
宝くじ売場の女
宝くじ売場の女
三つの売場、血の連鎖
こいうた
あ ら す じ
宝くじ売場に十三年。川島明子は「全部同じです」と言い続けてきた。
しかし三つの売場の裏側で、七十年以上にわたって蠢いてきた組織がある。紅蓮会、白梟組、黒算派。三つの配置師グループは、数字を操るのではなく、人間の視線と無意識を利用して、当選帯を特定の客へ誘導する。そしてその「誘導」のために、彼らは人の死を計算に入れていた。
年末ジャンボ発売の七十二時間前、三つの売場が同時に動き始めた。
商店街の売場担当・志田禎子が死んだ。娘の霧島利恵が母の跡を継ぎ、残されたノートを読み解く。地下街の仲園晶子が失踪する。川島明子は、十三年間の「均す」行為が、誰かの意思によって動かされていたという恐怖に直面する。
「染まる」客たちは次第に売場から逃げられなくなる。三組の対立は血を呼ぶ。そして、三組のすべてが知らない「四組目」の存在が、暗闇の中で棚を動かし続ける。
答えは、七十年前にある。しかし誰もその答えを、まだ知らない。
ま え が き
あなたの街にも、宝くじ売場はあるはずだ。
何年も、同じ人が立っている売場が。
考えたことはあるか。その人がそこに立ち続ける理由を。
仕事だから、と思うだろう。しかし仕事というものは、ときに人を変える。変えながら、変えられていることを、本人が気づかない形で。
この物語は、そういう話だ。
三つの売場。三組の組織。そしてその中心で、静かに、しかし確実に、棚を「均す」者たちの話。
読み終えた後、あなたが宝くじを買う気になるかどうかは、わからない。
ただ、くじを選ぶとき、自分の指がどこに向かっているか、一度だけ確認してほしい。
こいうた
目 次
序 章 三つの売場、夜の始まり
第一章 染まる客たち
第二章 紅蓮会の影
第三章 白梟組の計算
第四章 黒算派の牙
第五章 死の配置
第六章 娘の継承
第七章 三つ巴の血戦
第八章 引き寄せられる者たち
第九章 深淵への入口
第十章 最後の配置
第十一章 名前の消えた女たち
第十二章 ノートの余白
第十三章 夜中の七人
第十四章 棚に飲まれた男
終 章 謎は残る
あとがき
序 章 三つの売場、夜の始まり
三つの売場は、同じ夜に動き始めた。
それを知っていたのは、おそらく三組の人間だけだ。いや、正確には四組目がいた。しかし四組目は、自分たちが「四組目」であることに最後まで気づかなかった。
年末ジャンボの発売開始まで、七十二時間。
駅前の宝くじ売場では、川島明子が閉店後の棚を整えていた。数センチ、また数センチ。いつもの作業だ。誰にも見えない場所で、誰のためでもなく、ただ「均す」ためだけに手を動かす。十三年間、毎夜繰り返してきた。彼女は自分の手が嫌いだった。理由はわからなかった。ただ、鏡の前で自分の指を見るたびに、どこか遠い場所から見下ろしているような感覚を覚えた。
商店街のアーケード内にある第二売場では、志田禎子が今夜も一人で残業していた。五十三歳。二十年のキャリア。宝くじ売場という世界の、いちばん暗い部分を誰よりも長く見てきた女だ。彼女のノートは今、三冊目を終わりかけていた。最初の二冊は普通の業務日誌だった。しかし三冊目の後半は、同僚の誰にも見せられなかった。
地下街の第三売場では、仲園晶子がカウンターの端に座り、何かを書いていた。三十九歳。五年前からここにいる。彼女だけが、今夜起きることをうっすらと予感していた。だから今夜、彼女は自分の名前を書いた。住所も書いた。家族の名前も書いた。それを封筒に入れて、カウンターの引き出しの底に貼り付けた。「もし私が消えたら、開けてください」と、表書きに書いて。
三つの売場は、同じ夜に動き始めた。
そして一人は、翌朝、帰らなかった。
─ 七十二時間後、一人が帰らなかった ─
第一章 染まる客たち
川島明子が最初に「おかしい」と感じたのは、三年前のことだ。
それは小さな違和感だった。閉店後、棚のくじを整える作業を終えて帰宅した翌朝、売場に来ると、くじの束が微妙にずれていた。自分が昨夜並べた場所から、ほんの数ミリ。誰かに触れられた形跡でも、風が入った形跡でも、なかった。ただずれていた。
最初は気のせいだと思った。二度目も気のせいだと思った。しかし三度目に、彼女は気づいた。
ずれ方が、常に同じ方向だ。
左端の列は必ず三ミリ前に出る。右端の列は二センチ奥に引かれる。そして中央の列は、誰も触れていないのに、完璧な直線を描く。
明子は七日間、観察を続けた。そして確認した。夜に自分が整えた配置は、翌朝には必ず、わずかに「修正」されている。
誰かが夜中に来ている。
しかし売場の防犯カメラには、何も映っていなかった。
いや、一度だけ、映っていたことがある。それは夜中の三時十七分のことだった。明子が映像を確認したとき、画面の中で誰かが棚の前に立っていた。女だと思った。背が低く、白っぽいものを羽織っていた。しかし顔が映らなかった。カメラの死角をよく知っているかのように、その人物は常にカメラに背を向けていた。
映像は四分三十秒間続いた。その間、人物はただ棚の前に立っていた。動かなかった。棚を見ていた。
そして突然、映像が乱れた。ブロックノイズが全画面を覆い、二秒後に映像が戻ったとき、売場には誰もいなかった。
明子は警備会社に連絡した。カメラの不具合はなかった。録画データの欠損もなかった。ただ、四分三十秒間、何かが映っており、二秒後に消えていた。警備員は「映像の処理ミスでしょう」と言った。
明子はそれ以上追及しなかった。ただ、翌朝から、棚を整える作業の後、彼女は手を洗うようになった。何度も洗った。石鹸で、お湯で、念入りに。洗わないと眠れなかった。
しかし洗っても、手の感覚は消えなかった。棚の木目の感触が、指の腹に残り続けた。まるで棚が自分の手に何かを転写したかのように。
何かが、始まっていた。
常連客の変化に気づいたのは、売場の接客担当・豊嶋さだだった。六十一歳。もともとパートとして雇われ、今では実質的に売場の顔になっている、おっとりとした女だ。
「明子さん、最近、ちょっと気になる方がいるんですよね」
豊嶋がそう言ったのは、十一月の半ばだった。
「何が?」
「あの、いつもの方々……諸田さんとか、常平さんとか、植島さんたちですよ。最近、来る時間がおかしくて」
常連客は確かに変化していた。
諸田政治、五十四歳。会社員。毎週木曜の昼休みに来るのが習慣だった。ところが先月から、木曜の昼休みに加えて、月曜の朝と金曜の夕方にも来るようになった。「また来てしまいました」と、本人も不思議そうに笑った。
