
狂った法廷
#エンタメ原作部門
ドラマ、映画化
こいうた
あらすじ
鉛色の空の下、地方裁判所に、市民から選ばれた裁判員たちが集まった。裁くのは、七歳の女児を殺害したとされる、精神障害を抱える四十七歳の男・頼本雄二。彼には二十四年前、婦女暴行殺人による服役歴があり、更生保護施設を退所した後の、再犯だった。
「更生は可能か」「精神障害は免罪符か」「社会は再犯を防げるのか」――重すぎる問いを前に、裁判長・検察官・弁護人の思惑が交錯する。だが、真に狂い始めるのは、裁く側の心だった。
孫娘を守れなかった裁判長。嫉妬に狂う陪席裁判官と、秘密の恋を抱える女性裁判官。孫の死に疑念を抱く老人。精神疾患の弟を支える主婦。妻の育児崩壊に怯える若者。痴漢被害に傷ついた娘。そして――自らの性癖ゆえに被告人に自分を重ねてしまう、補充裁判員。
被告人の壮絶な生育歴が明かされたとき、閉ざされた評議室は、事件を裁く場から、裁く者たち自身の人生を裁く場へと変質する。怒号、涙、沈黙、告白――狂気の密室心理戦の果てに、九人が下す判決とは。
まえがき
本作は、裁判員裁判という「市民が人を裁く」制度を舞台にした、フィクションの群像心理劇です。登場する人物・団体・事件は、すべて架空のものであり、実在のいかなる個人・事件とも関係ありません。
わたしがこの物語で描きたかったのは、「人が人を裁くとは、どういうことか」という、答えの出ない問いです。裁く者は、本当に、裁かれる者より、清らかなのか。その一線を隔てているものは、一体、何なのか。
被告人の犯した罪は、決して赦されるものではありません。奪われた命は、還りません。それでもなお、その男を「極悪人」の一語で片付けて幕を引くことに、わたしは、ためらいを覚えます。暴力は、どこで生まれ、どこで断ち切れたのか。その問いを、どうか、九人の裁く者たちとともに、抱えてみてください。
登場人物
頼本雄二(よりもと・ゆうじ)……本作の被告人。四十七歳。精神障害を抱える。過酷な生育歴を背負う。
吉沢考太郎(よしざわ・こうたろう)……裁判長。六十三歳。〈氷の吉沢〉と呼ばれる老練の裁判官。孫娘を守れなかった過去を持つ。
登坂時次郎(とうさか・ときじろう)……検察官。五十一歳。極刑を求める屈指の論客。だが再婚した妻は、パニック障害の発作で我が子を事故死させた過去を持ち、その贖罪を共に背負う。
高坂壮太郎(たかさか・そうたろう)……弁護人。四十八歳。被告人の「理解」を求め続ける国選弁護人。実兄をブラック企業の長時間労働で精神を病み入院させ、人を壊す社会構造を知る。
近野欣次郎(こんの・きんじろう)……右陪席裁判官。四十四歳。女性裁判官への屈折した恋情と嫉妬を抱える。
神野智子(かんの・ともこ)……左陪席裁判官。三十四歳。別の裁判官との秘密の恋を抱える。
三留信之助(みとめ・しんのすけ)……裁判員。六十七歳。孫の死に、拭えぬ疑念を抱く。
七種清美(さえぐさ・きよみ)……裁判員。五十六歳。精神疾患の弟を、二十年支えてきた主婦。
魚谷悠生(うおたに・ゆうき)……裁判員。二十九歳。妻の育児崩壊に怯える若き会社員。
星宮ルイ(ほしみや・るい)……裁判員。二十六歳。痴漢被害に傷つき、男性への嫌悪を抱える。
真島サナエ(まじま・さなえ)……裁判員。三十四歳。精神科病棟の看護師。日々の献身に疲弊する。
犀川園絵(さいかわ・そのえ)……裁判員。四十八歳。穏やかな主婦だが、家庭に事情を抱える。
植島貞雄(うえしま・さだお)……補充裁判員。三十一歳。誰にも言えぬ性癖を抱え、被告人に自らを重ねる。
道永光夫(みちなが・みつお)……補充裁判員。五十六歳。元受刑者を雇用し、更生を信じてきた経営者。
安斉宏太(あんざい・こうた)……裁判員候補者。四十二歳。妹を暴行被害で失い、不適格を申告する。
平居浩二(ひらい・こうじ)……裁判員候補者。三十九歳。弁護士ゆえに辞退を申し立てる。
目次
プロローグ 鉛の空
第一部 召集
第一章 三者の密室
第二章 裁く者たちの朝
第三章 不適格の告白
第四章 九人の裁く者
第二部 法廷
第五章 開廷
第六章 証人尋問・その一――精神科医
第七章 証人尋問・その二――更生保護施設の職員
第八章 証人尋問・その三――被害者遺族
