「剣之介は、生来の無精者ゆえ、釣りをして過ごすのがとりわけ性に合っていると申しておりました。幕府ひいては将軍家とも事を構えるつもりは毛頭ないかと」
     剣之介は上目使い気味の眼差しを伊豆守に向けた。これには伊豆守も苦笑いするほかはない。
    「ただの釣り人ならよいが、太公望になられては困る」
    「これは一本取られました。再訪が叶いました折には剣之介に代わって鰈でもお届けしましょう」
     剣之介は佇まいを正した。
    「お願いの儀がございます。お聞き届けいただけますか?」
    「話してもらわねばどうにも」
    「では早速。ふたつの願いのうちのひとつ。このたび伊豆守様配下の隠密およそ三十名が真田に討たれました。なかには名のある者もおる始末とか。これ以上真田を追えば隠密衆の壊滅は必定かと、案じております」
     伊豆守はじっと剣之介を見つめた。
    「真田から手を引けと?」
     剣之介はやわりと伊豆守の目線を受け止めると、そらしもせずに首を縦に振った。
    「徳川様にも益がございません」
    「吉祥丸殿。剣之介なる真田大助が一子は一両筒という希代の名刀を持ち合わせていて、その刀には百万両とも二百万両ともいわれる豊臣家の財宝の隠し所が記されているとの注進があっての。聞き及んでおるか?」
    「流言蜚語の類でございますな。わたしは剣之介やその縁につながる者と語らう機会がありましたが、どこをどう調べてみても宝の在りかなど示されていなかったと聞きました」
     ぬけぬけとよう言うわ。伊豆守はやり取りを楽しみ始めていた。
    「幕府にとって真田家に連なる者は体制転覆をしでかす疑念がある落武者なのだ」
    「杞憂です。この天下太平の世に、幕政に携わる方々は相も変わらず乱世の不安をお持ちですか。さきほども申しましたが、怨念などすでにありません」
    「わしなどまだまだ力足らずじゃ。直接土井様に言上したらどうだ」
    「やはり土井利勝様ですか?」
    「いや、忘れてくれ」
     剣之介かんら、と笑う。
    「剣之介は戦場を知りません。伊豆守様もご同様のはず。そういうお方のほうが気の荒いご老体より現実に即して判断していてだけるかと」
    「一両筒の秘密が明かされないかぎり追及は止まないであろう」
     得たりとばかり剣之介は破顔する。
    「では一両筒をお貸しいたしましょう」
    「これ、わしをたばかるつもりか?」
     これには伊豆守も驚きを隠せない。
    「ただし、真田が江戸を出立いたすまででござる」
    「出奔ではないのか?」
    「どちらでもご随意に」
    「そこもとが申すなら嘘偽りはないであろうの」
     伊豆守が言うそこもととは吉祥丸ではなく剣之介を指していたのだが、剣之介は知ってか知らずか、
    「むろん」
     と、おもむろに脇に置いてある刀を掴み、
    「こんな成り行きもあろうかと」
     鍔下の鞘を握り、刀身全体を真横にかざして伊豆守に見せた。
    「剣之介より預かってまいりました」
    「それが一両筒と申すか?」
    「いかにも」
     剣之介は摺り足で伊豆守に近寄り、碁盤の脇にその刀を置いた。
    「間違いなく本物と申すか?」
    「ご存じかと思いますが、この刀にはかつて上杉家において真贋騒動がありました。その折に竹俣三河守殿が景勝様に示された証拠がこの刀にはございます」
     まだ一両筒が上杉景勝の手元にあった当時、研ぎから戻ってきた一両筒を竹俣三河守慶綱が偽物だと見破り、京の刀研ぎより本物を取り戻すという事件が起った。一両筒には三ツ頭から一寸五分下の横手筋の部分に馬の毛一本をやっと通すほどの穴があった。元の持ち主だった慶綱だからこそ知りえた特徴だったのである。
    「話は聞きおよんでいる」
    「ならばこの刀を見れば本物と判りましょう」
    「判った。こちらで見極めてよいのだな」
    「くれぐれもお城のご老人には内密に」
    「むろんだ。献上してのち宝などないとなれば、わしとて切腹を申しつけられるかもしれぬ。当家にて調べる」
     伊豆守は差し出された一両筒の柄を握った。
    「伊豆守様、献上などされては困ります。たとえあなた様の主のもとに渡ったとしてもお返しいただきます」
    「これ、将軍家に対して不遜である。兄弟子もそうであったが、弟弟子も分をわきまえぬの」
     とたしなめたものの、伊豆守に不快はない。
    「はっは。わたしは剣之介の考えを代弁しただけです。真田剣之介は無禄の浪人者なれど、家格は徳川家に劣るとは思っておらぬようです」
    「戦国の世過ぎてどれほど経っておると思うのじゃ。戦国大名の栄華ははるか昔。心意気だけは斟酌いたすが、いまの真田家は松代なるぞ」
    「おっしゃる通り。さればです、飽きもせず真田憎しで、一両筒の夢を追いかけるのも止めていただきたい」
    「一両筒を吟味いたし、吉祥丸殿の言うとおりであれば幕閣はどうにかなるかもしれん。が、柳生はそう簡単にはいかん。してあとひとつの願いとは?」
    「その柳生です。裏柳生の忍者屋敷を教えていただきたい」
    「知らぬ。知っていても教えられぬ。だが、なぜじゃ?」
    「柳生玄蕃殿にご挨拶をと考えておりまして。伊賀が動かないならば、あとは柳生のみ。たまには当方が出向きたいと剣之介が申しておりました」
    「剣之介という男、豪胆な奴よのう」
     伊豆守はしばし碁盤に目を落とした。なぜに悪手なのか。ひとしきり考えても答えがでない。剣之介はと見ると、ただただ泰然と正座をしていた。
    「こちらで調べればたやすいが、こればかりは教えられぬ。好かぬ連中ではあるが、幕府より禄を頂戴している者同士」
    「なるほど道理」
     伊豆守は話題を変えた。
    「吉祥丸殿、犬と猫どちらがお好きかな」
     面食らった剣之介だったが、軽い咳払いをひとつ。
    「猫は奔放、犬は従順。わたしはとくに好悪の別は持っておりません。徳川の世で飼い慣らしやすいのはどちらでしょう?」
    「わしら幕吏は犬か」
    「狩りに使う猟犬でも、主人のためと見境なく獲物を噛み殺してばかりでは賢しい犬とはいえますまい。分け前が消えるのが嫌で真剣勝負をやり直したいと、主人の前でやたら吠えて直訴する犬も困りものですね」
     伊豆守は肩をゆすって笑い出した。
    「なるほど犬もいろいろか」
    「主を間違えなければよいのです」
    「主人を選べない犬もいる」
     まだ笑いが止まらないうちに剣之介は、
    「ご存分にお調べください」
     一礼をして舎弟殿は襖の向こうへと消えた。堂々とした立ち振る舞いだった。
     なかなかの男振りよ。どうやらこれ以上、舎弟殿と難を構えるのは得策ではなさそうだ。伊豆守は昨秋老中並となっていたが、三月には阿部重秋、堀田正盛らと六人衆に任ぜられた。この五月には老中職が内定している。早く上がってこい、年寄りはかりで息がつまるわ、と家光は信綱を待ち望んでいた。
     もう少し早ければ。柳生にも手を伸ばせたろうに。
    「ややっ?」
     碁盤を見ると、悪手と指摘された石が、一目右に移動していた。
     
    「剣之介様も大胆な振る舞いをなさる」
     六郎と十蔵は外壁の屋根瓦に腰を掛けて、松平屋敷を見降ろしていた。警護など必要ないと言う剣之介に無理矢理ついてきたのだった。
    「のう、六郎。ゆいは本当に才蔵の娘なのか?」
    「いまさらなにを言っとるんじゃ。誰の娘だと?」
     六郎は眉をひそめた。
    「猿飛ではないのか?」
    「顔、体つき、どこをとっても似ても似つかぬわ」
    「確かに佐助と違って才蔵は男前であったよな。だがよ、ふだんはあれこれ難癖をつけているが、いざとなると実の娘か孫か主君の娘のように必死になって、ゆいを庇いだてをしているではないか。まるで父御じゃ」
    「亡き才蔵の親代わりなのだ、当たり前ではないか」
    「そうか、なあ」
     考え込む十蔵をよそに、六郎は懐から握り飯を取り出した。
    「六郎、その握り飯はどうした?」
    「もう、ないぞ」
    「よこせと言っているのではない。いつどこで手に入れた?」
    「お主や剣之介様と落ち合う前に、下見のためにちょっと伊豆殿の台所に邪魔しての。夕飯のあとで、ろくな食い物がないんじゃ。だがよ、飯だけはたんとあってな。味噌をつけて自分で握ってきたのよ」
    「お主も無駄に十分過ぎるほど大胆だぞ」
     六郎は握り飯を頬張ったまま、
    「わしらの主は話が長いの。もう半刻は経ったろう」
    「食うか喋るか、どちらかにしろ。飯粒が飛んでくるではないか」
     おや、と十蔵は目を細めた。
    「六郎、大きな青い揚羽蝶が飛んでいる」
    「あほ、抜かせ、こんな夜に。おおかたお主は寄る年波で夜目が利かなくなったのさ」
    「いや、確かに目の前を飛んでいった」
    「ああ、腹がくちたら目がしわくなってきたぞい」
     
     伊豆守の屋敷を辞してしばらく、月夜の道をぶらりと歩んでいた剣之介はかすかな鈴の音に足を止めた。威圧的な気配を背後から浴びた。続いて手裏剣が剣之介の背に迫る。剣之介は振り向きざまに碁石を飛ばした。
    手裏剣は碁石と相討ち、軌道を変えて道脇の樹に突き刺さった。剣之介は二の攻めを待つが殺気は消え、巫女姿の女が姿を現した。
    「わたしにご用かな」
    「同行してほしい」
    「手裏剣を放った者の頼みを聞けと?」
     巫女は感情のこもらない声で口を開いた。三十路にも四十を過ぎにも見える。
    「少々、腕を試した。許せ」
     声からすると五十と言われてもおかしくない。
    「ふむ、どちらへ?」
    「人を引き合わせたい」
    「承知した。その前にひとつ聞いておきたい。わたしを警護していたつもりのふたり組を見かけなかったかな?」
     巫女の力量を見て、剣之介は気配の感じられない六郎と十蔵の心配をした。
    「のっぽとでぶか?」
     答え方でふたりの安否が判った。
    「ぐっすりと寝ている。安全な場所に隠しておいた」
     
     巫女は舌を巻く速さで先導した。佐助の若かりし頃はこうだったろうか。只者ではない。江戸には剣術使いだけでなく、忍びにも舌を巻くほどの力量の者がいたのか。まして女人。息はあがらずとも、これ以上の速さになれば剣之介でも付いてはいけない。
    「どこまで行く?」
    「まもなく」
     
     着いた先は尼寺だった。尼寺を巫女と若い男が訪れるとは、剣之介は苦笑する。寺の外観を望むと、人の出入りが少なそうなこじんまりとした佇まいを見せていた。それでいて庭は手入れのいきとどいた景観をみせている。人気のない片廊下を渡り、唯一明かりの灯っている一室に通された。
    「お連れいたしました」
     部屋にはひとりの尼がいた。年の頃は三十半ば。尼僧姿で頭巾を被ってはいても、漂う気品は隠しようもない。
    「天樹院様だ」
     出家前の名は千姫。巫女の引き合わせはそっけない。
    「大助殿のお子か。お座りなされ」
     巫女に室内に招き入れられた剣之介は予期せぬ出会いに戸惑い、立ち尽くしたままだった。
    「公の場でもなし、胡坐でよい。もそっと近こうに。顔を見せてたもれ」
     天樹院は遠慮なくしげしげと剣之介の顔を眺めた。
    「江戸に来ていると聞き、一度会うてみたいと思ったのじゃ」
    「信繁殿には似ておらんが大助殿にはよう似てきた。そなたの祖母竹林院や曾祖父刑部少輔の血が濃いのであろう」
     信繁すなわち幸村の妻は大谷吉継の娘竹姫である。阿梅と大助の母だ。大坂の役後、京に隠遁し、先ごろは竹林院と称していた。天樹院は千姫と呼ばれたころ、大阪城で数度竹姫と面会している。
     大谷吉継は秀吉子飼いの大名で、官位にちなんで刑部少輔とも呼ばれていた。勝機はないと知りながら、石田光成との交情ゆえに関ヶ原で西軍に属し、獅子奮迅の活躍をみせた知将だった。そうした出自に信頼を寄せたのか、秀頼は格別大助をかわいがり、千姫も接する機会は多かった。
    「父がお世話に」
    「なんの。短い間であったが姉と弟のように睦まじく過ごしての。身内とも思うそなたたちがいまだ罪人扱いなのが心苦しゅうて胸がいたむ。許してたも」
     天樹院が深々と頭を下げた。
    「滅相もない。頭をお上げください」
     天樹院の心うちには秀頼の子、国松の助命に奔走するも叶わなかった悔いがいまだに残っていた。淀殿の妹である母の江の方の口添えもあって、父秀忠の説得は成功するかに見えた。しかし祖父家康は決して首を縦には振らなかった。それでも千姫は生涯尼寺に預けるという条件を飲まされたとはいえ、秀頼の娘奈阿姫の命は救っている。
    本田忠刻に嫁いだ後も忠刻を説いて、人知れず豊臣の残党を援助した。幕府や将軍家で大坂方に同情する者はほぼ皆無に近いなか、家康の孫である千姫ひとりだけが文字通り体を張って庇護してきたのであった。
    「ひとつお尋ねしたき子細がございます。武蔵の義父上のもとでわたしが修行できたのは天樹院のお声がかりではありませんか?」
    「いかにも。本田の殿と武蔵殿はかねてより親交があり、殿を通じて武蔵殿に渡りをつけてもらった。日夜追われ続けて自らの命を自らの手で守らなくてはならぬならば、せめて日の本一の剣の師をつけてやろうと思っての。武蔵殿は即座に諾と。豊臣恩顧の大罪人を匿い、露見すれば武蔵殿とて連座して死罪になる怖れがあったのにもかかわらずじゃ」
     こうした尽力があっていまのわたしがあるのだ。剣之介の胸に熱き感慨がこみ上げた。
    「本田の殿は豊臣の残党を憐れみ、なにくれと力になってくれた。あまりにあっけない亡くなりようは伊賀か柳生の手による暗殺ではないかと、わらわは疑っている」
    「まさか将軍の娘婿にあたるお方であるのに?」
    「土井利勝ならやりかねんであろう」
     そこへ室外から鈴が鳴った。
    「胡蝶なにか?」
     障子が開き、巫女が音もなく入ってきた。あの巫女は胡蝶というのか。すぐ近くに控えていたはずなのに気配は感じられなかった。剣之介は舌を巻いた。
    「迂闊でしたが、おおよその話、間者に聞かれていたかと」
     天樹院の表情に変化は見られない。
    「わたしも気づきませんでした」
    「お前はまだ未熟だからな」
     胡蝶は追って倒してまいる、と言い残して闇に消えた。
     
