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味噌汁くらい、知っていると思ってた

    味噌汁くらい、自分の好みはわかっていると思っていた。

    五十年以上生きていれば、食べ物の好き嫌いなんて、もう大方わかっている。

    これは好き、これは苦手。何度試しても馴染めなかったもの。昔は気にも留めなかったのに、いつの間にか好きになったもの。

    長い時間をかけて積み重なった「好き」は、自分という人間の輪郭を少しずつ作っていく。
    だから、もう大きくは変わらないと思っていた。

    味噌汁も、そのひとつだった。



    私は愛知県で育った。味噌との距離が近い土地だ。定食屋では赤だしが当たり前に出てくるし、寒くなれば味噌煮込みうどんの湯気を見かける。味噌おでんやどて煮も、わざわざ名物と思わずに食べてきた。

    ただ、実家の味噌汁は母が静岡出身だったので、合わせ味噌を使っていた。それでも私にとって味噌汁というのは、赤茶色で少し塩気があり、飲むと身体がしゃんとするものだった。

    朝なら気持ちが整い、夜なら一日がきちんと終わる。そんなふうに、生活の近くにある味だった。

    白味噌の存在は知っていた。でもどんな風に料理に使うかは知らない、くらいの認識だった。

    スーパーにも置いてあるけれど、たいてい味噌売り場の端にひとつ並んでいるだけ。気にしなければそこにあることすら気が付かなかった。

    愛知県で暮らしていると、白味噌はどこか「日常の味噌」とは別のものだった。

    その白味噌を買ったのは、必要に迫られたからだった。ある料理を作るために白味噌が必要だった。とはいえ、レシピで使ったのは、隠し味のために、ほんのスプーン一杯ほど。気づけば、ほとんど手つかずの白味噌が冷蔵庫に残っていた。

    普段からほぼ毎日自炊をしているけれど、一人暮らしをしていると、こういうことがよくある。

    「新しい料理を作ってみたい」と思って調味料を買う。でも、使う量は驚くほど少なく残りを持て余す。そして冷蔵庫の奥へ押しやられ、存在を忘れた頃に賞味期限が近づいている。

    今まで何度、使いかけの調味料を見送ってきただろう。白味噌も、その仲間入りをするはずだった。

    けれど、白味噌をその運命にしてしまうのは、なんとなく惜しかった。せっかく買ったのだから、味噌汁にしてみるか。幸い、フリーズドライの具はある。そのくらいの、ほとんど消極的な理由だった。

    正直、期待はしていなかった。だって味噌汁なのだから。五十年以上飲んできて、いまさら驚くような違いがあるとも思わなかった。ところが、ひと口飲んだ瞬間、「あれ?」と箸が止まった。

    知っている味ではなかった。

    いつもの味噌汁のように塩気が輪郭を作るのではなく、口の中に丸い甘さがふわっと広がる。身体にじんわり染みて、疲れがほどけていくような味だった。

    味噌汁なのに甘くても違和感がない。こっくりしているのに、喉が渇くような濃さもない。

    しばらく黙って飲んだ。

    台所も部屋もいつも通りなのに、自分の中の「味噌汁」の基準だけが、静かに少しずれた気がした。

    それなりに生きてきたのに、こんな味を知らなかったのか。飲み終えたあともしばらく、そんなことを考えていた。

    次に味噌汁を作るときも、白味噌を使った。冷蔵庫には、いつもの合わせ味噌も残っていた。長年使ってきた味だし、不満があったわけでもない。なのに、味噌汁を作ろうと思うと、頭に浮かぶのは白味噌の方だった。

    何十年も飲み続けてきた味が、たった一杯の味噌汁に、こんなにもあっさり“いつもの席”を譲ってしまうとは思わなかった。



    もっと若い頃なら、「最近こういう気分なのかな」で終わっていたかもしれない。

    けれど、この年齢になると少し事情が違う。

    気づけば、自分の好みは、もう大方できあがっているような気がしていた。これは好き。これは苦手。ここへ行くと疲れる。これは落ち着く。

    そんなふうに、いつの間にか「自分はこういう人間だ」が増えていた。

    食べ物もそうだ。パクチーは、何度か挑戦したことがある。好きになれたら、なんだか世界が広がりそうな気がしたのだ。エスニック料理の店でも、もっと気軽にいろいろ頼める気がしたし、「パクチー抜いてください」と申し訳なく言わずに済む。けれど、駄目だった。