第九章 被告人質問――ある生育歴
第三部 評議
第十章 論告と弁論
第十一章 評議室――九人の闇
第十二章 崩壊
第十三章 告白の連鎖
第十四章 判決
エピローグ それぞれの法廷
プロローグ 鉛の空
その朝、空は鉛の色をしていた。
地方裁判所の灰色の庁舎は、低く垂れ込めた雲の下で、まるで巨大な墓標のように、静かに佇んでいた。正面玄関の石段を、傘を持った人々が、ひとり、またひとりと、上っていく。彼らの多くは、俯き、口を固く結んでいた。今日から始まる、ある裁判のために、この地の市民から選ばれた、裁判員たちだった。
彼らは、まだ知らない。
これから自分たちが足を踏み入れる法廷が、単に一人の男を裁く場ではないことを。その法廷が、やがて、彼ら一人ひとりの、胸の奥深くに封じてきた闇を、容赦なく引きずり出す、鏡になることを。
裁くために、彼らはやってきた。
だが、裁かれるのは、被告人だけではなかった。
この物語は、一つの、狂っていく法廷の記録である。
第一部 召集
第一章 三者の密室
開廷を三日後に控えた、夕刻。
地裁の一室、〈評議準備室〉と記された扉の奥で、三人の男が、長机を挟んで、向かい合っていた。
裁判長・吉沢考太郎(よしざわ・こうたろう)、六十三歳。三十五年、この職にある。白髪を短く刈り込み、銀縁の眼鏡の奥の目は、感情を一切、表に出さなかった。法曹界では〈氷の吉沢〉と呼ばれ、数々の難事件を、揺るぎない論理で裁いてきた男だった。
その向かいに、検察官・登坂時次郎(とうさか・ときじろう)、五十一歳。この地方検察庁でも屈指の論客で、有罪率の高さで知られる。彼の前には、分厚い証拠書類の束が、几帳面に積まれていた。
だが、この鉄面皮の検事にも、人に語れぬ、深い傷があった。
登坂は、数年前、長年連れ添った前妻を、病で、亡くしていた。失意の底にあった彼を、支えたのが、今の再婚相手だった。二人は、結ばれ、待望の男児を、授かった。だが、幸福は、長くは続かなかった。今の妻は、もともと、急性のパニック障害を、抱えていた。ある日、その発作が、最悪の形で、起きた。妻は、自宅の駐車場で、車を、動かした。その時、三歳半になったばかりの、我が子が、車の陰に、いることに——発作のさなかの妻は、気づかなかった。
男児は、その場で、命を、落とした。
妻は、業務上過失致死に、問われた。だが、発作という、病の事情が、酌量され、刑事責任は、大きく、減じられた。妻は、治療を経て、日常に、復帰した。だが、その心は、二度と、元には、戻らなかった。我が子を、自らの手で、死なせた——その事実を、抱えて、彼女は、今も、贖罪の日々を、生きている。そして、登坂もまた、その妻を、支えながら、答えの出ない問いを、抱え続けていた。病が、人に、罪を、犯させたとき——その人を、どこまで、責められるのか、と。
皮肉なことだった。心神喪失を、断固として、認めぬ検事が、その家庭に、まさに、病ゆえの加害と、その後の、終わりなき苦しみを、抱えていたのだ。
そして、弁護人・高坂壮太郎(たかさか・そうたろう)、四十八歳。国選弁護人として、この難事件を引き受けた男だった。疲れた顔をしていたが、その目の奥には、消えない何かが、灯っていた。
高坂にもまた、家族の、影があった。彼の実兄は、かつて、ある会社に、勤めていた。だが、その会社は、苛烈な、長時間労働を、従業員に、強いる、悪辣な職場だった。兄は、来る日も来る日も、深夜まで、働かされ、心を、蝕まれていった。そして、ある日、精神の均衡を、完全に、崩した。今、兄は、精神科の病棟に、長期入院している。かつて、快活だった兄の面影は、そこには、もう、なかった。
高坂は、知っていた。人を、壊すのは、必ずしも、その人自身の、弱さではないことを。人を、追い詰め、狂わせ、罪へと、あるいは、廃人へと、突き落とす——そういう、構造が、社会には、確かに、存在することを。兄を、そこまで、追い詰めた、あの会社を、法は、ろくに、裁かなかった。その、やり場のない、憤りが、高坂を、この道へと、突き動かしていた。