     夜道を城の方角へ急ぐ三人の老尼がいる。ひたすら無言を通して歩いてきたが、
    「いち、ふた、待つのじゃ」
     最後尾の老尼が前のふたりに声をかけた。
    「なんじゃい、みつ?」
    「法衣を脱げ」
    「ここまで来て、いまさら」
     老尼ふたりが法衣を脱ぐと、忍び装束が現れた。
    「おんしらの肩に蝶が付いておるんじゃ」
     いちが脱いだ法衣の肩口を見ると、青い蝶は即座にいちを離れて夜空に消える。
    「みつ、おんしにも付いているではないか」
     慌ててみつも法衣を脱ぐ。
    「偶然ではあるまいな」
     互いに顔を見やる三人の耳にちりーん、ちりーんと鈴の音が届いた。音を警戒しながら背を合わせて暗がりを探る三女に近づいてくる。ちりーん。
    「これは奇っ怪な」
    「油断するな」
    「わしらをたばかるとはどこの痴れ者じゃ」
     三人は首を伸ばして周辺を警戒した。
    「その蝶は死蝶といって纏わりつかれた者は生きてはおられぬ。前にも後ろにもお前たちに道はない」
     白装束の女が闇に浮き出て、すっと前に立った。右手に数珠繋ぎになった五鈴の鈴をかざしていた。左手には扇がある、
    「蝶を道しるべに、あしらを追ってきたか」
    「あしらの変装をよう見抜いたの」
    「豊臣や真田と繋がっていたと知れると、さすがの天樹院もただではすまんぞ」
     いち、ふた、みつがしわがれた声で口ぐちに話出した。
    「あしらは伊賀の三婆じゃ。忍びなら聞き及びがあろ?」
    「あしらより長生きしとるくの一はおらんだろうよ」
    「あしらは数知れぬ命を貪り食っての長寿じゃ」
     三婆は一列に重なった。手裏剣を取り出す。腕を動かすと人ひとりが六手を振っているかの錯覚にとらわれる。
    「まずは目と鼻と口をもらおうか」
     胡蝶は耳をかさず、鈴を袖口にしまうと、千代紙を取り出した。指先で半分に切り裂く。四つに切って八つに切る。胡蝶は手元ですばやく小さな蝶を折った。
    「この期に及んで折形とは。稚児ではあるまいし」
     六手が放った手裏剣が胡蝶に及ぶ。狙いたがわず標的を目指した手裏剣だったが、胡蝶が顔の横にすっと扇を立てると、六本すべての軌道が変わり扇に吸い寄せられ、ぴたりと張りついてしまった。
    「これは磁扇といってな。鉄を引きつける石を埋め込んである」
    「ふん、妙な仕掛けじゃな。新しい武器に頼っているようではわしらには勝てぬぞ」
    「婆どもよ、長生きしすぎたな。ここで枯れてしまえ」
     胡蝶が扇を振ると、張り付いた手裏剣が三婆のもとに飛び戻った。老女たちはたやすく身を翻した。
    「あしらの手裏剣を返すとは」
    「油断がならんのう」
    「どこのくの一じゃ?」
     胡蝶は表情を変えずに答えた。
    「風魔の胡蝶」
    「風魔だと?」
    「まさか」
    「とうに滅んだはずじゃ」
    「徳川には世話になった。とりわけ伊賀と柳生の隠密にはな」
     小田原北条氏に仕えていた風魔小太郎率いる風魔忍者は北条氏滅亡後、家康に反旗を翻しさんざん江戸市中を荒らし回ったが、ほどなく徳川方に掃討鎮圧された。特に伊賀忍者と裏柳生の暗躍は言を待たない。風魔が絶えて三十余年の歳月が流れていた。
    胡蝶は手のひらにある八頭の折形蝶にふっと息をかけた。折形は飛び上がり、一瞬で孵化すると黒、黄、青、赤の色どり鮮やかな生きアゲハとなって翅を広げた。用心した三婆は分かれて三方に散った。五寸ほどに育った八頭も三方に分かれて追いかける。小刀で追い払おうとしても、柔らかく飛翔する蝶はひらりひらりと捉えどころがない。大量の鱗粉がいち、ふた、みつに降りかかった。
    「うお、なんじゃこれは?」
    「なんだかほのかに甘い匂いがする」
     めいめいがあわてふためいて振り払おうとした。
    「誘虫粉と言ってな。あらゆる虫を引き寄せる。仕上げはこれだ」
     無数の雀蜂が胡蝶を取り巻いていた。胡蝶が指を鳴らすと、さほど音立てない蝶とは違い、雀蜂は猛々しい羽音を響かせて三婆へと迫っていった。
     
    「霧隠れの娘、ゆいという名だったか? 姫路の町で一度会っておるのだが、聡明な子であった。大きゅうなって少しは女らしくなったかの?」
     剣之介は柔和な顔を一段と崩した。
    「あれはわたしより男ぶりがよいのです。さしずめ関白左大臣権大納言の再来かとも思えてしまいます」
    「さようか、ほほほ」
     天樹院が口元を綻ばせた。たおやかさが滲み出ていた。
    「男勝りに育ったか」
    権大納言の若君とは男性になりすました『とりかえばや物語』の女主人公を指す。
     ちりーんと鈴が鳴った。
    「胡蝶が済ませてきたようじゃ」
     
    鋪の破
     捕捉されて何日になるのだろう。最初の日から数日は責めに耐えて正気を保っていた蘭花だったが、いまが幾日目なのか定かならぬほど心が乱れていた。
     蘭花は裏柳生の屋敷に連れ込まれていた。石の牢ではなく、畳拵えの一室に監禁された。縛り上げられたまま、医師に太腿の傷の手当てを受けたが、痛みも引かないうちに柳生刑部によって凌辱の限りを尽くされた。明け方近くになると決まって、蘭花を手もなく捕らえた采女が抱きに来た。足の腱は切られていた。両の手は後ろ手に忍び縛りできつく締められ、指を動かすことさえ叶わなかった。
     自白剤を飲まされ、知りえたことはすべて語ってしまっていた。伊織の伊豆守訪問、真田剣之介と一両筒の秘密。刑部の問いにすらすらと口から秘事がこぼれていった。それでも蘭花は脱出の機会を狙っていた。混濁した意識の中であっても、ひたすら逃げることだけを考えた。
    見張りは常にひとりは残された。半日あまりで交代したが、替わりしなに蘭花は無理矢理秘薬を飲まされた。しばらく経つと効果が表れ、意識が朦朧とし始める。
    新しく代わった見張りは挙動がぎこちなかった。初めて見る顔だった。男が水差しから飲ませた薬水は顔を背けて気づかれずに吐き出した。こやつ、未熟者だ。おそらくは下忍。蘭花は腰を揺らして、男を誘う。しがみついてきた男の首に両脚を巻きつける。声を漏らすと、そこに油断が生まれた。下腹部と腿に力を込め、持てる体力のすべてを使って横に捻り、一気に首の骨を折った
     和蝋燭の灯った燭台のところまで這っていき、頭で燭台を押し倒した。炎が畳、襖、障子へと瞬く間に拡がっていく。いぐさの焼け焦げる匂いが蘭花の鼻腔に入り込んだ。白濁した意識を撥ねのけて、畳に拡がる炎に手首を晒して、縄紐を焼き切った。肉の焼ける臭いも、伴う痛みも気にならなかった。
     屋敷の裏手から火の手が上がっていた。火の粉が墨で塗りつぶした闇天に吸い込まれていく。剣之介はゆいにも佐助にも知らせず、単身で小玄太が探り当てた裏柳生屋敷の裏手に来ていた。
     なにかが起きている。下見のつもりの剣之介だったが、いぶかしみが勝り、一足飛びに塀を乗り越えた。紅蓮の火炎に照らされて跳躍する姿が露わになってしまったが、かまわず庭先に降り、邸内を目指した。廊下に足を踏み入れると鳥の声。
    「うぐいす張りか」
    「何者か?」
     誰何の声がした。声高に叫び、飛び出してきた柳生の家人に碁石を打ち込む。火元はまだ遠い。
     剣之介は大胆にも倒した家人が現れた室に進む。両手で襖を開け放つが、人はいない。二十畳敷きのがらりとした居室だった。畳を慎重に踏みしめて、次の間の襖を開け放つ。またも閑散とした十畳の間が拡がる。ここも人の気配はない。
     さらに進むとそこは六畳間。塵ひとつない。五歩踏み出すと、天井から槍が雪崩と降ってきた。剣之介は反転してもとの間に戻る。が、畳に足が触れるや、踏みしめて渡ったはずの畳が外れて落下した。数間下には柔らかい肉を待ちかまえる無数の槍が上方に伸びていた。
     並みの武士か忍びならすぐさま槍の餌食になるところを、宙でくるりと回転し、時の間を稼ぐと、頭を槍に向けて落ちていった。剣之介は鉄扇で真下にある数本の槍の穂先を薙ぎ払った。もう一度身体を回して、切り落とした槍の柄に柔らかく着地すると、弾みをつけて十畳の間に飛び戻った。
     なるほど忍者屋敷よ。背後に人を感じ振り向くと、すでに手裏剣が迫っていた。訳なく鉄扇で打ち返すと、一本は弾かれたが、もう一本は打ち手の胸に吸い込まれた。
     仰向けに倒れた忍びを飛び越えて廊下に戻ると、煙の臭いを手繰って廊下を進む。三人の侍風の男が剣之介を認めると抜刀して、迫ってきた。剣之介も足捌きを緩めずに構わず進む。
     疾風のような剣之介と接触するやいなや、三人はとたんに力を失ってばたばたと倒れていく。三本の剣をくぐり抜けながら、すり抜けざまに鉄扇で狙い違わず首筋の急所を打ったのだった。
     
     蘭花は退避するさいに油甕に火を放った。激しい炎はあっという間に天井をなめ尽くし、隣部屋に燃え移った。火が回らぬうちにできるだけ離れた納戸に隠れて騒ぎを待った。一面を焼き尽くす炎を見て、柳生の忍びたちの狼狽の声が聞こえてくる。
    「女が逃げたぞ」
    「探しだせ」
    「火を消せ、火が先じゃ」
    「そう遠くへは行くまいぞ」
    「いかん、手遅れだ。この屋敷はもう持たぬ」
    「しぶといのお。まだ逃げる力があったか」
     刑部は唇を噛んだ。
    「刑部殿、ここはお引きになって、下屋敷か玄蕃様のお屋敷に」
     刑部に避難を勧める者がいる。
    「うるさい。お前たちは勝手に引きあげよ。わしの屋敷に火をかけるなど許せんわ。あの女を探し出して、この手で成敗してくれる」
     