    口に入れた瞬間に、いつまでも残りつづけるどこか青臭い、葉っぱを噛んでいるような香りが、どうしても馴染めなかった。「もう一回食べたら変わるかもしれない」と思って何度か試したけれど、身体の方が静かに「これは違う」と判断している感じがした。

    今となっては、合わないものを無理に好きになろうとは思わない。そういうものもある、と受け入れるようになった。

    若い頃ほど、「苦手を克服しよう」と頑張らなくなった。だからこそ、今回の白味噌の件で、少しだけ考えが揺らいだ。本当に試した上で、「自分には合わない」を決めていただろうか。

    それとも、「たぶん好きじゃない」と、最初から静かに棚へ戻していただけなのだろうか。

    考えてみれば、味噌汁というのは少し不思議な食べ物だ。ラーメンのように外へ食べに行くものでもないし、旅先でわざわざ探すものでもない。家で、ごく当たり前に飲むもの。だからこそ、案外、自分の家の味しか知らない。

    気づかなかったけれど、ずっと母の味噌汁を、当たり前のものとして飲んできたのかもしれない。

    五十年以上、「味噌汁とはこういうもの」と思って生きてきたのに、その前提が、スーパーの味噌売り場の端に置いてあった味噌ひとつで、静かに揺らいだのだから、人の好みというのは案外あてにならない。



    一方で、年齢を重ねてから好きになったものもある。若い頃、神社仏閣にはほとんど興味がなかった。旅行といえば買い物や食べ歩きの方が楽しかったし、正直に言えば、「古い建物を見て何が楽しいのだろう」と思っていた。

    けれど今は違う。

    大きな御神木を見たり、境内の静かな空気の中にいると、不思議と気持ちが落ち着く。昔の自分が見たら、「急にどうした」と思う気がする。

    けれど不思議なのは、それまでまったく興味のなかったものを、ある日突然好きになることだ。しかも、たいてい予告がない。いつの間にか、「あれ、好きかもしれない」となっている。今回、そのきっかけは白味噌だった。

    持て余していたから、使い切っておしまいにするつもりだったのに、気づけば二つ目を買っていた。最近では味噌売り場で、見慣れない白味噌を探してしまっている。

    少し前なら、「どうせ好みじゃない」と、きっと手にも取らなかった。思えば最近、「自分はこういう人間だから」が、少し増えすぎていたのかもしれない。

    派手な服は似合わない。新しい場所に行っても疲れるだけ。知らない食べ物は、たぶん口に合わない。

    そんなふうに、試す前から、自分に向いているものと向いていないものを、無意識に仕分けるようになっていたかもしれない。若い頃なら、似合わない服を買っても「やっぱり違ったか」と笑えたし、口に合わない食べ物も話の種になった。

    けれど今は、時間もお金も気力も限りがあるから、つい「外さない方」を選ぶ。それも悪いことではない。ただ、それが「自分を知っている」というより、「失敗したくない」気持ちになっていたとしたら、少しもったいない気もする。

    自分を知ることと、自分を決めつけることは、似ているようで少し違うのかもしれない。本当に向いているかどうかは、案外、試してみるまでわからない。たった一杯の味噌汁で、何十年も当たり前だった好みが、静かに場所を譲ることだってあるのだから。

    今だって、違ったときに「やっぱり違ったか」と笑っても遅くない。

    五十を過ぎても、まだ知らない味がある。だったら、まだ知らない自分も、少しくらい残っているのかもしれない。

    気づけば何度目かになる白味噌を冷蔵庫から取り出し、晩ごはんの味噌汁を作りながら思う。

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    定番になった白味噌の味噌汁
     
     
    築52年。110号室の住人。

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