この検事と、弁護人は、実は、初対面では、なかった。数年前、登坂が扱った、ある事件で、高坂が、弁護についた。以来、二人は、法廷で、幾度か、相まみえ、時に、事件の外でも、相談を、交わす、奇妙な間柄に、なっていた。互いの、家庭の事情も、断片的にだが、知っていた。だからこそ、この法廷で、正反対の立場に立つ二人の対決は、単なる、検事と弁護人の、論戦を、超えた、重みを、帯びていた。
「では、公判前整理手続の、最終確認を行う」吉沢が、低い声で言った。「被告人・頼本雄二(よりもと・ゆうじ)、四十七歳。起訴事実は、女児殺害。二十四年前の、婦女暴行殺人による服役歴があり、出所後、更生保護施設を退所した後の、再犯である」
部屋の空気が、重く沈んだ。
「争点は、二つ」吉沢が続けた。「一つは、犯行時の責任能力。弁護側は、被告人の精神障害を理由に、心神喪失、ないし心神耗弱を主張する。もう一つは、量刑。検察は、極刑を求刑する構えと聞くが」
「その通りです」登坂が、即座に答えた。その声には、揺るぎがなかった。「裁判長。被告人は、二十四年前、一人の女性を暴行の末に殺害しました。そして、そのもう一人の被害者女性は——事件の後、婚約を目前にして、自ら命を絶っています。実質、二人の女性の命を奪ったのです。それだけでも、許されざる罪だ。にもかかわらず、被告人は服役後、更生の機会を与えられながら、再び——今度は、いたいけな女児の命を奪った」
登坂の指が、書類の一枚を、強く叩いた。
「更生など、幻想です。この男に、社会復帰の資格は、初めからなかった。私は、断固として、極刑を求めます。精神障害を、免罪符にはさせない」
「登坂検事」弁護人の高坂が、静かに口を開いた。「あなたは、被告人を、初めから極悪人と決めつけている。だが、人は、罪人として生まれるのではない。罪人に、されるのだ」
「ほう」登坂が、冷ややかに、高坂を見た。「弁護人は、あの男を、同情に値すると。二人、いや三人もの命を奪った男を」
「私は、同情を求めているのではない」高坂の声は、低かったが、芯があった。「理解を、求めている。なぜ、この男が、こうなったのか。それを明らかにせずに、ただ命を奪って幕を引くなら——我々は、同じ悲劇を、また繰り返すことになる」
「綺麗事だ」登坂が、吐き捨てた。「その理解とやらの間に、また、新たな被害者が生まれるのだ。あなたは、次に殺される子どもの顔を、想像したことがあるのか」
高坂は、言葉に詰まった。その問いは、彼自身が、幾度も、自らに突きつけてきた問いだった。
「双方、そこまでだ」吉沢が、二人を制した。「感情論は、法廷で聞く。ここでは、手続を進める」
だが、〈氷の吉沢〉のその声は、この時、ほんの微かに、揺れていた。二人の男は、気づかなかった。裁判長の膝の上で、その手が、固く握りしめられていることに。
女児殺害。その四文字が、吉沢の脳裏に、決して人に語れぬ、ある光景を、呼び起こしていた。
二年前。吉沢の、七歳になる孫娘が、下校途中、見知らぬ男に、連れ去られかけた。幸い、通りかかった人に助けられ、未遂に終わった。だが、あの日以来、孫娘は、家に引きこもり、笑わなくなった。吉沢は、その男を、法で裁くことは、できなかった。証拠不十分で、男は、不起訴になったのだ。
法を、三十五年、信じてきた男が、初めて、法の無力を、呪った瞬間だった。
そして今、吉沢は、女児を殺した男を、裁こうとしている。
「氷の吉沢」——その仮面の下で、老裁判官の心は、すでに、静かに、軋み始めていた。
第二章 裁く者たちの朝
開廷の日が、来た。
裁判所の一室に、選ばれた市民たちが、集められていた。裁判員候補者説明会。ここから、最終的に、六名の裁判員と、二名の補充裁判員が、選ばれる。
部屋には、独特の緊張が、張り詰めていた。見知らぬ者同士が、互いに、探るような視線を、交わしている。誰もが、これから自分が背負うことになる責任の重さに、青ざめていた。
係員が、事件の概要を、淡々と説明していく。
「本件は、被告人が、七歳の女児を、殺害したとされる事件です。被告人には、過去に、婦女暴行殺人による、服役歴があります。審理は、連日、開かれ、皆様には、証拠を吟味し、被告人が有罪か無罪か、有罪であれば、どのような刑が相当かを、判断していただきます」
その言葉が、部屋に、落ちるたびに、候補者たちの顔が、強張っていった。