     喧噪が遠のくと蘭花は痛みに堪えながら、納戸を這い出した。媚薬によって抑えられていた痛覚が全身に拡がりつつあった。だが、ぐずぐずして焼け死んでは元も子もない。
     ぴくりとも反応しない足首と下腹部の痛みを抱えて、蘭花は首を折った男からせしめた苦無を前へ前へと畳に刺しながら両腕両膝を使って這い始めた。
     室内を覆っている煙にむせながら、蘭花は廊下を横切ると、己が身体を庭へ転がり落とした。
     しめた。あそこに裏木戸がある。
    「女よ、抜け出られると思ったか」
     かけられた声が蘭花の希望を打ち砕いた。顔を巡らすと、陵辱の限りを尽くした憎んでも憎み足りない男が縁台に立っていた。そして隣には刑部以上に精を放ちまくった鉢屋采女。
    「人の風上にも置けぬ人非人よ。それでも徳川様の禄を食む者か」
     蘭花は血混じりの唾を吐いた。
    「この外道が」
    「ふん、忍び風情が言う言葉か。次はお前を餌にして残る姉妹もとらまえて三人並べて順に抱いてやるか」
     刑部は舌で上唇を舐めながら、卑し気に嗤う。
    「女、わしの奴婢になるというのなら命だけは助けてやってもよいぞ」
    「断る」
     蘭花は膝立ちで身体を起こすと苦無を掲げた。
    「ほう、さすがは伊賀のくの一だ。わしが知っているどの柳生のくの一よりしぶといの」
     刑部は同意を求めて、采女に顔を向けた。それを見逃さず蘭花は必死の跳躍を見せ、刑部の首筋を狙って飛びかかった。刑部、なんなくかわし、抜き払った刀で蘭花の脇腹をふかぶかと切り裂いた。
    「あぐう」
     蘭花はくぐもった悲鳴を上げて地に落ちた。刑部は激痛に耐えて起き上がろうとする蘭花に駆け寄ると、苦無を持つ手を手首ごと斬り飛ばした。堰を切って噴出する血飛沫が刑部の顔にも飛び散る。反射的に手首を落とされた腕に他方の手を添えようとした蘭花だったが、刑部は目をぎらつかせて、残った手の指をまとめて切り落とした。痛覚が極まった蘭花は砂まみれとなってのたうちまわった。
    「ごふっ」
     大量の血反吐が喉にせり上がってきた。切り裂かれた腹から漏れた臓物が四方に散っていく。
    「殺せ。は、はよ、う、ころ、せ」
     血塗れの舌はもつれ、ろれつが回っていない。刑部は刀を構えたまま、指を失った手で裂かれた脇腹を押さえる蘭花を眺めた。
    「女、この後はどこを斬ってほしい? 目をほじくり出してやろうか?」
    「刑部様、何者かがこの屋敷に侵入いたしました」
     凄惨な光景に顔を顰めながら、侍姿の男が息せき切って走り寄る。
    「ふん、捨ておけ。さあ引きあげるぞ」
     刑部は顎をしゃくって、身体をひくひくと痙攣させて震える蘭花を眺めた。蘭花は刑部を睨んだまま、目を逸らさない。刑部はややひるんだ声で、
    「采女、この女を冥途に送ってやれ」
    「判った」
    「もはや用はない。もうたっぷり楽しんだわ」
     刑部は蘭花を一瞥して顔を背けた。
     采女が斬象剣を抜いた。蘭花は魅入られたように自らに死をもたらす刀から目が離せない。
    「こ、ころ、し…て」
     縁に溢れんばかりの涙を溜めた目で、蘭花は懇願の表情を浮かべた。瞳には諦観だけが映っていた。顔面に斬象剣が振り下ろされてくるさまをしっかりと見開いた双の眼が捉えていた。もはや叫びを上げることすら叶わなかった。
     
     采女の斬象剣に容赦はない。玄蕃の命であれば赤子までも斬った。生き方がまるで違う刑部の命にも従った。自らの意志で斬象剣を抜くときは、自分が力を認めた相手だけだった。
     玄蕃に柳生の里に連れていかれ、血反吐を吐く修行をさせられた。采女は耐えた。ただ忍術だけは習得を拒絶した。正面から相手を切断する剣術に固執した。しまいには玄蕃も諦めた。玄蕃が与えた剣はことごとく折れた。尋常でない采女の腕力にどの刀も耐えきれなかった。
     大坂夏の陣には小人ながら、玄蕃に従って従軍したが、忍軍ではなかったため後詰めとなり、熱望した殺戮の機会は訪れなかった。とはいえ大坂方の首級は二十ほど挙げた。采女の膂力の耐えきれず、数本の刀が折れた。
     乱世が収まってしまうとむやみに人が斬れなくなった。時代に反して、全身に煮えたぎった闇黒の渇望は抑えきれなかった。骨ごと粉砕しても折れない刀が欲しくなった。刀鍛冶にどれほど打たせてみても満足な刀は作れない。
     采女は自ら鍛え、拵えた。采女の執念が実ったか、ついに斬象剣が生まれた。刃長は実に三尺を超える。刃肉は厚く、反りは日本刀では類をみないほどだった。
     体内をうねる黒い血に抗しきれず、夜になると大和郡山の城下に行き、試し切りをした。ときには紀州へと足を伸ばした。狙いをつけた武芸者と渡り合っても、相手は三合と持たなかった。玄蕃の供をして江戸に出向くときは、旅の途中で必ず数人の侍を斬った。しかし江戸では宗矩殺傷を禁止された。
     かわりに女郎を抱いた。いつも月経の女を探し求めた。夜鷹を縊り殺したときは、女のただならぬ血の臭いに酔ってしまったゆえだった。病を移されたとみえて采女は数日寝込んだ。
     そんな采女を刑部は嗤う。
    ―女は見目よ。
     刑部は自ら調合した媚薬を使う。いい女はいたぶって、五体の隅々ねぶり回して愛おしい、と嘯く。数年前、薬の量を誤って攫ってきた町娘を死なせてしもうてな。評判の茶屋娘でな。命が消える前のよがりながら悶え苦しむさまが美しかったわ。あまりに惜しくて事切れた後も抱き続けていたのよ。屍となっても捨てるのがもったいなくて、腐肉となっても飽きずに抱きまくったわ。
    お主の化け物じみた一物などを喜ぶ女もいるだろうが、過ぎれば苦痛を伴うだけでしかないな。そこへいくとわしの媚薬は男女問わずめくるめく快楽をもたらす、と刑部は言う。たとえわしを袖にする女がいても、これを使えば昼間は澄ましきった奥女中でさえ抗しがたく、自ら股を開くわ。圧倒する力など必要ないのだ。
     刑部は闇の薬師といってもいい。裏柳生の中でもとりわけ薬の知識に長けていた。剣や忍びの腕はほどほどなのだが、よほど性にあったのだろう、薬造りは元服前に始まった。薬物に詳しい薬師や忍びを召して、毒薬のみならず媚薬に至るまであらゆる劇薬の製法を学んだ。
     あるとき采女に漏らした。
    ―初めは猫や犬で試した。飽き足らなくなって女中に手をつけた。配下に命じて夜鷹を攫ってきては試飲させた。さまざまな毒素を混ぜ合わせ、いやおうなく飲ませ続けた。毒に侵された死体は庭に埋めた。
    玄蕃は刑部の成果を喜んだ。幕閣の指示を受けて、刑部の調合した毒薬を暗殺や自白に使った。刑部にとって媚薬は己の欲望を満足させるための手段だったが、場合によっては政敵の側室や愛妾に用いた過去もあった。。
     
     主を失った紅血はみるみる貪欲な大地に吸われ血だまりとなった。采女は蘭花の前頭部に切っ先を当て、物打ちで縦一文字に頭蓋から陰部までを斬り下げていた。蘭花の上半身は完全に両断されていた。
    「采女、わしは先に行く。曲者が残っていたら始末しておけ」
     刑部は蘭花の屍には目もくれず、早足で廊下の奥に消えた。
     おおかた、おれはこの男と同じ醒めぬ悪夢を見ているのだ。欲望の対象が違うだけなのだ。この男も曖昧な充足感などは求めていない。すべてを焼き尽くしても満たされない飢餓を抱えているのだ。采女は光を失った瞳を晒したまま絶命した蘭花を見降ろしながら
    思った。毛髪にしみ込んだ血は乾き始めていた。
     
    鋪の急
    「闇夜の鬼か。酷い仕業を」
     悲哀の入り混じった声が采女を現に引き戻した。采女は首だけ返して声の相手を探った。さきほどまで刑部がいた廊下にいつになく翳りのある表情をした剣之介が立っていた。
    「誰かと思えば先日の小童ではないか」
    「やはりお主は柳生だったか」
    「柳生とは腐れ縁でな。おれは鉢屋采女というただの殺し屋だ。名前などどうでもよいがな」
    「庭の娘は伊賀のくの一だな。お前が手にかけたのか」
    「刑部の命だ。おれはただの人斬りだ。女子ども対しても手加減はせぬ。どうする小童、望むならいまここでやってもよいぞ」
    「他にも捕えている者がおるのか?」
     剣之介は残りのくの一ふたりの消息がなぜか気になった。
    「この屋敷にはこの女以外の囚われ人はおらぬ」
     采女は早くも柄に手をかけた。
    「単身この屋敷にやってくるとはいい度胸だ。伊達藩所縁のぬしは何者なのだ?」
    「真田剣之介」
    「玄蕃殿がやっきになっている真田の当主だったか」
    「そうだ。この女は腕も切り落とされている。嬲り殺しにしたのか?」
    「もはやただの骸、情をかけても詮ないわ。そもそもぬしにとっては敵の忍びではないか」
    「死者に敵も味方もない」
     采女は歩幅を広げ、一歩一歩前に出る。殺気がひりひりと剣之介の頬を焼いた。
    「くどいのお、冥土の渡し守に嫌われるぞ。ぬしも冥途に送ってやるわ。急げばそこの女が乗り込む地獄舟に間に合うぞ」
     采女は斬象剣を八分まで抜いた。
    「豊臣の宝物の在りかさえ吐けば、腕一本くらいで済ませてやろう」
    「では教えてやろう。宝などはどこにもありはしない」
    「玄蕃殿にはそう申しておこう。実はおれも宝なんぞに興味はないのだ。おれはお主のような腕の立つ奴を手あたり次第に斬り殺したいだけだ」
    「狂っている。他人を殺生するためだけに生きているのか?」
    「おれからすれば白刃を抜いて渡り合っているときだけが生を実感できるのよ。といって生に執着しているわけではない。おれより強い奴がいれば、斬られて死ぬだけだ。剣之介、抜け」
    「できれば命のやりとりなどしたくないのだが」
    「臆したか」
     庭に下りていた采女は斬象剣を抜き放つと、驚くべき速さで距離を詰めた。剣之介は冷静に真後ろの十畳部屋に下がる。先の立ち位置にはすでに采女の切っ先が達していた。体勢を崩し、右か左に避けていたら剣之介は斬り伏せられていたはずだった。
    「ほほう、やりよるな。よくかわした。さて今度はかわせるかな」
     采女が畳に右足にかけ踏み込もうとすると、剣之介は深く腰を落として、両手で畳を叩いた。すると畳という畳が跳ね上がり、攻める采女を遮った。苦もなく立て続けに畳を両断して摺り足で前に進むと、すべて倒れつくした畳の先にはもはや剣之介の姿はなかった。
    「ふん、またも逃げたか」
     鞘を探し求めると、采女は火の粉にもかまわずゆうゆうと屋敷をあとにした。
     
     まさに地獄の魔剣士だな。あと二、三度剣を交えて太刀筋を見極めねば互角の勝負にさえ持ちこめない。そう思った。かわすのも紙一重だった。
     勝負を避けて、畳返しで軒下に身を隠していた剣之介は采女の気配が完全に消えると、ゆっくりと這い出した。庭先に出てみると、蘭花の死体の傍に三つの人影があった。
    「おお剣之介、よくも、よくも蘭花を手にかけたな」
    「待て、早まるな、斬ったのはわたしではない」
     憤る桜花と菊花を押さえて半蔵が前に出る。半蔵の形相もまた凄まじい。
    「半蔵殿か? 初にお目にかかる」
    「真田の、剣之介殿だな」
    「このくの一を斬ったのはわたしではない」
    「お主ではないという証でもあるのか?」
     剣之介の言葉を信じない桜花の手にはすでに三本の手裏剣があった。
    「この屍の切り口を見ると、鋭利ではあるが力技で一息に斬り下ろされている。わたしの知っている限りこんな技を持つ使い手はただひとり。本人も斬ったと認めていた」
    「それは、何奴だ?」
     菊花も手裏剣を手にしていた。
    「鉢屋采女。裏柳生の化け物だ」
    「鉢屋采女」
     半蔵が目を見開いて、名を繰り返す。
    「これほど酷い殺し方をするとは」
     桜花の目は赤く充血している。
    「それに、このわたしの剣は……」
     剣之介はさりげなく刀を抜いた。
    「あっ」
     桜花と菊花が驚きを声に出した。
    「殺生が嫌いゆえ竹光を差している。もう数年の間、小刀を除けば真剣は持ち歩いていない。わたしは一度たりとも人を殺めたことはない」
    「剣之介殿、あい判った」
     半蔵の目にあった殺意が消えた。
    「ご納得いただけたか」
    「蘭花は」
     半蔵は紫に色づく芍薬の花芯から血塗れの指を拾い上げ、目を瞑った。
    「わしの娘だ」
    「なんと。…お悔み申し上げる」
    「忍びゆえどんな死にざまを晒そうと私情は禁物、土に帰るだけと、いまのいままで仲間をそうやって送ってきたが、こたびはさすがに辛いのう」
     半蔵は剣之介に語っているのか、桜花菊花に向けて胸中を吐露したのか、それともひとり言だったのか、降り始めた雨が半蔵の声をかき消していく。
     燃え盛る炎にさんざん舐めつくされた忍び屋敷はがらがらと悲鳴を上げながら崩れ落ちていった。
     