常平智也、四十二歳。飲食業。月に一度のペースだったのが、今では週に三度来る。「なんかここが落ち着くんですよね」と言った。
植島空、二十六歳。フリーター。一度も当たったことがないのに、毎日来る。理由を聞いてもはっきりしない。「呼ばれてる気がして」と笑いながら言った。
明子は記録した。来店頻度、滞在時間、購入枚数。グラフにすると、奇妙なパターンが浮かんだ。
常連客は、売場の配置が「修正」された翌日に、決まって足を向けていた。
偶然ではなかった。
彼らは何かに引き寄せられていた。そして彼ら自身は、それを「なんとなく」としか説明できなかった。
そのうちの一人、野寺隼人という三十五歳の男が、ある日、売場の外で倒れているのを発見された。夜中の二時だった。
野寺は「夢遊病みたいなもので」と照れくさそうに説明した。しかし目が、笑っていなかった。
「来なければいけない気がして」と野寺は言った。「夢の中で、誰かが呼んでいるんです。来い、来い、って。いつも同じ声なんですけど、顔が見えなくて……」
豊嶋はその話を聞いた翌日、何も言わずに辞表を出した。
明子は引き止めなかった。引き止める言葉が、見つからなかった。
第二章 紅蓮会の影
紅蓮会の歴史は、宝くじ制度そのものの歴史と重なっている。
創始者の名前は記録に残っていない。ただ、昭和二十年代の末期、まだ宝くじが「富くじ」と呼ばれていた頃から、この組織は存在していたとされる。
星崎宗二朗、七十四歳。紅蓮会の現会長。駅前の老舗旅館を表の顔として、長年にわたって宝くじ流通業界の裏を牛耳ってきた男だ。
「配置師というものはな」と星崎は言った。「数字を操るのではない。空間を操るのだ」
彼が語る「配置師の哲学」は、一見すると荒唐無稽だ。
しかし星崎の右腕、柴園幾太郎がまとめた資料を見ると、それが荒唐無稽でないことがわかる。
宝くじの当選確率は、理論上は均等だ。しかし売場ごとの当選実績を長期集計すると、特定の売場の特定の棚から出る当選率が、統計的に有意な差を持って高い。それは「気のせい」ではない。
柴園は言った。「人間の視線には重さがある。多くの視線が集まった場所は、微細なエネルギーが蓄積する。私たちはそのエネルギーの流れを読み、当選帯が自然に特定の位置に滞留するよう、空間を整える」
明子が聞いたら、笑っただろう。いや、笑えなかったかもしれない。なぜなら彼女は十三年間、その「整える」作業を、自分でも理由を知らないまま毎夜続けてきたからだ。
紅蓮会のやり方は、緻密だった。
売場に「普通の客」として送り込む人間は、綿密に選ばれた。年齢、職業、来店習慣、購買行動。すべてが計算されていた。
草島欣次郎、六十二歳。退職後の好々爺に見えるが、実は紅蓮会の古参構成員で、駅前売場に二十年以上通い続けてきた「埋め込み客」だ。彼は毎週、同じ時間に来店し、同じ位置に立ち、同じ枚数を買う。その行動パターンが、他の客の視線誘導になる。
「習慣という名の呪文だよ」と草島は仲間内で言った。「俺が毎週同じ場所に立つから、他の客もあそこを見る。視線が集まれば、エネルギーが集まる。エネルギーが集まれば、当選帯が引き寄せられる」
しかし紅蓮会には、もう一つの「哲学」があった。それは外部の人間には絶対に語られない部分だ。
「当選を意図的に集中させるためには、等価の損失が必要だ」
星崎が若い頃に師匠から教わったこの言葉の意味を、明子は三年後まで知らなかった。
「等価の損失」とは何か。
星崎は言った。「くじで大きな幸運を動かすためには、その幸運と同じ重さの不幸を、どこかに落とさなければならない」
そして落とされた不幸は、人間に落ちる。
売場に引き寄せられ、やがて来ることを止められなくなった客たちに。
蟻ヶ崎芳蔵、六十七歳。紅蓮会の筆頭古老。
彼の部屋には、壁一面にノートが貼り付けられていた。過去三十年分の当選データだ。売場ごと、位置ごと、時期ごとに色分けされたグラフ。一般人が見れば研究者の資料だと思うだろう。しかし蟻ヶ崎はその中に、別のものを読んでいた。
「ここに死者が出た年を印をつけると」と蟻ヶ崎は言った。「決まって、その翌年は大きな当選が出る」
彼の前に並んでいた若者、有本遼太はそれを初めて聞いたとき、冗談だと思った。
しかし蟻ヶ崎は笑っていなかった。
「死というのはエネルギーの解放だ。三十年分のデータが示している。否定できる者がいるなら、やってみろ」
有本は帰宅した後、その夜眠れなかった。眠れなかったのは恐怖ではない。グラフの中に確かに、そのパターンが見えていたからだ。
データは嘘をつかない。
しかし蟻ヶ崎が「死者が出た」と言ったとき、それは自然死を指していたのか、それとも。
有本は朝になってから電話をかけた。「先生、去年の駅前のことを教えてください。あの年、誰かが……」
電話の向こうで沈黙があった。
そして蟻ヶ崎は言った。「お前はまだ知らなくていい」
電話は切れた。
有本の手が、微かに震えていた。そして彼はそのとき気づいた。震えているのは恐怖ではなく、ある種の期待に似た感情だということに。
それが染まるということだった。
─ データは嘘をつかない。しかしデータが示すものを、人は直視できない ─
第三章 白梟組の計算
白梟組は、紅蓮会とは根本的に異なるアプローチを取っていた。
創設者、松浪勇二、五十一歳。もともとは統計学を専攻した大学院生だった。二十代の終わりに宝くじの当選確率に関する論文を書き、その研究の過程で「配置師」の存在を知った。
「迷信とオカルトで動いている組織に、科学を持ち込む」
それが松浪の動機だった。
白梟組の手法は、可視化されたデータと心理学的誘導の組み合わせだ。売場の陳列位置、照明の角度、カウンターの高さ、接客員の立ち位置。これらすべてを最適化して、特定の列への視線誘導を最大化する。
「人間は思ったより単純だ」と松浪は言った。「左から右、外側から内側。視線には必ず流れがある。その流れに逆らわず、むしろ強化することで、客が自然に『あの列から選ぶ』ように誘導できる」
木戸智史、四十八歳。白梟組の実務担当。商店街の第二売場のすぐ近くにある文具店を経営しながら、長年にわたって志田禎子の行動を監視してきた。
「志田さんは厄介だ」と木戸は言った。「紅蓮会に二十年いた。あの人の配置は、俺たちの計算を狂わせる」
「どういう意味だ?」と、部下の彦阪尚之が聞いた。