最前列に座る、初老の男——後に裁判員となる、三留信之助(みとめ・しんのすけ)、六十七歳——は、係員の「女児」「殺害」という言葉に、細かく、肩を震わせていた。
彼には、忘れられぬ記憶があった。
三年前、彼の娘が、育児に疲れ果てていた。生後半年の孫が、夜泣きを繰り返し、娘は、一睡もできぬ日々を送っていた。ある日、三留が孫の様子を見に行くと——孫は、浴槽で、冷たくなっていた。娘は、放心したように、床に座り込んでいた。
事故だったのか。それとも——三留は、今も、その答えを、知らない。知ることを、恐れている。娘は、事故だと言った。警察も、事故と判断した。だが、三留の胸には、消えない疑念が、澱のように、沈み続けていた。あの時、娘の目は、うつろだった。あの目は、本当に、何もしていない者の、目だったのか。
三留は、この裁判から、逃げ出したかった。だが、逃げることは、許されなかった。
その斜め後ろに座る、中年の女性——七種清美(さえぐさ・きよみ)、五十六歳の主婦——は、膝の上で、両手を、固く組んでいた。
彼女の弟は、統合失調症を患っていた。長年、彼女が、付き添い、支えてきた。世間が、精神疾患を、どんな目で見るか。彼女は、痛いほど、知っていた。弟が、幻聴に苦しみ、時に、暴れることもあった。だが、弟は、優しい人間だった。病が、彼を、時折、別人に変えるだけだった。
被告人もまた、精神障害を抱えているという。清美は、思った。この裁判で、精神障害者は、どう裁かれるのだろう。もし、弟が、何かの拍子に、罪を犯したら——弟も、こんな風に、悪人として、裁かれるのだろうか。
清美の心は、初めから、被告人の側に、傾きかけていた。
そして、部屋の隅に座る、一人の男が、いた。
頼本雄二の弁護人ではない。裁判員候補者として、召集された、四十二歳の男。安斉宏太(あんざい・こうた)。
彼の顔は、蒼白だった。額には、うっすらと、汗が滲んでいる。彼は、この場にいることに、耐えられなくなっていた。
二十年前。彼の妹が、暴行の被害に遭った。犯人は、捕まらなかった。妹は、その後、心を病み、ある冬の朝、自ら、命を絶った。安斉は、妹の亡骸を、見つけた、その人だった。
婦女暴行。その言葉が、被告人の起訴事実に、含まれていた。
安斉は、思った。自分は、この裁判を、公平に、裁けない。被告人の顔に、妹を殺した、あの見えない犯人の影を、重ねてしまう。冷静な判断など、できるはずが、なかった。
第三章 不適格の告白
裁判員の選任手続が、始まった。
候補者は、一人ずつ、別室に呼ばれ、裁判長・吉沢と、検察官・登坂、弁護人・高坂の前で、簡単な質問を受ける。事件について、予断を持っていないか。公平な判断が、できるか。
安斉宏太の番が、来た。
彼は、三人の前に座ると、しばらく、俯いていた。そして、絞り出すように、口を開いた。
「私は……この裁判の、裁判員には、なれません」
吉沢が、静かに、彼を見た。「理由を、お聞かせください」
「二十年前」安斉の声は、震えていた。「私の妹が、暴行の、被害に遭いました。犯人は、捕まらなかった。妹は……心を病んで、自ら、命を、絶ちました」
部屋の空気が、凍りついた。
「私は……」安斉の目から、涙が、こぼれた。「被告人の起訴事実に、婦女暴行が、あると知って……もう、駄目なんです。あの男の顔を見ると、妹を殺した、あの犯人の影が、重なる。私は、この男を、憎んでしまう。公平になんて、裁けない。妹の……無念を、この男に、ぶつけてしまう」
高坂が、痛ましげに、目を伏せた。登坂でさえ、しばらく、言葉を、失っていた。
「わかりました」吉沢が、静かに言った。「安斉さん。あなたは、この裁判の、裁判員としては、不適格です。それは、あなたの弱さではない。むしろ、あなたが、ご自身の心を、正確に見つめられる、誠実な方だという証です。どうぞ、お引き取りください」
安斉は、深く、頭を下げ、逃げるように、部屋を出ていった。
彼が去った後、部屋には、重い沈黙が、残った。
「……一人目から、これか」登坂が、呟いた。
「登坂検事」高坂が、静かに言った。「これが、我々の裁こうとしている、事件の重さです。裁く側の人間の、人生の傷を、抉り出すほどの。あなたは、まだ、この男を、ただの極悪人だと、言えますか」
登坂は、答えなかった。
もう一人、この日、法廷を去った者がいた。