    叙の序
     凄惨な刻が過ぎ、一夜が明けた。目黒の柳生藩下屋敷に移った柳生刑部は朝餉もほどほどに女色を貪っていた。伽を終えた側女は気を飛ばしたまま、寝具の上に身を横たえていた。
    「刑部様」
    「内膳か。かまわん入れ」
     須藤内膳は玄蕃の命を受け、常に刑部につき従い、刑部直属の忍軍を束ねる役目を負っている。
    「伊豆守の屋敷に放ったくの一より面白い話が聞けました」
    「あそこにやったのは延とかいったのう。清楚に振る舞うのが得意であったが、具合のいい良い女であったな。なんだ? 伊豆めに寵愛されて身籠ったとか?」
    「いえ、かような話では。実はここ数日、伊豆守は何人かの名のある刀鍛冶や刀商人が出入りしているそうで」
    「ふん、腕に自信のない男のくせに刀に凝る気になったか」
     刑部はまったく興味がない様子で続けて欠伸をした。
    「延が申しますには、刀鍛冶や刀商人が誰ひとりとして刀剣を持ち込まずに手ぶらで来て、なにも持たずに帰るのだそうで」
    「ほほう」
     刑部の顔が一変する。
    「はい」
     内膳は強く頭を下げた。
    「ふうむ、面白いのう。伊豆が所有する刀を目利きさせているというわけか」
    「もしかすると殿や刑部様が長年お探しの一刀では」
     言い終えると寝がえりをうった女に一瞬目をやった。
    「なぜ、一両筒が伊豆の手元にあるのだ?」
     刑部は糺すような口調で尋ねた。
    「拙者にはなんとも。ですが、ここ数日の半蔵の動きや真田剣之介なる者の出現を見ておりますと、あるいはと」
     内膳は多少のたじろぎを交えて答えを返した。
    「父上にはまだ話しておらぬだろうな」
    「はっ、まずは刑部様にと」
    「よし、わしが確かめてくれるわ」
     刑部は脱ぎ捨ててあった夜着を身につけた。
    「内膳、そこの女、好きにしてよいぞ。ちいとばかし喘ぐ声がうるさいが、よい抱きごごちだ」
     
    「ゆい、急に腕を上げたな」
    「いいえ、伊織様が訪ねていらっしゃった頃と少しも変わっていません」
     江戸内海を右手に展望しながら江戸川を下ると宿場町として栄えた船橋がある。徳川の天領だが、剣之介はここに身を寄せている。
    「旨い。これは?」
    「スズキです。刺身なので腕は関係ありません」
     湯気の立つアサリ汁を啜る。一両日塞ぎこんでいた剣之介の肩を朝日が明るく照らす。数日前、剣之介は難しい顔をして明け方に戻ってくるなり、江戸を出よう、とゆいに言った。なにがあったのです、とは訊かなかったが、以来、剣之介ほとんど自室で書見ばかりしていた。ゆいは久々の笑顔を見て、内心は安堵していた。
     日和に恵まれたため、居間の障子を二枚ほど開け放ってある。縁側に反射した日差しが、向き合って食卓を囲むふたりをふんわりと包んでいた。張り替えたばかりの障子には雀の影が映り、影がちゅんちゅんと鳴き声を発していた。
     剣之介はひとりきりではめったに食事をとらない。主従関係に厳しい時代にあっては稀な例だが、必ずゆいや佐助、居合わせた者と膳を囲んだ。
    「じいは魚の見立ても一流だな」
    「じいではなくて、六さんが地元の漁師から買い求めてきた魚です」
     ゆいは佐助をじいと呼び、六郎、十蔵は名前で呼ぶ。本来、父才蔵とは十勇士として同格なのだが、
    ―じいと呼びなされ
     まだ幼女だった頃に言われて、いまも変わらない。ひとつ違いの剣之介とともに育てられたせいだと理解していたが、やや長じてのち、佐助教えられた。
    ―才蔵は名こそ明かしませんでしたが、あなた様の生母は大坂城にてそれなりの地位にあったお方とか。されば内々にあっては、ふだんは若とも対等に接しなされ。若も実の姉のように慕ってなさる。
    ―あなた様は若様にとって得難いお方。年寄りのわしらは長くはお守りできませぬ。わしらにもしもがあったれば、若を頼みますぞ。ずっと若のお側にいてくだされよ。ただし主従関係は守らねばなりません。わしもこれからはゆい様でのうて、ゆいと呼ばせていただきます」
     六郎も佐助と同じ言を繰り返す。
     
    「天領の魚なのに家光はかわいそうだな。捕りたての魚は食できず、毒見を待って冷えた吸い物を啜る」
    「毒殺を恐れて、羹に懲りて膾を吹いているのです」
    「ははは、確かに」
    「徳川に甘い顔を見せてはいけません。伊豆守に一両筒を渡してしまうなんて」
     ゆいは剣之介に対してはときにそっけなく、ときに丁寧な物言いをする。ふたりきりのときは遠慮のない喋り方をするが、ふだんは主従の距離を保った接し方を心得ていた。
    「いくら調べてもなにも隠されてはいない。宝など見つかりはせぬ」
    「そういう問題ではありませんよ。秀頼公より賜った宝刀を徳川風情にやすやすと」
     ふたりきりになると配慮する素振りも見せず、ときには女らしくもなるゆいだったが、佐助がいないと、あれはいけない、これはこうです、といつもこうだ、と剣之介は首をひねった。こちらの機嫌がいいときはあちらが悪い。なかなかままならぬ。
    「江戸を去るときに返してもらう約束だ。江戸城ではなく、伊豆守の屋敷で保管している。心配するな」
    「判るものですか。信用なりません。いち早く江戸近辺から去りたいのに」
    「まあ、待て。小玄太が京、大阪界隈でよい住処を見つけてくるさ」
    「当てにはなりません。堺方面に行った晋之丞などもはやひと月が経ちました」
     晋之丞は大坂冬夏の陣で散った十勇士のひとり、由利鎌之助の甥にあたる。ここ数年は剣之介の元を離れて全国各地の情勢を調べて回っていた。徳川の追及の届かない安穏な住まいを捜すためだった。
    「そう言ってやるな。あれはあれで役に立つ」
    「晋之丞などはおおかた鼻を伸ばして遊郭に入りびたっているのでしょう。待つ身のこちらは首が伸びきってしまう」
    「ゆいのろくろ首姿は見たくないな。行く先なんぞはどこでもよい。なんなら異国に行ってみるか。暹羅でも天竺でも」
     剣之介はかまわず刺身を口に運ぶ。はたから見る者があればとても主従とは思わないだろう。
    「あなたは悠長でのんびりしていて困ります。ここだっていつ襲われるかわかりませんよ」
    「齢百まで変わらぬかな」
    「それに泣き虫で、幼き頃はずっとわたしの袖を引っ張って歩いてましたもの」
    「さすがにいまはべそはかかないではないか」
     山菜の和え物に手を伸ばす。
    「わたしが願いごとをしても、いつもぐずぐず、ずるずると先延ばしにして、なかなか叶えてはくれなかったでしょ」
     ひと口啜って汁椀を置く。わたしはいつまで姉なのか。ゆいの箸が止まりかけた。
    「はい、はい。ではこうしよう。ゆいの次の頼みごとだけは必ず叶える」
    「またはぐらかす。はい、は一回でよいのです」
     刀を佩いていない町娘姿のゆいを見ているとほっとする。じいもかなりの歳になる。このまま逃げ続けていてはいけない。どこかで終わらせねば。だが、ここもそろそろ引き払わねば。安住の地はあるのだろうか。剣之介は煩いをおくびにも出さず、ゆいに笑いかけた。
    「約束する」
    「ほんとう?」  
     このところゆいのおなごらしさにどきりとさせられる。幼き頃は姉であった。長じて主従関係へと変わり、来春、さらに先々の春にはどう変わっていくのだろうか。それは剣之介にもまだ判らない。
    「そうそう、碁石が足りなくなってきた。あとで買い求めてきてくれ」
    「ほうらきた。いつもあなたは頼みごとばかり。わたしが身の回りの世話をしなければなにもできないのに」
     ゆいの口調は今朝の日射しほどに柔らかい。
     
    叙の破
     増上寺での回向の帰りしな、伊豆守の乗物に異変があった。担いでいた陸尺の悲鳴があったかと思うと、伊豆守は乗物ごとどすんと地に落とされた。
    「曲者だ!」
     急ぎ這い出すと、駕籠者はおろか警護の者ふたりも仰向けに倒れている。伊豆守の一間半先には夜目にも白い太極服を纏った長髪の男が立っていた。
    「町中で白昼堂々と。痴れ者めが」
     伊豆守は才知の人であり、武にはそれほど通じていない。
    「おいのちいただく」
     素手の男は手の平を向けて、キエーイと甲高い気合いを発すると、伊豆守を目がけて跳躍した。すると伊豆守の頭を飛び越えた影が男と衝突した。ふたつの固まりがもつれ合い、また分かれて地に降り立つ。
    「じゃまするな」
     伊豆守が影はと見ると、覆面がはらりと取れて女人の顔が現れた。全身黒ずくめの女人であった。桜花?菊花か? 姿は似ているが伊豆守の知らない女人だった。刺客と女人は一触即発の殺気をはらんで対峙していた。そこへ、
    ―曲者だあ、出会え出会え。
     襲われた場所が旗本遠山氏の屋敷前とあって、騒ぎを聞きつけた家中の武士が我先きにと飛び出してきた。
    「ちっ。うんいいやつ」
     男は土塀の瓦に飛び乗ると、驚くべき飛躍を見せ、たちまち消え去った。
    「首はついておるな」
     伊豆守は首をひとしきりさすった。
    「そこもとのおかげで命を拾った」
    「霧隠ゆいと申します。紙一重でした」
     ゆいは懐に苦無をしまう。
    「では真田の?」
     これが剣之介の、ねえか。
    「はい、伊豆守様のお屋敷に伺う途中でありましたので、やや離れて後をつけてきたのが幸いしました」
     ゆいはほつれた髪を高く結い直した。
    「いまの刺客、正体が判るか?」
    「言葉使い、装束、明国か後金の者と見受けられましたが。お心当たりは?」
    「明に恨みなぞかっておらんし、明の朝廷がわしなんぞを狙うはずがない。まして明はいま後金という国に攻められて危ういと聞く。わしもなにかと狙われておるが、さっぱり判らぬ」
     わざわざ他国の者を使うとはよほど素性を知られたくないのだろう。さては尾張が暗殺を謀ったか。まさか幕閣の誰かが。それとも……。
     伊豆守にも見当はついていない。徳川家中の者がよりにもよって真田の者に命を救われるとは。舎弟殿に借りが出来てしまったな。
    「霧隠と言ったか。わしに用があったと?」
    「一両筒をお返しいただきに参上するところでした」
    「判った。お返しいたそう」
     舎弟殿もいよいよ江戸払いか。それがよかろう。
    「幸い死人は出ておらぬようです」
     遠山家中に負傷者の手当てを頼むと、伊豆守は、
    「ゆい、屋敷まで警護をしてくれぬか?」
    「もとよりお屋敷には所用があるますゆえ」
     ゆいは忍び装束に髪を無造作に後ろ手に束ねていた。顔は覆っていない。伊豆守は改めてじっくりと顔を眺めた。ゆいは視線を落とさずに伊豆守と対していた。
     ほう、美しい。まさしく芙蓉のかんばせ。市井にもわしに対して目を伏せぬおなごが。おったか。いや市井とも言えぬか。
    「屋敷はほど近い。歩いてまいろう。真田剣之介殿はどういったご仁かな?」
    「主の人となりなどあけすけには喋れませぬ」
     一介の忍びの娘にこれほどの気品があろうとは。大奥中を探しても見当たらない玉かもしれん。事なきを得たばかりであったためか、伊豆守の心は穏やかでない。
    「日々なにをして過ごしておる?」
    「もっぱら四書五経を読んでおりました」
     ゆいは斜め後ろを二歩下がってついていく。
    「囲碁もやっておるであろ」
    「は? なぜご存じで?」
    「そういう気がしたまでじゃ。いまどきの武士なら少なからず嗜むからの。ゆいも相手になるのか?」
    「ときどきは」
    「幼き頃はいかがしていた?」
    「さようですねえ。かくれんぼが得意なお子でした」
    「かくれんぼとな。こどもらしいがの」
     往時を思い浮かべたゆいは顎を上げて、目を細めた。
    「わたしはすぐに剣之介様に見つけられてしまいますが、剣之介様は隠れ上手で。なかなか見つけられないのです」
    「ふふ、霧隠と異名をとるそなたより潜伏が上手いのか」
    「はい。あるときは行方をくらましたまま、夕餉時を過ぎても土蔵の天井裏で寝ておりました」
    「あの剣之介が?」
     舎弟殿の顔が思い出された。幼少の頃は稚児に望まれるほどの面差しだったのであろうな。
    「伊豆守様は剣之介様にお会いになったのでしたね」
    「宮本伊織殿の舎弟としか言わなかったがな」
    「どうして見つけられないのか、ある時訊いてみました」
     ゆいは回想を続けた。
    「常に移動をしていました。近づく気配がすると、わたしに悟られず居場所を変えてしまいます」
     ゆいの口調には懐かしさがこもっている。
    「忍びよりも消えるのは上手というわけか」
    「いまになっても、捉えどころのないお方です」
     それにしても揃って男ぶり女ぶりの良い主従よ。
    「つまらぬ話をつらつらと。お耳汚しでしたか?」
    「いや、かまわね。お主らの暮らしぶりが目に浮かんだわ」
     小袖に打掛を羽織った正装させたなら大奥にても類まれな存在となるだろう。美しさもさることながら、なによりも溢れんばかりの生に満ちている。上様のお側にもこのような女性が欲しいものだ。
     他愛のない話を尋ねながら歩を進めると、ほどなく伊豆守の中屋敷が見えてきた。屋敷が近いとあって、伊豆守に遊び心が湧いた。
    「お主たちはもう契りを結んたのか?」
    「は?」
    「剣之介と男と女の関係になったのかと訊いておる」
    「い、いえ、そ、そんな滅相もない。しゅ、主従でありますれば……」
     ゆいは傍目にも判るほど、うろたえ、赤面してうつむいた。
    「はは、許せ。冷やかしてみとうなっての」
     襲われたばかりであったはずが、伊豆守はいつのまにか上機嫌で足を運んでいた。
    「お戯れを」
    「剣之介は幸せ者だな」
     正門が見えてくると、門番があわてふためいて駆け寄ってきた。血相を変えている。
    「と、殿、なにゆえおひとりで?」
    「案ずるな。騒ぎ立てずともよい」
    「ゆい、このあと夕餉じゃ。供をしてくれぬか?」
    「公儀が真田処分を解き、剣之介様に一万石ほどの所領をくださいました折りは喜んで」
    「ははは、言うのう」
     ここしばらく会話が弾み、愉快な相手は、皆幕府とは相容れない者たちばかりとは。伊
    豆守はゆいを伴って廊下を奥へと渡る。刀鍛冶、目利きの者、許される限りであらゆる手
    立てを尽くしたが、一両筒はなにも語らなかった。すでに剣之介は解明を終えていて、こ
    ちらは謀られたのではないか、とさえ伊豆守は考えてみた。が、あの夜の剣之介の風貌や
    言動には誠実さが滲み出ていた。伊織が評したままの若者であった。
     居室に入ると伊豆守は目を疑った。見ると一両筒とは似ても似つかない刀が掛け台に置かれているではないか。外出前に自らの目で確認していたが、いまなぜか一両筒は消えていた。
    「誰かある」
     伊豆守は大声で呼ばわった。近習が急ぎ駆けつける。
    「この部屋に誰か通したか?」
    「こちらには誰も。ただ柳生刑部様が先刻までおいでに」
    「刑部だと、何用だ?」
     伊豆守は珍しく声を荒げた。ゆいの血相も変わっている。
    「用むきは判りませぬが、七ツまでお待ちになられて」
    「たわけ、主不在で屋敷内を歩かせるなど」
    「お断りいたしましたが、刑部様は、土井様の御用向きじゃ、では庭でよい、待たせてもらう、と強引に」
     近習の声が先細っていく。
    「それで上げたのか?」
    「そこにお延の方様が通りかかりまして。土井様じきじきの命でいらした方を門前払いにするとあっては、それでも松平家の禄をはむ者かと笑われてしまいます。殿のお帰りまで丁重におもてなしを、と」
     お延の方とは伊豆守の愛妾である。
    「うぬ、お延はどこじゃ」
     伊豆守は大声で呼ばわった。
    「白昼堂々と刑部ふぜいが。いや、もとはといえば余人に知らせず内密に隠し持っていた、この伊豆の失態。盗んでよいとばかりに据え置いたわしの油断」
     伊豆守は血が滲むほどに唇を噛んだ。
    「ゆい、許せ。柳生が盗みおった」
    「ではわたしは柳生刑部とやらから取り返しましょう」
    「済まぬ。ゆい、しばし待て。蔵人、刑部は乗物で来たか? 供は連れていたか」
    「乗物でございました」
     乗物なればおそらく屋敷に戻るであろう、と伊豆守は判断した。屋敷内が騒然とするなか、お袖が現れた。
    「伊豆守様、お延の方は邸内におりませぬ。おそらくは出奔したかと。正体を見抜けなかったわたしの失態でございます」
    「ぬかったわ。延は柳生の間者であったのか」
    「あ」
    「おお、霧隠」
     ゆいと桜花は突然の出会いに驚くも、とっさに身構えた。命のやりとりをした相手だけに無理もなかった。
    「案ずるな、よいのだ、桜花。玄蕃の下屋敷はどこじゃったかの」
    「柳生下屋敷は一ッ木町でございますが、しばらくお待ちください。いちおう菊花に刑部の乗物をつけさせております」
     そこへ樹々を揺らして菊花が庭に降り、すぐさまかしずいた。
    「刑部は土井様のお屋敷に向かっております」
    「むう、あやつめ、早速進上しに行ったか。菊花、ゆいに土井様の屋敷を教えてやれ」
    「よいので?」
    「かまわぬ」
     菊花はゆいに耳打ちした。
    「では、伊豆守様」
    「剣之介殿との約定、たがえてしまった。詫びの言葉もないと伝えてくれ」
     ゆいは笑みで返し、軒先に出ると勢いよく外塀へと跳躍した。
     