木戸は答えた。「俺たちが最適化した配置を、あの人は一晩で無効化する。しかも本人は何もしていない。ただ棚の前に立つだけで、流れが変わるんだ」
彦阪は信じなかった。
しかし翌日、木戸が設置した測定機器のデータを見て、黙った。
志田禎子が売場に立った後、照明の反射パターンが変化していた。カメラで見ると、彼女は何もしていない。棚を調整した形跡もない。しかし空間の「光の重心」が、彼女の入場前と後では明確にずれていた。
「あの人には何かがある」と木戸は言った。「二十年で培われた何かが。それが俺たちの計算を邪魔している」
彦阪は帰り道、街灯の下で立ち止まった。ポケットに入っていたくじを取り出して、番号を見た。そしてそのくじを、アスファルトに落とした。
なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。
ただ落とさなければならない気がして、落とした。
それが白梟組員の「染まり方」だった。理屈で説明しようとしながら、気づけば理屈でない場所に引き込まれていく。
志木野雄二、四十五歳。白梟組の情報収集担当。
彼が三年かけて調べたのは、紅蓮会と黒算派の活動記録だけではなかった。売場周辺で「不自然な死」があった事例の記録だ。
過去二十年間で、三つの売場の周辺三百メートル以内で、説明のつかない形で死亡または失踪した人物は、合計十七名だった。
全員、長期の常連客だった。
志木野はそのリストを松浪に見せた。
松浪は三分間、無言で眺めた後、言った。「捨てろ」
「しかし、これは——」
「捨てろと言った」
松浪の目には、恐怖ではなく、別の何かがあった。志木野はそれを「覚悟」と呼ぶことにした。
しかし後に志木野は気づく。あのとき松浪の目にあったのは、覚悟ではなかった。
知っていた、ということだ。
松浪はすでに知っていた。そして白梟組もまた、その「死の連鎖」から無縁ではなかった。
志木野はリストを捨てなかった。自宅の床下に隠した。
その夜から、彼は毎晩、床下から音がするような気がした。
ドン、ドン、という音。規則的だった。まるで誰かが、下から床を叩いているような。
第四章 黒算派の牙
黒算派は、三組の中で最も若く、最も危険だった。
設立から七年。前身は宝くじ転売グループだったが、三年前に「配置師」の手法を習得し、組織を改編した。
野平信之助、五十八歳。黒算派の総帥。元ヤクザの周辺人物。
「理屈はいらない。結果がすべてだ」
これが黒算派の哲学だった。
黒算派は、紅蓮会や白梟組と異なり、「自然な誘導」にこだわらなかった。客を選び、場合によっては操る。売場担当員を懐柔し、時には脅す。
そして黒算派には、他の二組が持たない「秘技」があった。
礒村時次郎、六十三歳。黒算派の秘術担当。
彼がやることを、組員たちは「落とし込み」と呼んでいた。
ターゲットとなる客に近づき、特定の動作を繰り返す。例えば、ターゲットの視線が届く範囲でくじを選ぶ際、毎回必ず右手の薬指でくじの左端に触れる。それを七回繰り返す。
「七回で足りるか?」と若い組員が聞いたことがある。
礒村は答えた。「人間の無意識に何かを刻み込むには、七回か十三回が必要だ。七回でターゲットの脳が模倣し始める。十三回で定着する」
「それは科学か?」
礒村は笑った。「科学だとも。ただし、教科書には載っていない科学だ」
実際、礒村の「落とし込み」を受けた客は、その後、礒村と同じ動作を無意識に繰り返すようになった。くじの左端を右手の薬指で触れる。七回。
そしてその動作を自分でするようになった後、彼らは「引き寄せられる」ようになった。売場に、何度でも。
秋月克弥、二十八歳。黒算派の末端構成員。三ヶ月前から地下街の第三売場周辺を担当していた。
彼は仲園晶子を監視していた。
「あの女は何かを知っている」と秋月は上に報告した。「毎晩ノートに何かを書いている。それを見たい」
返事は一週間後に来た。
「見るな。近づくな。あの女は別の問題がある」
「別の問題?」
返事は来なかった。
秋月は独断で動いた。ある夜、閉店後の地下街で、仲園晶子の書いていたものを盗み見た。
それから秋月は、三日間、職場に来なかった。
四日目に連絡が取れた。声が変わっていた。
「あのノート、あれは……俺、やっぱり近づかなければよかった」
「何が書いてあった?」
長い沈黙。
「名前です。大量の名前。死んだ人たちの名前。俺の名前も……あった」
─ リストに載った者は、もう戻らない ─
第五章 死の配置
志田禎子が死んだのは、十一月二十三日の夜だった。
アーケードの売場から徒歩三分の場所にある、駐車場の隅で発見された。心臓発作とされた。既往症もあった。五十三歳の女が夜中に倒れても、不自然ではなかった。
しかし霧島利恵は信じなかった。
母の死体を見たとき、最初に気づいたのは手だった。
志田禎子の両手は、胸の上で組まれていた。救急隊員がそう整えたと言った。しかし、その手の指の形が、利恵には見覚えがあった。
くじを棚に並べるときの手の形。
母が仕事をしているとき、何度も見た手の動き。
その形のまま、固まっていた。
「何を並べようとしていたの」と利恵はつぶやいた。誰にも聞こえないように。
葬儀の後、利恵は売場に行った。二十年間、母が毎日過ごした場所だ。
売場の担当者は利恵を迎え入れ、引き継ぎの説明をした。来週から、利恵が後を継ぐことになっていた。
「お母様は、大事なものを残しておられましたよ」
渡されたのは、ノートだった。三冊。
最初のページを開いた瞬間、利恵は何かが自分の胸を締め付けるような感覚を覚えた。
母の筆跡だった。しかし最初の一冊目と、三冊目では、字の形がまったく違った。
一冊目は端正な教科書のような字だった。業務記録、来客数、売上。日付と数字が几帳面に並んでいた。
二冊目は徐々に乱れていた。文字が大きくなり、間隔が不規則になった。文章の内容も、業務記録から「感想」に変わっていった。「今日もあの人が来た」「夜中に声がする気がする」「棚の前に立つと頭が痛くなる」
三冊目は、最初のページだけ文章だった。
「私は今、自分の手が誰の手かわからなくなっています」
その一文の後は、漢字二文字の繰り返しだった
ページをめくると、同じだった。次のページも。その次も。三冊目の半分以上が、その二文字で埋まっていた。
ある頁で、突然、別の文章が割り込んでいた。
「利恵へ。読むな。捨てろ。逃げろ」
それだけだった。その後は、また「配置」の繰り返しに戻っていた。