裁判員候補者の中に、偶然にも、一人の弁護士が、いた。平居浩二(ひらい・こうじ)、三十九歳。彼は、選任手続の場で、自らが法曹関係者であり、この種の事件に、専門的な予断を持つことを、申告した。
「裁判員は、法律の素人たる市民が、その健全な社会常識で、判断することに、意義があります」平居は、冷静に言った。「私のような法律家が入れば、他の裁判員が、私の意見に、引きずられる恐れがある。制度の趣旨に、反します。私は、辞退を、申し立てます」
この申告は、認められた。平居もまた、法廷を、去った。
こうして、二人が去り、残った候補者たちの中から、最終的に、六名の裁判員と、二名の補充裁判員が、選ばれた。
選ばれた者たちは、知らなかった。
自分たちが、これから、どんな地獄へ、足を踏み入れるのかを。
そして、この日、法廷を去った安斉宏太こそが、ある意味で、最も幸運な男だったことを——後に、残された者たちは、思い知ることになる。
第四章 九人の裁く者
選ばれた、九人。
まず、裁判官が、三名。
裁判長・吉沢考太郎、六十三歳。〈氷の吉沢〉と呼ばれる、老練の裁判官。
右陪席、男性裁判官・近野欣次郎(こんの・きんじろう)、四十四歳。左陪席、女性裁判官・神野智子(かんの・ともこ)、三十四歳。
この二人の陪席裁判官の間には、法廷の誰も知らぬ、緊張が、張り詰めていた。
近野は、有能だが、昇進に、恵まれずにいた。そして、彼は、年下の女性裁判官・神野に、複雑な感情を、抱いていた。それは、憧れであり、嫉妬であり、そして、屈折した、恋情でもあった。神野が、若くして、周囲に評価されていることが、近野には、我慢ならなかった。
一方、神野には、秘密があった。彼女は、別の裁判所にいる、新任の男性裁判官・小中隼人(こなか・はやと)、三十七歳と、密かに、愛し合っていた。裁判官同士の恋愛は、公にはできない。二人は、人目を忍んで、逢瀬を重ねていた。
近野は、その気配を、薄々、感づいていた。神野が、時折見せる、幸福そうな横顔。それが、自分に向けられたものではないと知るたびに、近野の胸で、暗い焔が、燃えた。
そして、六人の裁判員。
三留信之助(みとめ・しんのすけ)、六十七歳。孫の死に、拭えぬ疑念を抱える男。
七種清美(さえぐさ・きよみ)、五十六歳。精神疾患の弟を、二十年、支えてきた主婦。
魚谷悠生(うおたに・ゆうき)、二十九歳。安斉が去った後、繰り上げで選ばれた、若き会社員。彼の妻は、育児ノイローゼで、心を病みかけていた。妻が、我が子に、何かをしてしまうのではないか。魚谷は、その恐怖に、日々、怯えていた。
星宮ルイ(ほしみや・るい)、二十六歳。彼女は、満員電車での通勤中、時折、痴漢の被害に遭っていた。男性という存在への、拭えぬ嫌悪と恐怖が、彼女の心の底に、澱んでいた。
真島サナエ(まじま・さなえ)、三十四歳。精神科病棟に勤める、看護師。統合失調症の男性患者、八名を、日々、ケアしている。その献身の日々に、彼女は、静かに、疲弊し、擦り切れていた。
そして、六人目、犀川園絵(さいかわ・そのえ)、四十八歳。一見、穏やかな、専業主婦。だが、彼女もまた、口には出さぬ、家庭の事情を、抱えていた。
補充裁判員は、二名。
植島貞雄(うえしま・さだお)、三十一歳。彼には、誰にも言えぬ、秘密があった。彼自身が、幼い少女に、性的な関心を抱く性癖を、持っていた。彼は、それを、生涯、誰にも、明かしたことがなかった。そして、この裁判で、まさにその性癖ゆえの犯罪を、裁くことになるとは、夢にも思っていなかった。
もう一名の補充裁判員は、道永光夫(みちなが・みつお)、五十六歳。会社経営者で、元受刑者を、積極的に雇用し、その更生を、支援してきた男だった。彼は、信じていた。人は、変われる、と。過ちを犯した者にも、やり直す機会が、与えられるべきだ、と。
更生を、信じる男。
そして、その信念が、この裁判で、根底から、揺さぶられることを、道永は、まだ、知らなかった。
九人の、裁く者たち。
その一人ひとりが、事件と、奇妙に呼応する、闇を、抱えていた。
法廷という、閉ざされた空間で、その闇が、共鳴し、増幅し、やがて、爆発する。
開廷を告げる、法廷の扉が、重い音を立てて、閉じられた。
第二部 法廷