    「お延でかした」
    「はい」
     延と呼ばれた女は忍び装束で乗物に付き添っていた。
    「今宵はよっぴきお前を抱いてやろう」
     刑部は満足げに一両筒の柄を撫でる。
    「これで親父殿もわしを見直すだろう」
     留守を見計って白昼堂々と訪れた伊豆守屋敷での行幸。一年も前から潜入させていた延の手引きによって、屋敷の者に気づかれず、少しばかりの家探しで目的を果たしたのだった。
     まさか本当に一両筒らしき刀を手中にできるとは、わしには運がある。鞘こそ違え、柄巻、目貫、鍔に至るまで耳にしていた特徴はまぎれもなく一両筒だ。伊豆守は表沙汰にはできまい。盗まれたとは口が裂けても言えぬはずだ。それよりも、なぜ一両筒が伊豆守の屋敷にあったのか、土井老中に釈明せねばならなくなる。
    「ふっふっふ、面白くなってきたぞ」
     
    叙の急
     利勝が慌ただしく部屋に入ってきた。障子を開け放ったまま上座へと回る。
    「刑部、いかがした?」
     部屋に通された刑部と縁側に控える延は叩頭したままだ。
    「はっ、献上したき物がありますゆえ、急ぎまかり越しました」
    「急を要すと申したようだが、献上品など急がずともよいではないか」 
     利勝の顔が曇った。刑部は慌てて、
    「ありきたりの献上品ではございませぬ。幕府が長年追い求めていた名刀一両筒を手に入れてまいりました」
    「なに一両筒?」
     刑部は脇に置いた一両筒に目で指し示した。
    「早よう見せい、早う」
     利勝の言葉が終らないうちに、向かい合った刑部と利勝の中間で白煙が音もなくしかし急速に天井狭しと室内に満ちていった。
     刑部は思わず袖で顔を覆い、身をかがめた。利勝もまた前に乗り出していた腰をすとんと落として尻もちをついた。
    「やや?」
     一両筒が消えている。すぐ手の届く右手側においてあったはずの一両筒が。刑部は這いつくばったまま、身の四辺を探るがそこにはなにもない。利勝はと見ると、利勝は腰をぬかしたまま頭を上げて、庭先を凝視していた。刑部は振り返って利勝の視線の先を追った。
     屋敷塀の瓦に影が立っていた。月明かりを頼りに刑部が目を凝らすと、その影は、
    「一両筒、返してもらった」
     と声高に叫んだ。右手に持った一両筒を横にかざすと、刑部に向けてぐっと差し出してみせた。
    「おのれ、盗人女」
    「盗人とは柳生、貴様のほうだ。柳生など少しばかり剣術をいじりまわす田舎郷士ではないか。秀頼様より賜った真田家の宝刀を盗むとはもはや武士とは言えぬ」
    「そ、そのほうは?」
    「霧隠ゆい」
     忍びの黒装束に身を固めていたが、ゆいは顔を隠してはいない。
    「真田の一味か。狼藉者めが」
     刑部は手裏剣を飛ばすが、ゆいはひらりと身を回転させて避けると、また瓦に立った。
    「一味とはなんぞ。そもそも狼藉者とは天下を盗んだ徳川家康だ。狸に仕える駄犬には言われたくはないわ」
    「許さぬぞ、女狐」
    短刀を抜いた延が縁側の端を蹴って、ゆいに飛びかかる。影と影が交錯したと思うと、襲いかかった影は浮力を失い、音を立てて地面に激突した。歪曲した首の切断面からは赤黒い血液が噴き出ていた。延を一瞥すると、刑部はゆいを睨みつけた。
    「お主、一両筒でこの女を切ったのか? 天下に聞こえた名刀が刃こぼれでもしたらどうするつもりだ」
     ゆいは一両筒を抜き払ったまま快活に笑うが、切れ長の大きな瞳を油断なく左右に配っている。
    「そもそも剣は斬るために使うのだ。折れようが折れまいが、この一両筒は真田が賜った御料ぞ、誰に遠慮が必要か」
    「そちはなかなか弁が達者よの」
     さすがというべきか、利勝は刑部と違って落ち着きを取り戻していた。刑部はゆいの注意が利勝に移った隙に口元を隠して忍び笛を鳴らした。特殊な音程で柳生の忍びにしか聞き取れない。土井邸の外にはかなりの忍びを潜ませていた。だが、この女は誰にも悟られず、いともたやすく包囲を突破してきたのか。刑部はゆいを睨んだまま、密かに舌打ちした。
    「土井利勝、お主の先代などは家康のふんどし担ぎだったではないか。大名とは名ばかりの小録で徳川の屋台骨を背負って立つ姿はさぞかしみそ樽を負ぶった日光の猿のようだな。老中職にあるならば、刀なんぞにうつつを抜かさず、まずは天下万民の幸を考えよ」
     ゆいはくっきりとした二重瞼の目を大きく見開き、きっ、と利勝をねめつけた。
    「痴れ言を言うな。恐れ多くも天下のご老中に向かってなんたる無礼」
    容赦ない目つきで隣の刑部を射ぬく。
    「だらしのない口を閉じたらどうだ、盗人忍び」
     罵声を浴びながら、真田の忍びにこんな衣通の女がいたのか。上の女ではないか、と刑部は目を凝らした。差し迫った危局にあってもゆいの容貌に釘付けとなっていた。
    「女、敗れ去って断絶した豊臣にいまさらなんの忠誠を示さねばならぬのだ。刀を渡せば一生安楽に暮らさせてやるが、どうじゃ」
     刑部は引きのばしにかかる。ゆいの腕前は先刻承知で、配下が来るまでは安易に手出しはできない。まして利勝になにかあっては柳生の存続にかかわる災禍となってしまう。
    「八つ裂きにされても徳川の禄など食めるか」
    「なんならわしの側女にしてやってもよいぞ。見ればかなりの上玉ではないか」
    「呆けたか。卑しい面と成りでたわけたことを」
    「剣之介とか言ったな、お主の男は。なんならつがいで柳生が面倒を見てもよいぞ」
    「はっは、剣之介様はお主や玄蕃ら裏柳生の忍びがすべからく市中引き回しのうえ晒し首にならなければ納得されまい。刑部、首が失ってのち、どうやってわれらの面倒を見るのだ」
     言い終わったゆいを目がけて数本の手裏剣が飛んだ。これを難なく避けるとゆいは近くの一本松に飛び移った。
    「長いをした。さらばだ」
     声と同時に塀の上にあった姿が暗闇に溶けた。
    「刑部様、参上いたしました」
     駆けつけた内膳が声をかけた。
    「遅いわ、馬鹿者。早くあの女を追え。逃がさば腹を切れ」
     利勝への手前、叱咤の声がいやがおうにも大きくなる。庭に飛び出してきた追手の中に采女の姿もあった。
    「采女、捕えろ捕らえろ。だが斬るなよ、斬るな」
     采女は無言で数人の忍びとともに外塀を飛び越していった。
    「ご老中、必ず取り戻してまいります。しばしお待ちあれ」
     刑部は利勝の顔をまともに見ることもできず、額に冷や汗を浮かべて采女の後ろをついていった。
     
    結の序
    「真田剣之介」
     障子に影が映った。行燈の灯が揺れる。剣之介は日本橋浜町のさびれた宿屋にいた。時は六ツにならんとしている。問いただす前に影が言った。
    「胡蝶だ」
    「おお、胡蝶か、いかがした? 天樹院様になにか?」
     剣之介は障子を開け、縁側に出た。
    「そうではない。伊豆屋敷で雷切が奪われ、霧隠が跡を追った」
     よほど急いだのだろう。胡蝶といえども息が上がっていた。
    「なんと」
    「伊豆の不手際だ。続いて土井利勝の屋敷で騒ぎがあり、柳生忍軍が総がかりで狸穴付近を探索しているとの知らせが入った。霧隠が雷切を奪い返して、刃を交えていてもおかしくない。わらわにも手が余る采女がおるゆえ、急ぎ知らせに参った」
    「かたじけない」
    「表だって手助けはせぬつもりであったが、霧隠の危急とあって話は別。加勢いたす」
    「なにゆえ、ゆいをそこまで気にかける?」
    「天樹院様からいざというときまでは、と口止めされていたが、もはや打ち明けてもよいであろう。霧隠ゆいは、いや、ゆい様は秀頼公の忘れ形見なのだ」
     