利恵は三冊のノートを閉じた。長い時間、テーブルに手を置いて座っていた。
やがて彼女は立ち上がり、ノートをバッグに入れた。
逃げなかった。
翌日から、彼女は売場に立った。
仲園晶子が失踪したのは、志田禎子が死んだ同じ夜のことだった。
地下街の売場は翌朝、開かなかった。晶子は連絡なく現れなかった。部屋を訪ねると、室内に持ち物が残っていた。財布も、スマートフォンも。
警察は「家出人」として処理した。
しかし晶子の部屋で唯一、消えていたものがあった。
カウンターに毎夜持ち帰るノートだけが、なかった。
地下街売場の引き継ぎ担当として現れたのは、見知らぬ女性だった。名前は芹澤聡子と名乗った。四十代。物静かで、余計なことを一切しゃべらなかった。
ただ一つ、隣の売場の担当者が気になることを言った。
「昨日の朝、芹澤さんと晶子さんがすれ違っているのを見た気がして。でも今日聞いたら、晶子さんが失踪したのは一昨日の夜らしくて。じゃああれは……誰だったんだろう」
その話は、誰にも深掘りされなかった。
地下街の売場は翌日から通常通り営業を始めた。芹澤は無口だったが、仕事は丁寧だった。ただ、売場に立つ彼女を横から見ると、首の後ろに古い傷跡があることに気づいた人が何人かいた。
それを指摘した人間は、しかし全員が、翌日には「気のせいだった」と言った。
─ 配置配置配置配置配置配置配置配置配置配置配置 ─
第六章 娘の継承
霧島利恵、三十一歳。
母が死に、自分が売場に立つまでの三日間、彼女は眠れなかった。眠ろうとすると、目を閉じた瞬間に声が聞こえた。
「来い」
女の声だった。老いた女の声で、しかし妙に若々しいリズムがあった。
利恵は最初、母の声だと思った。しかしそれは違った。知らない声だった。それでも聞き覚えがあるような気がした。それがどこで聞いたものかは、思い出せなかった。
売場に初めて立った朝、利恵は変なことに気づいた。
棚の前に立ったとき、自分の手が自然に動いていた。
くじを一束取り、並べる。次の束を取り、並べる。指が勝手に動いて、特定の間隔で、特定の角度に、くじを配置していく。
習ったわけではなかった。母から教わったわけでも、マニュアルに書いてあったわけでもなかった。
それは身体が知っていた。
利恵は手を止めた。自分が何をしていたかを確認した。棚には、くじが整然と並んでいた。端から端まで、ミリ単位の精度で。
「……おかしい」
つぶやいた声が、売場の静寂に吸い込まれた。
その日の夕方、利恵は常連客のリストを確認した。母が作ったものだ。名前、来店頻度、購買傾向、備考。几帳面な業務記録だった。しかし一部の名前に、赤ペンで小さく印がついていた。
印のついた名前を数えると、十二人いた。
うち、九人の名前の横には「済」という文字があった。
残り三人には「注意」と書かれていた。
利恵は「済」が何を意味するのか、しばらく考えた。そして考えることをやめた。
翌朝、十二人のうちの一人、庄野公祐という四十二歳の男が来店した。
彼は売場に入ってきたとき、利恵を見て、動きを止めた。
「……志田さんの、娘さんですか」
「そうです」
庄野は何か言おうとした。口が開いた。しかし言葉が出なかった。代わりに、彼の目から涙がこぼれた。
「ここには、もう来ない方がいい気がしていたんです」と庄野は言った。「でも来てしまう。毎回、来ないで帰ろうと思うんです。でも足が向いてしまう。志田さんがいたから、まだよかった。でも今は……」
「今は?」
庄野は首を振った。
「怖い。ここが怖い。でも来たい。怖いのに来たい。それがまた怖い」
利恵はその日、売場を早めに閉めた。
帰り道、母のノートを開いた。「注意」の三人のリストを見た。
庄野公祐は、そのリストにはなかった。
第七章 三つ巴の血戦
三組の激突は、誰も予期していない形で始まった。
十一月三十日の深夜、商店街の売場前で、男が二人、殴り合っていた。
紅蓮会の草島欣次郎と、白梟組の木戸智史だった。
二人は普段、互いを知らないふりをしていた。しかし志田禎子が死んだことで、均衡が崩れた。第二売場の「権利」をどちらが引き継ぐか、暗黙の争いが表面化した。
警備員が来たとき、草島は立てなかった。
木戸は走って逃げた。
草島は病院に運ばれた。そこで彼は、医師に奇妙なことを言った。
「もう終わりだ。棚が……棚が俺を捨てた」
医師は「打撲による錯乱」と記録した。
その翌日、黒算派の秋月克弥が行方不明になった。
職場からも連絡が取れなくなった三日後、秋月のアパートに仲間が行ってみると、部屋は荒らされていなかった。ただ、壁一面に何かが貼り付けられていた。
宝くじだった。
百枚以上、全部外れくじが、壁にびっしりと貼られていた。そしてその上から、黒のマジックで何かが書かれていた。
名前だった。
秋月の仲間が読んでみると、それは確かに人名だった。しかし誰の名前かわからなかった。古風な名前が多く、明治か大正時代の人物のようだった。
数えると、百四十七名分あった。
そして百四十七名の最後に、秋月克弥の名前があった。
仲間は警察に届けなかった。その代わり、黒算派の上層部に報告した。
礒村時次郎はそれを聞いたとき、一言だけ言った。
「リストに載った者は、もう戻らない」
「どういう意味ですか」と若い組員が聞いた。
礒村は答えなかった。ただ窓の外を見て、言った。
「ここ三十年で、このリストに名前が載った者を全員調べてみろ。お前が知っている者は一人もいないはずだ」
三組の熾烈な争いの背後で、もう一つの動きがあった。
それに気づいたのは、霧島利恵だった。
売場に立って二週間目のある日、利恵は一人の客が毎日来ることに気づいた。
米嶋涙香。三十代前半に見える女性。地味な服。目立たない。しかし利恵は彼女の視線が、他の客と違うことに気づいた。
他の客はくじを見ていた。米嶋は利恵を見ていた。
「何か?」とある日、利恵は直接声をかけた。
米嶋は少し驚いた顔をして、それからゆっくりと首を振った。
「何でもないです。……ただ」
「ただ?」
「手、よく見てください。あなたの手を」
利恵は自分の手を見た。
くじの束を持ったまま、指が棚の上で静止していた。
「……何が?」
「七番目の位置。右から七番目の列に置こうとしているでしょう。毎回、必ず七番目」
利恵は棚を見た。確かに、自分が置こうとしていた場所は右から七番目の列だった。
「なぜわかるんですか」
米嶋は答える前に、周りを見た。売場には他の客がいた。米嶋は声を落として言った。