第五章 開廷
被告人・頼本雄二が、法廷に、現れた。
傍聴席から、息を呑む音が、漏れた。
四十七歳という年齢よりも、ずっと老けて見える、痩せた男だった。落ちくぼんだ目、青白い肌、力なく垂れた肩。手錠と腰縄を解かれ、被告人席に座る、その姿には、〈極悪人〉を予想していた者たちを、拍子抜けさせる、何かがあった。
彼は、俯いたまま、一度も、顔を上げなかった。まるで、この世のすべてから、目を背けるように。
裁判長・吉沢考太郎が、人定質問を、始めた。
「被告人。名前を」
「……頼本、雄二」
その声は、消え入りそうに、小さかった。
罪状認否。検察官・登坂時次郎が、起訴状を、朗読する。その内容は、傍聴席を、凍りつかせた。淡々と読み上げられる、非道な事実。裁判員たちの顔から、血の気が、引いていった。
「被告人は、起訴事実を、認めますか」吉沢が、問うた。
頼本は、長い沈黙の後、掠れた声で、答えた。
「……やったことは、間違い、ありません。でも……なぜ、やったのか、自分でも……わからないんです」
弁護人・高坂壮太郎が、立ち上がった。
「弁護人として、意見を述べます。被告人は、犯行に及んだ事実は、争いません。しかし、犯行当時、被告人は、重度の精神障害により、善悪を判断する能力を、著しく欠いていました。よって、心神喪失、ないし心神耗弱による、責任能力の減免を、主張します」
「ふざけるな!」
傍聴席から、怒声が、飛んだ。被害女児の、遺族だった。廷吏に制され、その父親は、崩れ落ちるように、泣き伏した。
裁判員席で、二十九歳の魚谷悠生が、目を、逸らした。彼は、その父親の慟哭に、耐えられなかった。もし、自分の妻が、育児ノイローゼの果てに、我が子を——その想像が、頭から、離れなかった。この父親のように、自分も、いつか、あんな風に、泣き崩れるのだろうか。
五十六歳の七種清美は、被告人・頼本の、青白い横顔を、見つめていた。あの、うつろな目。それは、彼女の弟が、病の発作に、苦しむときの目と、どこか、似ていた。清美の胸に、被告人への、複雑な感情が、芽生え始めていた。
開廷、初日。
法廷は、まだ、静かだった。
だが、それは、嵐の前の、静けさに、過ぎなかった。
第六章 証人尋問・その一――精神科医
審理は、進んだ。
まず、証言台に立ったのは、被告人の精神鑑定を行った、精神科医だった。庄嶋公祐(しょうじま・こうすけ)医師、五十代の、経験豊かな鑑定医である。
弁護人・高坂が、尋問に立った。
「庄嶋先生。被告人の、精神状態について、鑑定の結果を、お聞かせください」
「被告人には」庄嶋医師は、慎重に、言葉を選びながら答えた。「複雑性の、心的外傷後ストレス障害、および、解離性の症状が、認められます。加えて、幼少期からの、慢性的な、虐待環境による、深刻な、人格形成の、歪みが、見られます」
「虐待環境、とは」
「詳細は、後ほど、明らかになるかと思いますが」庄嶋医師は、言った。「被告人は、幼少期、極めて過酷な、家庭環境で、育っています。それが、彼の、精神の、根幹を、蝕んでいる」
検察官・登坂が、反対尋問に、立った。
「庄嶋先生。しかし、被告人は、犯行後、証拠を隠滅しようとした。逃走も、図っている。これは、善悪の判断が、できていた証拠では、ないですか。心神喪失者に、そんな、合理的な行動が、取れますか」
「……その点は」庄嶋医師は、答えた。「解離状態にある者でも、部分的に、合理的な行動を、取ることは、あります。しかし、犯行そのものの、動機や、衝動の、制御については——」
「先生」登坂が、遮った。「イエスか、ノーで、お答えください。被告人は、自分が、悪いことをしている、という認識が、あったのか、なかったのか」
庄嶋医師は、しばらく、沈黙した。
「……一概には、言えません。それが、精神鑑定の、限界です」
傍聴席が、ざわめいた。
裁判員席で、精神科病棟に勤める看護師・真島サナエ、三十四歳が、唇を、噛んでいた。彼女は、知っていた。精神を病んだ人間の、心の内が、いかに、単純な二分法では、割り切れないかを。イエスか、ノーか。そんな問いで、人の心が、測れるものか。だが、法廷は、その割り切れないものを、無理やり、割り切ろうとしている。真島の胸に、静かな、怒りが、湧いた。