     返り血を浴びた。額の血糊を拳で拭う間に次の忍びが間合いに入ってくる。奪った短刀で心の臓を抉った。手持ちの手裏剣はすでに使い切っていた。ゆいは半刻も柳生の忍びと交戦の火花を散らし、すでに十人余りの忍びに加えてふたりの武士を屠っていた。視界に入ってきた忍びを短刀で切り倒す。激しい切り合いで大刀は折れ、小刀も失った。
     こやつら伊賀者より弱い。だが後から後から湧いて出てくる、倒しても倒しても襲ってくる。すでにかなり息は上がっていたが、一両筒を剣之介に渡すまで倒れるわけにはいかない。ゆいは唇を噛んだ。体力も限界に近づいてきていた。気力だけではさらなる攻めはかわせない。
     ゆいは樹上を飛ぶ。佐助仕込みの猿飛の技だ。そう簡単に追いつめられはしないが、跳躍力が衰えてきたいま、追手集団との距離は少しずつ確実に詰められてきていた。
     と、ゆいは水の匂いを嗅ぎつけた。しめた、近くに川か池があるはず。こっちか。襲ってきたひとりをひと刺しで倒すと、ゆいは水を求めた。匂いが強くなる。猿飛が使えない葦の湿原を抜けると目前に溜池が広がった。
     水だ。
    喜んだのも束の間、先端に錐刃をつけた手投げ松明が立て続けに水辺周りの松の幹に刺さった。先回りされたか。待ち伏せしていたか。ゆいは唇を噛みしめた。
     月光に加えて、十本に余る松明は昼にも勝る明るさをもたらした。ゆいの全身が曝け出される。
     ひとりまたひとりと背後に柳生の忍びが増えてきていた。刑部の顔も見える。右へ左へと手裏剣を避けながら、かまわず水源を目指す。ゆいの行動を見越してか、水際の土手にも続けざまに手投げ松明が打ち込まれた。
     池の手前に男が仁王立ちになっている。眩いばかりの松明の明かりが降り注いで大きく揺らいだ影を作っている。この男は剣之介が化け物と評し、腕を恐れた過日の辻斬りだ。違いない。くわっと睨みを利かせた両眼は底知れぬ殺意に秘めていた。凄まじい悪気にゆいは身震いした。
    「おとなしく刀を渡して、命乞いをしたらどうだ」
     采女の声が冷たく響く。
     迂回している余裕はない。ゆいは背に吊るした一両筒を外し、両手に持ち替えた。動きに合わせて采女も斬象剣を抜く。
    「天下に聞こえた名刀ならばおれを斬れると思ったか」
    「参る」
    「居合いでくるか。無駄だ」
     ゆいは明々とした炎に照らされた野原に躍り出ると、采女に向かって真っすぐに走った。あと数歩で互いの刃が触れんばかりに縮まると、ゆいは一両筒を鞘ごと地に突き立てた。采女の視線が刀に落ちる。ゆいは瞬間を見逃さない。突き刺さした刀の鍔に片足を預けると大地の明るさを逃れるように天を目指して跳翔した。忍び糸で縛り付けていた一両筒もともに空に引き上げられていく。
     ひと呼吸の躊躇があったが、
    「猪口才な」
     采女、逃がさんとばかり斬象剣を斬り上げる。一跳したゆいの身体は樹々の頂上を越えてはるかな高みへ達していた。猿飛秘伝の飛躍術だった。斬象剣がむなしく空を切ったかと追手の誰もが見上げていると、まず鞘が落下し、はらりと切断された黒い衣が散り散りに落ちてきた。
     まさに紙一重。衣は剥ぎ取られたが、ゆいには素肌を切られた感覚はなかった。煌々とした月光を浴びながら、反り返った裸身は弧を描いて、いささかも欠けたところのない玉のごとくに満ちた月のただなかを横切った。天よりは月の光、地からは松明の明かりにしなやかな裸体を晒しながら、てらてらと松明の炎がゆらぎ映る水面へと落ちていった。肢体の影が写り込んだ水表はざぶりと静寂を破る音を鳴らして、たちまち現身を呑みこんだ。池岸に波紋が拡がっていく。
     ゆいは池水に身を任せると、水底へ潜っていった。鞘が斬象剣の威力を防いでいなければ、動きがとれないほどの深手を負っていたはずだ。やはり幸ある刀身なのかもしれない。鞘を失った一両筒の柄を握り、追手が待ち構える水面を目指した。
     刑部を筆頭に居合わせた柳生忍軍は全員がかたずを呑んで池水面を覗いていた。采女ひとりは構えを崩していない。
    水面がほのかに赤く色づいた。
    「血だ」
    「だが、浮いてこんぞ」
    「刑部さま、この池はたいして深くありませぬ。二、三人潜らせましょう」
    「そうだな、そうだ、そうせい」
     采女が制した。
    「まあ待て、川なら流れて逃れられるが、池なれば浮かび上がってくるほかない」
     水面のざわめきが収まり、再び沈黙が訪れようとしたとき、忽然と水しぶきをあげて、ゆいが水中から肢体を現わした。
     浮遊したゆいは一糸まとわぬ身を周囲に晒したまま水辺に立った。刑部は水滴を弾かんばかりの若く白い肌を食い入るように見つめていた。
     ゆいは背に痛みを感じた。背には思いのほか深く斬象剣の刃が入っていた。いまになって流れ出した鮮血が池水で薄まり、池水に溶けて水面にじわりと拡がっていく。致命傷ではない。
    「水さえあればわたしの勝ちだ」
    「この語に及んで強がりか。屈せぬ不敵な眼差しはこの上なくそそるのう」
     美身の値踏み終えた刑部は顎をしゃくりながら傍らの采女に念を押した。
    「采女、斬り殺すなよ」
     土手にたむろする追手の半数は松明をかざしてゆいの全身を余すところなく照らし出す。ゆいは刑部に向けて一両筒を握った右拳を差し出した。青筋が浮かんだ真白き乳房がきゅっと締まる。一両筒が月の光を受けて、まばゆいばかりのきらめきを見せた。
    「霧隠の術、とくと見せてやる」
     後ろ手にきつく縛ってあった黒髪を解き、首を右左に振ると、風に煽られて豊かな黒髪がいっせいに左右に拡がる。風に翻弄されて、髪は一本一本見分けられるほどに細かくなびいている。髪に付いた無数の水滴が枝を離れる花びらのように天地四方に散った。
     吹き上げられる髪に共鳴して、千万無量の霧しぶきが池水から沸き上がった。瞬く間に一面すべてが霧世界となって、怪訝な表情をしたままの柳生忍軍を包み込んだ。
     
    佐助と六郎が隠れ家に戻ると、剣之介が無銘刀を腰に差し草鞋を履こうとしていた。眦を決した剣之介、隣に胡蝶。
    「若、これは?」
    「じい、ゆい姫様の秘事、なぜ隠していた?」
     剣之介は佐助がついぞ目にしたためしのない形相で迫った。佐助は膝を折り、頭を垂れて、放心の体ですとんと畳に崩れ落ちる。
    「柳生忍軍が総出でゆい姫様を追っている。間に合わなければあの世で父上の合わす顔がない」
    剣之介は日頃愛用している竹光を刀立てに置き、真剣一振りを腰に差した。
    「若、若、わしは……」
     佐助の顔が蒼白になった。
    「ゆい、いや、ゆい姫様が、豊家の姫とは」
     六郎はまだ半信半疑の有様だった。
    「急いでいる、飛びながら話せ」
    剣之介は大戸口を飛ぶように抜ける。胡蝶、六郎、そして佐助が続く。
    「ゆい、姫様はいずこで戦っているの……」
     六郎の言葉が終らないうちに胡蝶が答える。
    「追手の幾人かにわらわの蝶を貼り付けてあるゆえ、つきとめるのは容易だ」
     四人は畦道を駆け、樹々の枝を蹴り、凄まじい速さで移動し続けた。一陣の風にねぐらを侵された無数の鳥が叫びあわてふためいた。
    「申し訳ありませぬ。わしは間違っていたのでしょうか? しんがりを務めたと聞いたおりに打ち明けておればよかったかぁぁ」
     佐助は無念の表情のまま飛び続ける。
    「もっと前だ。義父上の庵を出て皆で暮らし始めたときになぜ言わなかったのだ。なぜ?」
     言って、剣之介は絶句した。
    「打ち明けられぬ苦しさもあるのです。若にも真実を話さずに、わしは墓場までこの秘密を持っていこうとしていたんじゃが」
    「なにを馬鹿な。長年に渡り主を謀っていたのか。佐助、恨みに思うぞ」
     ふつふつと怒りが湧き、剣之介は佐助をなじった。
    「知ったところでどうなりますのか。知らぬほうがおふたりとも幸せに暮らせるのではあるまいかと」
    「わたしにとっては主君の姫君ではないか。姫を失えば元も子もない。知らずに死地に立たせていたとは。悔やみきれぬ。そもそも一両筒などなにほどもない。たかが一振りの剣ではないか。姫であろうとなかろうと、ゆいの命には代えられぬ。もっとも責められるべきはこのわたしだ」
     剣之介は険しい表情を見せながら、木立を越え、樹々を渡る。
    「秀頼公はご自害直前、赤子であった姫様を自らわしに手渡して、豊臣家再興などは考えるな。霧隠の娘として大助の子とともに育てよ。決して姫に出自を教えてはならぬ。格別な扱いはいっさい無用。くれぐれも徳川に嗅ぎつけられるではない。縁があればふたりを娶せてやってくれ。この期に及んでは、姫にとっても天下にとっても最善の道であろう、と仰られました」
     並翔する佐助のしわがれた頬には涙が伝っていた。六郎が遅れ出す。
    「平穏な暮らしを営んでいる者のみに与えられる欣幸ではないか。いまは日夜追われる立場なのだぞ」
    「この先、姫が流浪の果てに安住の地を見つけられず凶刃に倒れようと、哀しいかな、それが姫の定め。誰にも素性は明かすでない。くれぐれも姫に悟られてはならぬ。大助の子か姫が知ればまたこの国が割れ、血で汚れてしまいかねない。お前たち十勇士の生き残りには終生難儀をかけるが許せ、と付け加えられました」
     気がはやりながらも剣之介は佐助に耳を貸していた。
    「大坂落城のあの日、じいに背負われていたのはゆい姫様だったのか」
    「若はまだお生まれではなかった。わしが姫様を背負い、才蔵が一両筒を持って脱出しましたのじゃ。若の母君もよの方様は大殿の命ですでに夏の陣の始まる半月ほど前に十蔵が連れて落ちのびておりました」
    「ほかに誰が知っている?」
    「わしと才蔵のみだと思っておりました。武蔵様も伊織様もご存じありませぬ」
    「天樹院様は落城の際には知っていたそうだ」
     先行する胡蝶が抑揚のない話しぶりで口を挟んだ。
    「片倉の叔父上や叔母上は?」
    「もちろん、ご存じありませぬ」
    「もしや宝は一両筒とともにあると秀頼公が言ったのは?」
    「大助様が拝領されたとき、秀頼公は一両筒を姫の守り刀とせい、と仰いました。いまにして思えば、宝とはおそらくはゆい姫様のこと」
    「わたしは豊臣家の生ける宝を野ざらしにするところだったか」
    「面目ございません」
     剣之介は彼方に目を転じると自らに言いきかせるように言った。
    「ゆい姫に仇なす者はすべて斬る」
     