「私も昔、ここで働いていたから」
「昔……いつ?」
米嶋は微笑んだ。しかしその微笑みは、目まで届いていなかった。
「あなたのお母さんよりも、もっと前のことです」
利恵は凍りついた。
この売場の歴史は、十五年前からしかない。
「もっと前」は、あり得ない。
米嶋はくじを一枚買って、帰った。
利恵は彼女が出て行った後、右から七番目の列のくじを全部取り出して、別の場所に移した。
翌日、また別の場所に置いた。三日間、毎回場所を変えた。
四日目、利恵は気づいた。場所を変えようとするたびに、自分の手が右から七番目に向かっていることに。
一度だけでなく、何度も。
意識して別の場所に向かわせても、指が曲がって、気づけば七番目の列に触れていた。
夢の中でも、同じだった。棚の前に立って、七番目の列に手を伸ばす。それが毎夜の夢になった。
─ 百四十七名。その最後に、秋月克弥の名前があった ─
第八章 引き寄せられる者たち
川島明子は、十三年間、「全部同じです」と言い続けてきた。
お客様に「どこのが当たりやすいですか」と聞かれるたびに、そう答えた。笑顔で、丁寧に、嘘をついた。
しかし明子は知っていた。
三年前から知っていた。自分が毎夜「均す」作業が、「全部同じ」を意図的に作り出すためのものでないことを。
均しているのではなかった。誘導していた。
誰かが「そこに視線を集めろ」と命じていた。
命じていたのは、誰なのか。
明子は自分に問い続けた。しかし答えが出ないまま、三年が過ぎた。
その間、売場の常連客の一人、永崎光夫という四十七歳の男が入院した。「精神的な疲弊」という診断だった。入院前の最後の来店日、永崎は売場で三時間立っていた。何も買わずに、ただ棚を眺めていた。目を離さなかった。
「帰ろうとすると、誰かに引っ張られる気がして」と永崎は後に語った。「売場から出られないんです。足が動かない。次第に手も動かなくなって、最後は視線も動かせなくなった。棚しか見えなくなった。あそこに、何かがいるんです」
「何かって、何ですか」
「わかりません。でも確実に、何かが棚の中にいる。そしてそれは私に、ずっと来てほしいと思っている」
永崎は退院後、売場には来なかった。
代わりに、別の客が来るようになった。
来た客は必ず、永崎がよく立っていた場所に立った。まるでそこに磁石があるように、全員が同じ場所を選んだ。
明子は一ヶ月間、その場所のくじを販売リストから外した。別の場所に移した。
しかし客は、くじのない棚の前に立った。
空の棚の前に立って、何かを見ていた。
常連の変化が最も劇的だったのは、植島空だった。
二十六歳。フリーター。彼は売場に毎日来るようになって八ヶ月目に、初めてくじを当てた。
三千円だった。
その後、植島は来店頻度が減った。一週間に一度。二週間に一度。そして来なくなった。
代わりに、植島の知人という男が来た。伊吹雷太と名乗った。二十代後半。植島から「ここのくじがよく当たる」と聞いたと言った。
明子は何かが引っかかったが、うまく言語化できなかった。
伊吹は毎日来た。二週間後、伊吹の知人だという細貝智哉が来た。その二週間後、細貝の知人の森園義隆が来た。
いつも同じパターンだった。毎日来て、「知人に聞いた」という別の人物を連れてくる。
明子はある夜、気づいた。
植島が最後に来た日。彼が当たりくじを換金した時刻と、植島の「消える」タイミングが一致している。
当てた客は、消える。
そして消えた客の「後継者」が現れる。
次に当たるのは、後継者だ。そして後継者が当たると、また消える。
明子は記録を調べた。過去十三年分の来店記録と当選記録を照合した。
パターンが浮かんだ。一致率、九十一パーセント。
九十一パーセントの確率で、「当たった客」は翌月に来なくなっていた。
残り九パーセントは、来なくなる前に亡くなっていた。
明子は記録を閉じた。長い時間をかけて、ゆっくりと閉じた。
そして気づいた。
自分がこの売場に来た最初の年、前任者の女性が「体調不良で退職した」と言われていた。その前任者のことを、明子はこれまで気にしたことがなかった。
十三年間、気にしたことがなかった。
なぜ気にしなかったのか。
それが不思議だと思う感覚が、なぜ今まで浮かばなかったのか。
明子はその夜、前任者の名前を思い出そうとした。しかし思い出せなかった。
十三年間、同じ場所に立った前任者の名前が、まったく思い出せなかった。
第九章 深淵への入口
仲園晶子は生きていた。
しかしそれを知っているのは、おそらく彼女自身だけだった。
失踪の夜、晶子は地下街の売場を出た後、どこへ行ったか自分でも説明できなかった。ただ「行かなければならない場所がある」という確信があり、足が動いた。
地下街の奥の奥、普段は立ち入れない業務用通路を抜けた先に、古い倉庫があった。
その倉庫の中に、棚があった。
宝くじ売場と同じ形の棚が、暗がりの中に置かれていた。
くじは入っていなかった。棚は空だった。しかし棚は、かつてくじが入っていた形跡があった。埃の積もり方が、くじのサイズに合わせて凹んでいた。
晶子は棚の前に立った。立たなければならない気がした。
そしてそのとき、棚の奥から、声が聞こえた。
女の声だった。
「ようこそ」
晶子は声のする方向を見た。棚の向こうに、人がいた。暗くて顔は見えなかった。ただ輪郭だけがあった。
「あなたは何人目ですか」と晶子は聞いた。
声は笑った。
「数えたことがない。百人以上。でも、みんな同じように立っていた。あなたと同じように」
「ここには何があるんですか」
「終わりです」と声は言った。「あなたが探していたものの、終わり」
晶子は一歩前に出た。
棚が、その瞬間、きしんだ音を立てた。
晶子のノートは、その後、地下街の清掃員が拾った。
業務用通路の床に落ちていた。
清掃員はそれを売場に届けた。新しい担当の芹澤聡子が受け取った。
芹澤はノートを受け取り、一度だけ中を確認して、引き出しにしまった。
「ありがとうございます」と芹澤は言った。
その顔を、清掃員は後から思い出せなかった。声は覚えていた。しかし顔が、まったく浮かばなかった。
霧島利恵は、米嶋涙香に会いに行った。
売場に残っていた連絡先を調べ、電話をかけ、「話がしたい」と告げた。
米嶋は黙って聞いていた後、住所を教えた。
会いに行くと、米嶋の家は古いアパートだった。室内には棚があった。宝くじ売場のものと同じ形の棚が、部屋の中央に置かれていた。そこに本が並んでいた。本だけが。