第七章 証人尋問・その二――更生保護施設の職員
次に、証言台に立ったのは、被告人が、前回の服役後に、身を寄せていた、更生保護施設の、職員だった。持田尚之(もちだ・なおゆき)、四十代の、実直そうな男である。
検察官・登坂が、尋問した。
「持田さん。被告人は、施設での生活態度は、どうでしたか」
「……真面目でした」持田は、苦しげに、答えた。「大人しく、規則も、守っていました。私たちは、彼が、更生できると、信じていました。だからこそ……あんなことに、なって……私たちも、責任を、感じています」
「あなた方は、被告人を、監視しきれなかった。そうですね」
「監視、という言葉は……」持田は、口ごもった。「私たちは、彼らを、監視するのではなく、社会復帰を、支援する立場です。彼が、施設を、退所したのも、規則上、正当な、手続きに、則ったものでした」
「その結果、幼い命が、失われた」登坂が、冷徹に、言った。「更生支援とは、聞こえはいいが、要するに、危険な人間を、野に放つことでは、ないのですか」
「違います!」持田が、声を、荒げた。「彼らにも、生きる、権利がある! やり直す、機会がある! そうやって、社会から、排除し続ければ、彼らは、ますます、追い詰められる! それが、再犯を、生むんだ!」
傍聴席の、補充裁判員席で、会社経営者・道永光夫、五十六歳が、深く、頷いていた。彼もまた、元受刑者を、雇用し、更生を、支援してきた男だった。持田の言葉は、道永自身の、信念そのものだった。
だが、同時に、道永の胸には、ある不安が、兆していた。
自分が、更生を信じて、雇ってきた者たち。その中に、もし、この被告人のような、人間が、いたら。自分の、善意が、いつか、誰かの、命を、奪う、引き金に、なったとしたら——道永の、揺るぎなかった信念に、初めて、亀裂が、走った。
第八章 証人尋問・その三――被害者遺族
三人目の証人は、被害女児の、母親だった。
彼女が、証言台に立った瞬間、法廷の、空気が、変わった。憔悴しきった、その姿。彼女は、しかし、気丈に、証言台の前に、立った。
検察官・登坂が、静かに、尋問した。
「……つらいことを、思い出させて、申し訳ありません。娘さんは、どんな、お子さんでしたか」
「……優しい、子でした」母親の声は、震えていた。「小さな、虫でも、殺せない子で……いつも、笑っていて……将来は、お花屋さんに、なりたいって……」
彼女の言葉が、途切れた。法廷の、あちこちから、すすり泣きが、漏れた。
「あの日」母親は、続けた。振り絞るように。「私が、少し、目を、離した、隙に……たった、五分。たった、五分、だったんです……それだけで、あの子は……」
母親は、崩れ落ちた。
その、慟哭が、法廷に、響き渡った。
裁判員席で、六十七歳の三留信之助が、震えていた。彼の脳裏に、浴槽で、冷たくなっていた、孫の姿が、蘇った。たった、五分。目を、離した、隙に。この母親の、後悔は、三留自身の、後悔だった。いや——三留の場合は、目を離した先に、娘がいた。娘は、本当に、何もしなかったのか。三留の、抑え込んできた、疑念が、この母親の慟哭によって、決壊しかけていた。
二十六歳の星宮ルイは、被告人・頼本を、睨みつけていた。男という生き物への、拭えぬ嫌悪。痴漢に怯える、通勤の朝。この男もまた、女を、子どもを、力で、踏みにじった。ルイの中で、被告人への、憎悪が、膨れ上がっていた。
補充裁判員の、植島貞雄、三十一歳は——俯いて、いた。
彼は、この母親の、慟哭を、聞きながら、自分自身の、胸の底に、巣食う、あの、暗い性癖のことを、考えていた。彼は、幼い少女に、関心を抱く自分を、生涯、憎み、抑え込み、隠して、生きてきた。決して、行動には、移さなかった。移すまいと、必死に、生きてきた。
だが、この被告人は、それを、行動に移した。
植島は、被告人が、恐ろしかった。そして、同時に——被告人の中に、自分自身の、最も、見たくない部分を、見て、しまっていた。もし、自分が、この被告人のように、過酷な環境で育っていたら。もし、自分の、理性の箍が、外れていたら。自分も、あちら側に、いたのではないか。
植島の額に、脂汗が、滲んだ。彼は、この裁判から、逃げ出したかった。誰にも、言えない。この、恐怖を。