    結の破
    「それが霧隠の術か?」
     不意をつかれたゆいが振り返ると、視線の先には采女がいた。夜が白んじてきている。
    「わたしの術を破ったのか?」
     才蔵にも勝ると佐助に褒められもした霧隠の術が破れたのか。出血しながら一晩中肌を晒していたため唇は青ざめていた。ゆいは改めて斬りつけられた背に疼痛と痺れを感じた。
    「単なる眼眩しではないか。おれがそんな術にかかると思うたのがお前の未熟だ」
    「信じられぬ」
     逃げ切ったはずだった。霧しぶきの中で十名ほどは倒している。池の畔からは三十町ほどは離れていた。もはや近くに水源はない。先には石ころだらけの草地があるだけだった。
    「おれの斬象剣がつけた血の匂い、見失うはずがない」
     三十人ほどの忍びが枝垂れ藤をかき分けて現れ、二重の円陣を描いてゆいを取り囲む。采女を軸に退路はすべてが塞がれてしまっている。
    「采女様、お見事です」
     忍びのひとりが言った。数名の忍びが肩で息をするゆいに手裏剣を向けた。刑部が遅れて到着した。
    「止めよ。勝手するではない」
     刑部は怒声を上げて、配下を制止した。。
    「霧女よ、そなたも諦めて、わしの女にならぬか。淡麗な面立ちもさることながら、そなたの身体は美しいのう。未通女であろう? このまま殺してしまうのは惜しい、惜しすぎるぞ」
     刑部はゆいに言って聞かせているのか、ひとりごちているのか判らない口調だった。
     昇りつつある半輪の朝日を受けて、裸身は透けるように眩しい。過酷な状況に追い詰めながらも艶を失わない肌はうっすらと香気が漂ってきそうな湯気を上げていた。一両筒もゆいの手元できらきら光りを発していた。すらりと伸びた脚の先には散った藤の花が敷き詰められている。刑部は息を吸い込み、改めて全裸のゆいを視姦した。
    「情けをかけられるくらいなら自刃する」
     ゆいはとうに鞘を失った一両筒を握りしめた。かろうじて立っていると悟られてはならない。地に脚をしっかりとつけて、諦めずに抵抗を試みる女体の美しさは刑部のみならず、敵として対する柳生忍びをも魅了していた。
    「ますます欲しゅうなったわ。見ろ、内膳、小股がきれ上がるとはこういう女を言うのよ」
    「はあ、さようで」
     声をかけられた内膳は困惑の表情になった。
    「ほれ、引き締まった尻の形と腰骨の隆起、恥部のなだらかな盛り上がりを見よ。こんな女、かつてないわい」
     刑部は興奮を隠さない。
    「女、あくまで戦うと申すか」
     采女はおもむろに斬象剣を抜いた。
    「知れたこと」
     内膳に一両筒の鞘を手渡された刑部は、松の大木に背を持たせかけたまま、ゆいに呼びかけた。
    「確かゆいとか名乗ったな。一両筒をこちらに渡せば、逃がしてやらぬでもない」
     柳生忍者が増えつつあった。孤軍のゆいひとりに対し、柳生は数にして五十越え。四重に取り巻いていた。そして采女。
    「柳生車囲いの陣だ。名だたる武芸者でも容易に突破できぬわ」
     ゆいはいざとなれば自尽ができるほどに喉元近く一両筒を構えた。朝露に濡れた肌に纏わりついた赤い藤の花弁がひとつふたつと剥がれおちていった。
    「ほほう、限界を悟って死の境地に入ったか」
    「采女、この女は生かして捕えよ。できれば肌を傷つけるな」
     と刑部。
    「刑部殿、女はすでに死を覚悟している。柳生広しといえども十兵衛でさえ、捨て身の腕達者を生きて捕らまえるなど難しいわ。お望みなら加減してみるが約束はできぬ。万が一、おれが屠ってしまったら諦めよ。もっともお主ならやすやすと屍姦ができるだろう」
     采女は斬象剣を上段に構えた。隙はどこにもない。采女はゆいを目がけて駆けた。ぐわっと斬象剣を振り下ろす。
    がきぃーんと剣刃が火花を散らすと、ゆいの上体は五歩、六歩とよろけて、刑部の足元に倒れ伏した。眼前に輝くばかりのゆいの裸身が晒されていた。そこに油断があった。刑部は采女を睨みつけて、叱責した。
    「これ采女、あれほど…」
     目を逸らした一瞬の隙だった。ゆいは刑部を背にしたまま一両筒を逆手に持ち替えると、すばやく立ち上がった。振り返らずそのまま真後ろにいる刑部目がけて背面突きを試みた。刃先は刑部の開いた口に吸い込まれる。宝刀が喉を貫く。刀身は咥内を貫き、頸椎を砕き、首筋の皮膚を破った勢いで、刑部を串刺しにして身体ごと幹に打ちつけた。
    「ふぐっ」
     刑部は自身に起きたいっさいが判らぬまま、声にならないくぐもった音を漏らした。手足が糸を失った傀儡人形さながら目的もなく四肢がばらばらと動いた。
     目の前で党目を討たれて狼狽する内膳らを後目に、目下の苦無を拾う。采女の動きに目を切らさず、足をもつれさせる刑部の前に回り込んだ。陣形を振り返りもせず、刑部を真正面に見据えると、苦無を心臓に押し込んだ。刑部は呆けた表情をしたまま止めの一撃で絶命した。一連の捨て身の動作には無駄がない。
     もう一度骸になった刑部の心臓を深く突き刺し、喉奥まで達していた一両筒を引き抜いた。すでに事切れていた刑部はたちまちずるりと地面に崩れ落ちた。堰を切ったおびただしい血が止めどなくゆいの背に降りかかった。刑部の手を開いて鞘を剥がすと、一両筒の刀身に収める。
    「霧隠の、なかなかやるな。先刻の跳躍といい、このおれを二度までも騙しおったか」
     采女は口を歪めて笑った。首領が討たれた動揺など微塵もなかった。
    「党目の屍を連れて退いたらどうだ?」
     忍びたちの様子を見ながら、ゆいは息を整えた。刷毛で撫でつけたような赤黒の血が一滴、二滴とふくらはぎを伝っていく。
    「おのれ、女」
     我に返った内膳が苦無を取り出した。
    「内膳、止めい。この女はおれの獲物だ。邪魔立てすれば貴様から始末するぞ」
     采女の一括で金縛りにあった内膳の動きが止まる。他の忍びたちも同様だった。
    「し、しかし、刑部様がこの女に」
    「そんな男の生き死になどかまってられぬわ。尽きぬ好色が命取りになったのよ、くだらぬ」
    「采女殿、柳生一門の者とは思われぬ言いよう」
     采女は内膳など眼中になく、
    「霧隠の、道連れができてよかったではないか。もっとも刑部と一緒の道行きでは嫌だろうがな」
     斬象剣を一刃受けただけで、いまだに腕が痺れていた。この剛剣は支えきれないとゆいは悟った。全裸の身では隠し持った得物もない。ゆいはまたも剣を収めた形で身構えた。
    「参る」
    「たわけ、居合いと判って勝負になるかっ」
     ゆいは薄紫の絨毯を踏みしめ、采女目がけて疾走した。采女は上段で待つ。三間手前で地を這う態勢を取ると、地面に敷き詰められた藤の花弁を鞘で払った。
     一度は散った藤の花弁が空へと撒きあげられると、辺りは満面絢爛の藤吹雪となった。中空で再び開花した藤の花弁は名残りを惜しむかのごとくここかしこに漂い、采女の視界を遮った。
    「藤隠では勝てんぞ。花など散って朽ちるだけだ」
     花弁乱れ散るなかでも采女はゆいの挙動を見逃さない。
    ゆいは地摺りの刀を足で跳ねあげると、刀身を残したまま鞘のみを采女へ蹴り出した。残った気を集中させて、一両筒で斬り込んだ。
    「笑止」
     采女は斬象剣の棟で鞘を弾き飛ばした。体勢の崩れはない。切っ先を返して、斬りつけてきたゆいを逆手上がりに斬り上げた。
     斬象剣が一閃、声を発する間もなく、一両筒を持ったままのゆいの右腕が宙に舞った。右腕を失った痛みを感じるより早く、突き出された剛剣が乳房の上に刺さる。ずぶりと嫌な音を立てて、斬象剣が胸にめり込んだ。
    「はう」
    と、ゆいは激痛に息を詰まらせた。
     胸に突き刺さったままの斬象剣を見下ろした。剣が皮膚を裂いてゆっくり引き抜かれていくのが見えた。剣先が抜けたとたん、抑えられていた鮮血が飛沫となって体外に噴き出した。膝が崩れ落ちたが、ゆいは耐えて上体を起こしている。
     断ち切られた右腕が一両筒を握りしめたまま落ちてきた。ゆいはうつろな目で剣を握ったままの自分の片腕を眺めた。主を失ってもいまなお腕はびくりびくりと筋肉の収縮を繰り返している。茫然から我に返ると、すぐに耐えがたい痛みがやってきた。
     ゆいはとっさに傷口を左手で押さえ、消えかかる命の灯を守ろうとするかのような叫びを上げた。
    「いやああぁぁぁぁあっ」
     生を受けてこのかた、一度も発したことのない絶叫がこだまし、林に満ち溢れた。
     やがて絶望の叫びもかすれていき、すべてが止まった凍りついた時のなかを、泳ぐように立ちあがった。ふらりふらりおぼつかない足取りであてどもなく一歩、二歩うろつくと、ゆっくり前のめりに崩れ落ちていった。
    「け、けんの す け さ」
     嘆きと喘ぎが入り混じった言葉の迸りは身体を離れて、しばし宙をさまよった。
    「やったか」
    「てこずらせおって」
     赤く染まったゆいの背に一片、二片と力を失った藤の花びらが落ちてきた。忍びたちは間を測りながら円陣を狭めていく。采女は悠然として動かない。斬象剣はまだ赤い血を雑草の上に滴り落していた。
    「ふん、うぬらの腕ではこの女を討ち取れなかったであろう。ひとり残らず蛆虫の餌になっていたろうよ」
    「味方が見ても斬象剣には身震いをしてしまいますな」
    「こちらの犠牲が多すぎましたな」
    「確かに采女殿の言うとおりだ。ざっと二十名は倒されておるわ」
     強度の緊張が解けたのか忍びたちが口ぐちに喋り始めた。
    「しかも刑部様まで」
    「さすがは霧隠の娘よな」
     突如、
    「う」
    「ぐっ」
    「ぎゃう」
     ゆいを遠巻きにしていた三十人の忍者のうち、ふたりが続けざまに倒れた。
    「な、何奴?」
     つむじ風と化した黒いうねりが円陣の中に踊りこみ、接触した忍びが声もなく続けて倒れた。収まった風の中に鬼気迫る表情の剣之介がいた。
    「ゆい、遅かったか」
    「おお、真田剣之介」
     采女が声をあげた。数人が鉄扇に腹を突かれてうずくまっている。剣之介はわき目も降らずゆいの傍に寄る。全身が自らの血と返り血に染まっていた。肌に触れると、息遣いがしだいしだいに弱くなっていくのが判った。
     守れなかった。
     憤りは剣之介の心を鷲掴みにした。
    「鉢屋采女。剣を交えずとも、歴然とした力量差は判っていたはず。なにゆえ無益な殺生をしたのだ」
    「ぬしらに恨みはとんとないが、これも因果な勤めのうちでな。真田の一族は皆殺し、宝を奪えと玄蕃殿がやかましいのだ。この娘を斬らねば、きさまも逃げてばかりでおれと対決しまい。なにより、おれはきさまの剣が見たいのだ」
    「許さぬ」
     剣之介は一腰の刀に手を欠けた。
    「ふはは、返り討ちにしてくれるわ。女が残した一両筒を使え。憤怒の情を込めて斬りつけてこい。おれの斬象剣が圧し折ってくれるわ」
    「なにを言う。采女殿、一両筒は無傷で玄蕃様に渡さねば」
    「うるさい、黙っていろ」
     采女は申し入れを撥ねのけると、隣に迫った内膳の首を一気に斬り落とした。目を剥いた首は転がり続け、内膳は二の句を告げず絶命した。
    柳生忍びがたじろいで後じさりした。采女はいっさい構わず、剣之介に斬象剣を向けた。
    「采女、人を斬りたくなったのは初めてだ」
    「それを待っていた」
     いったんは乱れた円陣が狭まってきた。日射しが円陣の人影を大地に刻む。数は三十を超えていた。円陣がさらに迫りくると、ザアーッっと手裏剣の雨が降った。采女はなにくわぬ顔で数歩飛び下がる。
    「うわ」
    「ぐふっ」
     ふたりの忍びを倒し、胡蝶が舞い降りた。磁扇でひとりの首を折る。円陣は崩れざわめくなか、剣之介と采女は互いを見据えたまま不動の姿勢で相対していた。胡蝶は柳生忍軍を一手に受けて、ひとりふたりと倒していく。
    伏したゆいの両脇にふたつの影が降り立った。剣之介は振り返らず声をかけた。
    「佐助、胡蝶、忍びどもは任せた。六郎、ゆいを頼む」
     