「棚が……」と利恵は言いかけた。
「手放せなくて」と米嶋は先に言った。「おかしいと思います。でも捨てると、手が痛くなるんですよね。だから置いている」
利恵は向かいに座った。
「あなたはいつここで働いていたんですか」
「十五年前じゃないです。もっと前。ずっと前」
米嶋の年齢を利恵は三十代前半だと思っていた。しかし今、改めて顔を見ると、わからなかった。三十代にも見えるし、四十代にも見えた。
「あなたは……いくつなんですか」
米嶋は笑った。
「数えなくなりました。売場を離れてから」
「離れた理由は?」
「手が止まらなくなったから。夜中も、寝ていても、手が動いていた。棚の前で、くじを並べる動きを繰り返していた。夫に言われました。寝ていても手が動いている、と。病院に行ったら、異常なしと言われた」
「それは……」
「でも手は動き続けた。一年間。止まらなかった。やがて止まったとき、私は売場を辞めていた。止まったのは、辞めてからではなくて、辞める前に止まった。なぜ止まったか、今でもわからない。ただ、ある朝目が覚めたら、手が静かだった。そしてその日、辞表を出した」
米嶋は手を見た。
「今でも、たまに動く夢を見ます。棚の前で、くじを七番目の列に置く夢」
利恵は息を呑んだ。
「……七番目ですか」
米嶋は利恵を見た。
「あなたも、そうでしょう?」
利恵は帰り道、自分の手を見続けた。電車の中で、手を膝に置き、じっと見た。
動かなかった。
しかし、指の先に、微かな振動を感じた。
何かを探している振動だ。棚を求めている振動だ。
利恵は拳を握った。爪が掌に食い込んだ。
振動は、止まらなかった。
─ 振動は、止まらなかった ─
第十章 最後の配置
三組の代理戦争は、十二月の第一週に最初の死者を出した。
松浪勇二の部下、庄野公祐が崖から落ちた。
山の中ではなかった。都市部の、普通の高台だった。フェンスの向こうに落ちるには、乗り越えなければならなかった。
目撃者の証言によると、庄野は誰かに押されたわけではなかった。ただ、フェンスに近づき、乗り越え、落ちた。
「止まれたはずです」と目撃者は言った。「途中で何度も足が止まっていた。でも、また動いた。まるで、そうしなければならない、という顔をして」
庄野は一命を取り留めた。しかし下半身の感覚が戻らなかった。
病院で庄野は言った。「行かなければならなかった。そこに配置されていた」
「配置?」と見舞いに来た同僚が聞いた。
「あの場所に、私が配置されていた。誰かが、ずっと前から。逆らえなかった」
同僚は警察に報告しなかった。代わりに、松浪に電話した。
松浪は静かに聞いていた。そして言った。
「彼は運がよかった。七番目だったか?」
「……何ですか」
「配置の番号が七番目だったかどうかを聞いている」
同僚は意味が分からなかった。しかし庄野のそばに戻ったとき、病室の窓から日光が差し込んでいた。その光の中で、庄野の手が動いていた。
床の上で、指が何かを撫でていた。
棚の木目を撫でるように。
紅蓮会と黒算派の直接衝突は、年末ジャンボの発売前日に起きた。
駅前の売場の裏手、駐車場で、星崎宗二朗と野平信之助が対峙した。
周囲に組員が集まった。数では黒算派が上回っていた。しかし星崎は一人で立っていた。
「七十年だ」と星崎は言った。「この売場は七十年前から俺たちのものだ」
「老人の嘘は聞き飽きた」と野平は言った。「引退しろ」
「私が引退したらどうなるか、知っているか」
野平は鼻で笑った。
「俺たちが管理する。それだけだ」
星崎は目を閉じた。それから言った。
「売場に人を置くことができる。しかし売場を「管理」することはできない。わかるか、この違いが」
「何の話だ」
「売場は、自分で動く」
沈黙が落ちた。
「七十年前、最初の配置師は言った。売場とは器だ。器に何を入れるかを決めるのは、人間だ。しかし器そのものは、人間が作ったものではない。器は、最初からそこにあった」
野平は何か言おうとした。しかしそのとき、駐車場の照明が一斉に消えた。
全員が動きを止めた。
暗闇の中で、誰かの手が、誰かに触れた。
悲鳴が上がった。
照明が戻ったとき、駐車場には誰もいなかった。
星崎だけが、一人で立っていた。
その周囲の地面に、宝くじが散らばっていた。全部外れくじだった。
星崎は地面を見回した後、低い声で言った。
「始まったな」
第十一章 名前の消えた女たち
川島明子が、過去を掘り起こす気になったのは、十一月の末のことだった。
前任者の名前を思い出せない、という事実が、それ以来、頭の片隅に刺さって抜けなかった。
会社の人事記録を調べることは簡単だった。総務担当に頼んで、売場の過去の担当者名簿を見せてもらった。
そこには確かに名前があった。
川上ひとみ。川島明子の前任者。在職期間、十二年。退職理由、体調不良。
明子は「川上ひとみ」という名前を見て、何かが胸のあたりで反応した。しかし何かはわからなかった。知っているような気もした。知らないような気もした。
さらに古い記録を調べた。
川上の前は、河野さよ子だった。在職期間、十一年。退職理由、一身上の都合。
河野の前は、川崎みどりだった。在職期間、十三年。退職理由、体調不良。
明子は三人の名前を紙に書き並べた。
川崎みどり。河野さよ子。川上ひとみ。川島明子。
全員の名前が「か」で始まっていた。それは偶然かもしれなかった。しかし偶然ではないかもしれなかった。
全員の在職期間が十一年から十三年だった。それも偶然かもしれなかった。
しかし全員の退職理由が「体調不良」か「一身上の都合」だったことは、偶然には思えなかった。
明子は川崎みどりという名前を検索した。
見つからなかった。
河野さよ子も見つからなかった。
川上ひとみも、その後の情報が一切なかった。退職後の痕跡が、SNSにも、住民記録の公開情報にも、何もなかった。
明子は三人の写真を探した。
売場の記念写真が会社に保管されているはずだった。担当者に頼むと、奥から古いアルバムを持ってきた。
開くと、売場の前で撮られた写真が並んでいた。年代順に。
明子の前の写真が、川上ひとみのものだった。
そこには確かに女性が写っていた。しかし顔が、判別できなかった。露出の問題ではなかった。ピントも合っていた。ただ、顔の部分だけが、何かぼやけているように見えた。
「プリンターの不具合だと思いますよ」と担当者は言った。
しかし河野さよ子の写真も、川崎みどりの写真も、同じだった。全員、顔だけがぼやけていた。
明子はアルバムを閉じた。
自分の写真を、誰かに撮ってもらいたいと思った。今すぐ。
そして撮った写真の自分の顔を確認したいと思った。
しかしスマートフォンを取り出した後、それをポケットに戻した。
確認するのが、怖かった。
自分の顔が、見えるかどうかを確認するのが。
─ 確認するのが怖かった。自分の顔が、見えるかどうかを確認するのが ─
第十二章 ノートの余白
霧島利恵は母のノートを、もう一度最初から読み直した。
一冊目は純粋な業務記録だと思っていた。しかし今度は、行間を読んだ。
一冊目の途中、ある記述が目に止まった。
「今日、常連の草島さんがいつもと違う位置に立った。第四列ではなく第七列。なぜ気になるのかわからないが、第七列に誰かが立つと、私の手が止まる」
続けて読む。
「木戸さんという常連ができた。ほぼ毎日来る。笑顔が多い。しかし笑顔が毎回まったく同じで、気になる」
一冊目の終わりに近い部分。
「夢に出てきた女がいた。白い服を着て、棚の前に立っていた。顔が見えなかった。その女が棚に触れた後、棚から声がした。聞き取れなかった。ただ、その声は知っている声だった。誰の声か、わからない」
二冊目に入ると、文章が変わった。日付が増えた。具体的な感情が増えた。
「今日、一般客の庄野さんが来た。来るたびに様子が変わっている。最初は普通の客だったのに、今では閉店ギリギリに来て、棚の前で長い時間立っている。何かを聞いているような顔をしている」
「夜中に目が覚めた。暗闇の中で手が動いていた。棚を整える動きで。起きているのに、手が動いていた。怖いとは思わなかった。それが、また怖かった」
「二十年になった。この売場に。私は何をしているのだろう。誰のために並べているのだろう。自分のため、ではない。会社のため、でもない。ならば、誰のため?」
そして三冊目。
最初のページの一文。「私は今、自分の手が誰の手かわからなくなっています」
その下に、続きがあった。利恵は最初の読み込みで見逃していた。なぜなら、それは普通の文字ではなかった。
ページの下端、余白に、鉛筆で小さく書かれていた。
「手が誰の手かわからない、というのは比喩ではない。この手を動かしているのは私ではないと、今は確信している。しかし動きを止めることができない。医師に行った。異常なし。神社に行った。何も言われなかった。ただ帰り際、神主が言った。あなたの手の動きは、あなた自身のものではない、と。なぜわかるのか聞いた。神主は答えなかった。ただ、もう売場には行くな、と言った。しかし次の朝、私はまた売場に立っていた。足が向いていた。意識して止めることができなかった」
利恵は余白の文章を三度読んだ。
そして自分の手を見た。
棚を整えたい、という衝動が、指の先に熱として感じられた。
熱は、穏やかだった。怒りでも恐怖でもなかった。
それが最も怖かった。
第十三章 夜中の七人
年末ジャンボ発売の前夜、地下街の第三売場の周辺で、奇妙なことが起きた。
地下街は午前零時で閉まる。しかし閉店後の清掃員が、売場の前に人が立っているのを見た。
一人ではなかった。七人いた。
全員が売場の方向を向いて、ガラスの引き戸の前に整列していた。
清掃員が声をかけると、誰も振り向かなかった。
再度声をかけると、一番前の人物が、ゆっくりと振り向いた。
三十代の男性だった。目は開いていた。しかし焦点が合っていなかった。
「ここは……」と男は言った。「ここは開いていますか」
「閉まっています。夜中の一時ですよ」と清掃員は答えた。
男は閉まっている引き戸を見た。しばらく見た。そして、また前を向いた。
清掃員は警備員を呼んだ。警備員が来たとき、七人は全員、まだ立っていた。
誰一人、動いていなかった。
「解散してください」と警備員が言うと、七人はゆっくりと動き始めた。しかし解散ではなかった。全員が、ガラスの引き戸の方向に一歩、近づいた。
警備員は急いで間に入った。
七人は止まった。
「家に帰ってください」
七人は再びゆっくりと振り向いた。そして歩き始めた。それぞれの方向に。
警備員は一人に声をかけた。「大丈夫ですか」
その人物は答えた。「来なければいけない気がして」
それだけ言って、歩いて行った。
警備員は報告書に「不審者七名、解散させた」と書いた。
しかし翌朝、清掃の仕上げに来た別の清掃員が、閉まっている引き戸の前のタイルに、何かがあることに気づいた。
引き戸の前の床に、七つの足跡があった。
七人が立っていた位置が、タイルに染みとして残っていた。
染みは水ではなかった。透明だったが、水より粘度が高く、蒸発しなかった。
業者が清掃しても、染みは薄くなったが消えなかった。
現在も、三つのうち一つの染みが、引き戸の前に残っている。
芹澤聡子は毎朝、出勤するたびにその染みを踏む。
踏まないと、気持ちが悪いらしい。
そう言っていたという話を、近くの別の店の担当者から聞いた人間が、後に語っている。
─ 芹澤は毎朝その染みを踏む。踏まないと気持ちが悪いらしい ─
第十四章 棚に飲まれた男
礒村時次郎が最後に見たものについて、語ったことがある人間が一人いる。
黒算派の末端構成員、茅原利充、二十三歳。
礒村が消えた夜、茅原は礒村と同じビルにいた。
「あの夜、礒村さんが電話してきた。なんか、来てくれって。急に。声がおかしかったから行ったんです」
「どんな声だったんですか」
「……棚の軋む音みたいな声でした。人の声なんですけど、木の音みたいな質感があって。それ以上は、うまく言えない」
「行ってみると?」
茅原は少し黙った。それから言った。
「礒村さんが棚の前に立っていた。でも棚なんて、そのビルにはなかったはずで。あとで確認したら、確かになかった。でも俺には棚が見えていた。礒村さんの目の前に、宝くじ売場みたいな棚が浮かんで見えた」
「それから?」
「礒村さんが棚に触れた。手を伸ばして。そしたら……棚の方が、礒村さんの手を掴んだ」
「棚が?」
「棚が。木の棚が、礒村さんの手を引っ張った。礒村さんが棚に吸い込まれるみたいに見えた。叫ぼうとしたけど、声が出なかった。そしてそのまま……棚も礒村さんも、消えた」
茅原は自分の手を見た。
「それから俺、手がおかしくなった。夜中に動く。宝くじ売場の前を通ると、手が引かれる感覚がする。寄りたくない。でも手が行きたがっている」
「今は?」
茅原は答えなかった。代わりに、ポケットから宝くじを一枚取り出した。
「これ、今日売場で買った。買いたくなかったけど。足が向いて、手が伸びて、気づいたら買っていた」