     剣之介はゆいの無念がこもった一両筒を構え、采女と対峙した。剣之介と采女、放たれた殺気に森中が騒がしい。鴉といわず雀といわず、あらゆる鳥が盲滅法に頭上を飛び交い、当てもなく去っていった。剣抜弩張の気がぶつかる。
     この男に奇策は通じない。まともに斬り合って、よくて相討ちの形しか浮かんで来ない。とすれば勝機をどこに求める。あらゆる仕掛けを反芻しながら、剣之介は中段。
    「どうした? 動けぬか?」
     采女の尋常ならざる眼光が剣之介を射る。構えは上段。
    「では、こちらが斬り込んでやろう」
     斬象剣が唸りを上げて押し寄せてくる。剣之介、これを真っ向受け止める。五合目のうち合いで、鍔迫り合いに入った。ぎしりと重い手応えが剣之介に伝わってきた。斬象剣が過去に吸ってきた血塗られた魂が怨念の塊となって一両筒を飲み込もうとする。一両筒が耐える。
    「よくぞ受けた。だがいつまで凌げるかな」
     両者はいったん左右に分かれた。また四合、五合と剣を交える。言葉通り斬象剣にはまだ余力があった。対する剣之介はじりじり気圧されていく。
     剣之介が下段、中断と構えを変化させる。十度の切り結びを過ぎても、采女に疲れは見えない。いつの間にか木立を抜け、まだ生え揃っていない雑草に囲われた原へと足を踏み入れていた。剣之介は息を整えた。力技に長けた采女相手に長丁場は不利になる。
    「愉快だぞ、真田の」
     采女には勝ち負けという概念がない。果てしない虚無があるだけだ。生死の狭間に身を置いてこそ五体に止めどない修羅の力が漲ってくる男だった。背負っている因果などない。
     剣之介はどうか。
     しがらみなどないと思っていた。いや、思いたかっただけだ。心の底では真田の家とも一両筒に隠された宝とも生涯無縁でいたいと願っていた。
     常に命を狙われていながら、自らに嘯いた。
    ―気ままに生きればいいのだ。
     心に甘さがあった。逃避でしかなかった。
     しかし秘密を知り、ゆいを奪われ、言いようのない悲憤が溢れ出している。心は散り散りに乱れていた。わたしの無力で人が死んでいく。斬象剣は今後も無数の魂を貪っていくだろう。そして……そして……
     いけない。これでは負ける。
    「ふふ、五臓がびりびりしてきたわ。もそっとおれを喜ばせてくれんか」
     使うか。
     だが使って見切られては、そこで勝負が決してしまう。
    「しゃあぁぁっ」
     采女が来る。斬象剣が迫る。
     なぜか剣之介の脳裏に仔猫を斬った師の言葉が思い出された。
    ―この死は無駄になるまいよ。
     振り下ろされた斬象剣が一両筒を僅かながらも跳ね飛ばし、剣之介の肘を痺れさせた。腰が揺れる。
    「死ねいぃ」
     二の太刀が剣之介の顔面に落ちてくる。この剣はかわせない。
     ぐきいぃいーん。
     合歓の響きが原の隅々に渡った。斬象剣が額にめり込む間際で剣之介は受けた。左差しの刀を左手で抜いて迫りくる斬象剣に当てると、遅れながらも右手の一両筒を負けずに添えた。二本の刀を斜め十字にして、斬象剣を押し止めたのだった。
    「おお、貴様、二刀流か」
    「いかにも」
    「それでは師は?」
    「宮本武蔵」
     はからずも大刀二本での立ち合いとなった。
    「左手のほうが強いな。うねは左利きであったか?」
    「いまはどちらも遣う。遣いこなしてこその二刀流」
     采女の眼光がますます冴えわたる。
    「楽しみが増えたわい。ぬしを斬ればおれが天下一か」
     また二合、三合と打ち合う。攻める斬象剣、守る一両筒、受ける無銘刀。両者引かずに火花を散らして打ち合った。ときに睨み合い、先手を打つために足さG履きを変化させた。三剣が絡み合い、鍔迫り合いが続いた。唸りを生じて振り回される采女の斬象剣を、剣之介は剣舞と見まがう振る舞いでかわしていく。
     死闘は連綿と続いた。が、刃を合わせて四半刻が過ぎると、剣之介の疲弊は隠しようもない。噴き出した汗が湯気となって双肩を覆っていた。一方の采女もさすがに息を荒くしていた。
    「はは、そろそろ勝負をつけてやるわ」
     渾身の斬象剣が采女の虚無から放たれた。振り下ろされた斬象剣の刀紋には百人を下らぬ怨念の血潮が浮かび上がった。まばゆいきらめきを発する一両筒が受けて耐える。
     剣之介は無心になりきれない。佐助、六郎、十蔵、鎌之助、武蔵、伊織……。想いが走馬灯のように脳裏を駆け巡った。そして……ゆい。剣之介を守り、生かし、慈しんだすべての人々の面影が過る。
     わたしには守るべきものがある。生涯、守らなければならないものがある。そう思った。
     振り降ろされる斬象剣を一両筒で切り上げる。人技を超えた斬象剣の速さにわずかながら立ち遅れた。
    「死ね」
     ばきり。一両筒の柄を握る剣之介の右手首に衝撃が走った。
     重なる激突に耐えきれず、切っ先が破損し、上身の中心に亀裂が入った。
     しまった。
    「もらった」
     采女の剛声が響く。勁烈なうなりを上げた斬象剣が剣之介の顔面を襲う。反射的に一両筒で迎え受ける。再度の攻めに一両筒が悲鳴を上げた。
    「死ねい」
    上段から斬象剣が振り下ろされた。剣之介は息を飲んだ。采女の勝ち誇った面持ちが剣之介の目路を覆い尽くした。
    斬られる。
     はずだった。
     が、振り下ろされる斬象剣の圧がふいに緩み、剣之介は無銘刀でなんなく受けた。
     なぜだ。
     采女はと見ると、破断した一両筒の半身が眉間を深々と捉えていた。脳を貫通した刃先は後頭部に突き抜けていた。
    「うおおおおお」
    采女は断末魔の咆哮を放った。衝撃を受けた両眼は滞った血が噴きだまり、総身は激しく痙攣を起こしていた。折れてなお主を守った一両筒で斬象剣を撥ねあげると、剣之介は無銘刀で横一文字に采女の胴を抜き払った。
     
    結の急
    「柳生玄蕃殿とお見受けいたす」
     鯉に餌を与えていた玄葉はゆっくりと身を起こした。この隠れ屋敷には昨晩の騒動で数名の従者しかいなかった。
    「何者か?」
     端正に刈り込んだ生垣の裏手に白面の若者が立っていた。
    「真田大助が一子、真田剣之介」
    「真田の小倅か」
     玄蕃は顔をゆがめた。
    「警護の者はどうした?」
    「この屋敷にはわたしとお主のふたりしかいない」
     かつてならしたとはいえ、刃物など身に着けていない玄蕃には抗うすべはない。
    「豊家の姫の敵取らせていただく」
    「豊臣の姫だと?」
    「冥土の土産というやつだが、教えてやろう。お前が刑部らに追わせていた一両筒のまことの持ち主は霧隠ゆいという名の娘であり、なにを隠そうまごうことなき秀頼公の血を引くお方様だ」
     玄蕃の顔に驚愕が広まった。
    「おお、知らなんだ。天秀尼のほかにも秀頼に娘があったのか。豊臣の種がまだ残っていたと?」
     剣之介は語りながら鯉口を切った。
    「お主の腕を落とした霧隠才蔵の娘として育っていたのだ」
    「もしや?」
    「そうだ。一両筒に秘められた宝とは、まさしくゆい姫様の御身を指し示していたのだ」
     剣之介は刀を抜いた。
    「おお、斬象剣ではないか」
    「まさしく。この刀でお主を討ったのちは、溶かして鋼に戻すつもりだ」
     玄蕃は斬象剣に目を奪われたままだ。
    「お主がその剣を持って現れたは采女以下柳生忍軍が敗れたということじゃな」
     剣之介のたち振る舞いには不思議と殺気が感じられない。
    「刑部も含めおしなべて討ち取った。玄蕃、あの世で秀頼公に存分に詫びるがよい」
    「そうか」
     玄蕃はがっくりと頭を垂らした。鯉が池面を跳ねた。
     
     未明に投げ込まれた首に土井利勝邸は騒然となった。松平伊豆守と服部半蔵は前夜に呼ばれ、利勝の屋敷に詰めていた。一昨日市中を騒がせた裏柳生の処遇を話合うためであった。
    「柳生玄蕃が首でござる」
     半蔵が即座に鑑定した。
     利勝は伊豆守と縁側に現れて、玄蕃であった首と庭に居座する半蔵に応対した。
    「裁定を出す前にすでに首が届いてしまったか」
     利勝はふんと鼻を鳴らして、髪の乱れのない首を眺めた。
     傍にこれが、と用人が利勝に一枚の書き置きを渡した。
     
     御家安康
     追手無用
     
     一読すると、利勝は伊豆守に渡した。
    「さすがは真田の末裔よのう。幕府と対等のつもりかの」
    「あるいは。それがしには真田にとっての本来の相手はご公儀ではなくて徳川家だったと思えまする」
     伊豆守は利勝の独り言ともつかない問いに即座に答えた。
    「上様の寝所に投げ込まれぬだけましか」
    「土井様が柳生にご指示されていたと判ったためではありませぬか?」
    「そうかもしれぬ。黒幕のわしのもとに送りつけおったか。裏柳生は終いじゃな」
    「は、玄蕃がこのありさまですと、ほぼ壊滅かと」
    「さもあろう。首が物語っておるわ」
    利勝が半蔵に頷いた。
    「ところで半蔵、そちの娘は気の毒をした。柳生の暴走を止められなかったわしの不覚よ」
    「滅相もない。もったいないお言葉にございます。もしや真田は一両筒の秘密を解いたのでしょうか?」
    「解いたにせよ、解けぬにせよ。もはや公儀の手には入らんだろう。へたに突けばこちらも火傷では済まんと首が申しておるわ」
     利勝は首筋に扇子を当ててとんとんと叩いてみせた。
    「一介の浪人者が見事でございましたな」
     味方の首検分をしながら、敵を褒めるとは。口にした伊豆守は苦々しく笑った。
    「聞けば剣の達人というではないか、半蔵」
     利勝も剣之介の名は口にしない。
    「は、切り口を見ますと、玄蕃は一刀のもとに絶命したと思われます。裏柳生門下こぞって討たれておりますれば、もはや徳川方で勝負になるのは柳生十兵衛殿のみかと」
    「数年後には今武蔵と呼ばれてもおかしくない剣の腕前と宮本伊織が申しておりました」
     伊豆守も半蔵の言を裏づけた。
    「一両筒を盗んでいった真田の女忍びもさすがの腕前であった。忍びとはいえ類まれな美しい女性であったわ」
     それは……取り戻しただけだ。
     伊豆守はその言葉を飲み込んだ。ゆいの顔が脳裏に浮かんだ。続いて剣之介の笑顔も。
    「惜しいことをいたしました」
     伊豆守の言に利勝が怪訝な表情をした。
    「なにがじゃ?」
     伊豆守は言葉を濁した。
    「いえ、たいしたことでは……」
     あの男ならば、良い対局相手となったはずだ。
    「数手先を読まれました」
    真田にあらざれば陽の当たる舞台に出られたろうに。
    「こういう宿運でなければ一度会ってみたかったのう。そう考えると惜しかったのは一両筒ではなく、素浪人のほうか」
     利勝は深いため息をつきつ、玄蕃の首に背を向けた。
    「では土井様、此度の件……」
    「任す」
     利勝は振り返らず、座敷へと上がっていった。
    「半蔵、こののちいっさい真田剣之介なる者にかまってはならぬ」
     伊豆守が厳命した。
    「ははっ」
     
     駕籠を囲んで歩く四人の男たちが峠に差し掛かった。足取りは軽く速い。早くも赤い葉に衣替えしている樹木が散見される。眼下には緑の平野と点在する村々が見えた。四人とも武家の身なりだが、うち三人が老人だった。ために若い武士の華やかさがひときわ目立つ。駕籠かきは中間らしき髭面の大男と小柄な男だった。ともに額にうっすらと汗している。
     どこかの藩士が家人を従えての旅と見えなくもない。行きかう旅人も一行に格別気に留めるふうもなく通り過ぎていく。
    「一両筒は残念でしたな」
    「じい、まだ気にしているのか」
     真田剣之介の声色は明るい。
    「折れても一両すら出てきませなんだな」
    「六郎、あれは立派に役目を果たしたではないか」
    「そうかもしれませんな。さてさて若、ここらで一息入れませんか?」
     望月六郎は扇子で襟元を仰ぐと苦し気な顔をしてみせる。
    「六郎殿、三里ほど行くと茶屋がありますぞ」
     髭の駕籠かきが言った。
    「こりゃ、晋之丞。そんな大事を。早く言わんか。わしは腹が減っとるんじゃ。湯漬けか団子はあるのか?」 
     駕籠をかいていたのは由利晋之丞と猿飛小玄太だった。
    「お主は朝飯を腹いっぱい食うたと言っておったろう」
     筧十蔵があきれ顔で六郎を見る。
    「人は朝、昼、晩と飯を食う。わしゃあの、こんだけの歳になったのでのう、もはや食い物以外に興味はないんじゃ」
    「よし、ひと休みしよう。六郎はいましばらく腹をすかしておれ。小玄太、駕籠を下ろせ」
     剣之介が指示を出した。
    「おお、虹だ」
     遠方の山々を見ていた猿飛佐助が言葉の先を指差した。
    「こんな美しい虹は久方ぶりだ」
    「わたしも里を出て以来です」
     小玄太が感嘆の声を発すると、六郎が顎をしゃくりあげてたしなめた。
    「小玄太はまだ修行が足りん。わしはあれ以上に大きな虹や雲を飽きるほど見ておるわい。しかし虹では腹いっぱいにならん」
    「六郎殿、修行すれば見られるのですか?」
    「わしくらいになると夢のなかでさえ修行ができるわい」
    「毎晩、大腹餅に乗って空を飛ぶ夢を見ているのではないか、六郎」
     剣之介の揶揄に一同は六郎を含めてひとしきり笑った。
    「どれ、わたしにも見せて」
     地面に下ろした駕籠から涼やかな声が鳴り、町娘姿の佳人が顔を覗かせた。島田に差したかんざしが陽に映えてきらきらと厳かに光る。
    「まあ、きれい」
     花のかんばせが満開にほころんだ。剣之介が数年来、見たくても見られなかった、心の奥底になんら負荷もない透き通った笑顔だった。
     この物腰、そして品格。やはり血は争えないものだったか。秀頼公に託された一両筒は忘れ形見の命を救った。もし折れていなければ采女が勝っていたかもしれぬ。若が采女に討たれていれば、六郎があの場で瀕死の姫に医術を施す意味はなかったはずだ。宝刀はまさに身を賭して、若きふたりの命を守ったのだ。佐助にはそう思われてならなかった。
    「佐助、一両筒は研いで短刀に仕立てよ。ゆいの守り刀くらいにはなるだろう」
     剣之介は佐助の心を見透かしたように命じた。
    「心得申した」
     霧隠ゆいは駕籠を出るときに少しばかり足元をふらつかせた。江戸市中での激闘から半年近くを経てもいまだ傷は快癒していない。生死をさまようこと数日、命の火が消えなかったのはよほどの奇跡といっていい。すかさず剣之介が手を貸した。
     ゆいは眉丘に左手をかざして遠目越しのまなざしを作った。右袖がひらひらと風になびいている。瞳を半輪の虹へ向けたまま、剣之介の気配をうなじに感じて微笑んだ。
    ゆいは振り向いて、
    「さすがの剣之介様にもあれは斬れないでしょう」
    「斬れるさ、ゆい」 
     剣之介は穏やかな目つきで、ゆいの身を包み込んだ。
    「ほんとう?」
    「ほかでもない、お前の頼みならな」
     そう言うと右差しの帯刀を抜き、すくっと天へと差し伸べた。つかの間、風が凪ぐ。相変わらずの竹光だ。
     剣之介は麓の集落を越えた先の山麓にかかる七色の光彩に向かって竹光を振った。峠の空気がびゅうーんと音を立てて風を巻き起こした。
     一行は確かに見た。
     虹が天と地に分かれ、両断されるさまを。
     
                                了



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