彼は宝くじをテーブルに置いた。
「開けるのが、怖い」
しばらく沈黙があった。
「なぜ怖いんですか」
茅原はそのくじを見ながら、言った。
「当たるのが、怖い。当たった後、どうなるかが、怖い。礒村さんが「当たった客は消える」みたいなことを言っていたから。でも怖いのに、また来てしまう。来てしまうのが、一番怖い」
終 章 謎は残る
十二月二十一日。年末ジャンボ発売初日。
三つの売場は、朝から人だかりだった。
駅前の第一売場で、川島明子は笑顔で接客した。「全部同じです」と答えた。いつも通り。
商店街の第二売場で、霧島利恵は母の残したエプロンを着けて立った。手は動いた。指は棚を知っていた。
地下街の第三売場で、芹澤聡子は無言でくじを並べた。首の後ろの傷跡が、蛍光灯の光に浮かんだ。
正午を過ぎた頃、三つの売場に共通の客が現れた。
老いた女だった。
背が低く、白いコートを着ていた。三つの売場を、正確に一時間ずつ間隔を置いて、順番に訪れた。
女は何も買わなかった。ただ棚の前に立ち、しばらく見てから、立ち去った。
川島明子は女の顔を見ようとしたが、なぜか直視できなかった。視線が逃げた。
霧島利恵は女が立ち去った後、棚を確認した。七番目の列が乱れていた。微妙に、ミリ単位で、前に押し出されていた。
芹澤聡子は女が去ったとき、小さく頭を下げた。まるで知り合いに挨拶するように。
夕方、三つの売場で、今日初めてくじを買った客から、それぞれ一人ずつ当たりが出た。三等だった。三売場すべてで、同じ等級が、同じ時間帯に出た。
確率的にあり得ないことではなかった。
しかし明子は、当たりを確認した後、手が止まることに気づいた。いつもより長く、棚の前で止まった。
手が、棚に何かを伝えていた。
何を伝えているのか、明子にはわからなかった。しかしその手は確かに、棚の木目を通じて、何かと会話していた。
─ それが何なのかを、誰も言葉にしなかった ─
翌日、三つの売場で、奇妙なことが起きた。
明け方の四時、防犯カメラに映像が残っていた。
第一売場では、誰もいない売場の棚の前で、何かが動いていた。具体的な形はなく、ただ「空気が揺れる」ような映像だった。
第二売場では、霧島利恵が明け方に一度目が覚め、何か引き寄せられる感覚があって売場に行くと、棚が完璧に整えられていた。昨日の閉店時には乱れていた列が、誰も触れていないのに、ミリ単位で均されていた。
第三売場では、開店前に芹澤聡子が発見した。カウンターの引き出しの底に貼り付けられていた封筒が、開けられていた。仲園晶子が書いた「もし私が消えたら、開けてください」という手紙が。
中身は取り出されていた。どこに行ったかは、わからなかった。
三組の組織は、年末ジャンボの後、それぞれの動きを変えた。
紅蓮会の星崎宗二朗は、駐車場の夜の出来事の後、表舞台から姿を消した。
白梟組の松浪勇二は、組織を解散した。理由は「採算が合わなくなった」と言った。
黒算派の野平信之助は、一月に別件の容疑で逮捕された。売場への関与は、結局、捜査の対象にならなかった。
川島明子は、今も駅前の売場にいる。
十四年目になった。
彼女は今も、閉店後に棚を整える。毎夜。指が覚えている動きで。
ただ、三年前と変わったことがある。
棚を整えた後、彼女は手を洗わなくなった。
洗う必要がなくなった。棚の木目の感触が、もう怖くなくなった。
馴染んだからだ。
いや、馴染んだのではないかもしれない。
もしかしたら、手の方が、棚に「なった」のかもしれない。
霧島利恵は、今も売場に立っている。
母のノートの三冊目は、今、カウンターの引き出しにある。
最後のページ、「利恵へ。読むな。捨てろ。逃げろ」という文章の下に、利恵は一行を書き加えた。
「私は逃げません」
そして彼女の手は、今日も七番目の列に向かう。
意識して止めると、少しだけ止まる。しかし少し経つと、また動く。
利恵はそれを「呼吸のようなもの」だと思うようにした。止めることはできる。しかし止め続けることはできない。
だから彼女は、その動きに逆らわない。
七番目の列に、毎朝、くじを並べる。
仲園晶子は、見つかっていない。
地下街の第三売場は、現在も営業している。
芹澤聡子は今もそこにいる。
ただ、地下街の業務用通路の奥に、古い倉庫があることを知っている者は、だんだん少なくなっている。
清掃員は変わった。警備員も変わった。前の担当者に話を聞こうとすると、連絡が取れなかった。
倉庫は、今も、あるはずだ。
晶子のノートは、そこにある可能性が高い。
しかし誰も確認していない。
誰も、確認しようとしない。
するべきではないような気がする、という理由で。
一つだけ、確かなことがある。
年末ジャンボのシーズンが近づくたびに、三つの売場では必ず、不思議なことが起きる。
棚が、夜中に整えられる。
客が、来なければいけない気がして、来る。
そして一人か二人が、毎年、売場から遠ざかる。遠ざかり方は様々だ。引越し、体調不良、入院。ときには、もっと別の理由で。
配置師は、三組とも、もう活動していない。
しかし棚は、動く。
誰もいない夜中に、棚は動く。
それが何なのかを、川島明子は十四年間、問い続けた。
答えは出なかった。
いや、正確には、答えは最初からわかっていたのかもしれない。ただ、答えを言葉にしてしまえば、もう後戻りできないような気がして、言わなかっただけだ。
宝くじは、人の望みを形にしたものだ。
望みには、重さがある。
重さは、どこかに落ちる。
三つの売場は、明日も開く。
あなたの近くにも、あるはずだ。
何年も同じ人が立っている、宝くじ売場が。
その人の手を、よく見てほしい。
棚を整えるとき、指がどう動くか。
そして、あなた自身の手を見てほしい。
くじを選ぶとき、あなたの指は、自分の意思で動いているか。
それとも。
あ と が き
この物語を書きながら、何度か手が止まった。
止まるたびに、なぜ止まったのかを考えた。しかし理由がわからなかった。ただ止まった。そしてしばらくすると、また動き始めた。
それは「配置」という行為に似ている、と思った。
書いているのは自分だが、書かせているのは別の何かかもしれない。そう感じることが、この物語を書いている間、何度もあった。
宝くじ売場は、日常の中にある。毎日通り過ぎているかもしれない。いつも同じ人が立っている、あの売場が。
彼女たちの手が、今夜も棚を均す。
その理由を、あなたはどう思うか。
こいうた