第九章 被告人質問――ある生育歴
そして、審理は、核心へと、向かった。
被告人質問。
弁護人・高坂壮太郎が、静かに、被告人・頼本雄二に、問いかけた。
「頼本さん。あなたの、子ども時代のことを、聞かせてください」
頼本は、長い間、俯いたまま、動かなかった。
「……話したく、ありません」ようやく、絞り出した声は、震えていた。
「話してください」高坂は、優しく、しかし、毅然と、言った。「それが、あなたを、理解する、唯一の道です。あなたが、なぜ、こうなったのか。それを、この法廷にいる、すべての人に、知ってもらう必要がある」
頼本は、初めて、顔を上げた。その目には、深い、深い、闇が、宿っていた。
「……母は」頼本は、途切れ途切れに、語り始めた。「母は、心を、病んで、いました。いつも、部屋の隅で、ぶつぶつと、何かを、呟いていた。私を、見ても……私が、誰なのかも、わからないようでした。抱きしめて、もらった記憶なんて……一度も、ありません」
法廷が、静まり返った。
「父は」頼本の声が、掠れた。「父は……酒を、飲むと、人が、変わりました。毎晩、毎晩……私を、殴った。理由なんて、ありません。ただ、そこに、私が、いるから。棒で、殴られ、蹴られ、煙草の火を……押しつけられた。血が出るまで……気を失うまで……」
頼本の体が、細かく、震え始めた。
「『お前なんか、生まれてこなければ、よかった』……父は、いつも、そう言った。『お前は、母さんを、狂わせた。お前が、悪い』……私は、ずっと、そう、信じて、育ちました。自分は、生きている価値の、ない、人間なんだと。存在しては、いけない、人間なんだと」
裁判員席の、あちこちで、息を呑む音が、した。
「学校にも、行かせて、もらえなかった。ご飯も……ろくに、食べさせて、もらえなかった。私は、真冬でも、裸足で、外に、放り出された。近所の、誰も、助けては、くれなかった。見て見ぬ、ふりを、していた。私は……この世界の、誰からも、いらない、存在だった」
頼本の頬を、涙が、伝った。
「十四のとき、家を、出ました。行く場所なんて、ない。盛り場を、うろついて……そこで、シンナーを、覚えた。それを、吸っている間だけ……痛みを、忘れられた。父の、拳も。母の、うつろな目も。自分が、いらない存在だという、事実も。全部、忘れられた……」
「頼本さん」高坂が、静かに、問うた。「あなたは、最初の事件のとき、そして、今回の事件のとき——何を、感じていましたか」
頼本は、長い、沈黙の後、掠れた声で、言った。
「……わからないんです。本当に。気づいたら……やって、いた。まるで、自分の中に、もう一人、別の誰かが、いるみたいに。その、もう一人が……父に、殴られていた、あの頃の、恐怖と、憎しみを……一番、弱い者に、ぶつけて、いた。女の人に。子どもに。自分が、されたことを……自分より、弱い者に……」
法廷は、水を打ったように、静まり返っていた。
誰も、動けなかった。
被告人は、罪人だった。二人、いや三人の命を奪い、幼い少女の未来を、踏みにじった、許されざる罪人。
だが、その罪人は——かつて、この世界の、誰からも、助けられなかった、一人の、震える子どもだった。
暴力は、暴力を、生む。憎しみは、憎しみを、生む。踏みにじられた者が、さらに弱い者を、踏みにじる。その、連鎖。
その連鎖を、どこかで、断ち切れたはずだった。頼本が、真冬に裸足で、放り出されていた、あのとき。近所の、誰かが、手を差し伸べていれば。学校の、誰かが、気づいていれば。社会の、誰かが——
だが、誰も、断ち切らなかった。
そして、その、断ち切られなかった連鎖の、果てに——一人の、少女が、死んだ。
この法廷にいる、すべての者が、その事実の前に、言葉を、失っていた。
裁判長・吉沢考太郎は、被告人の顔を、じっと、見つめていた。〈氷の吉沢〉の、感情を映さぬはずの目が、この時、微かに、揺れていた。
女児を、守れなかった。吉沢の、孫娘を、守れなかったように。
そして、この、頼本という子どもを、守れなかった、社会。その社会の、末端で、法という、最後の砦を、預かってきたのが、自分だった。
自分は、何を、裁いてきたのか。
老裁判官の胸に、三十五年で、初めての、深い、問いが、突き刺さっていた。
第三部 評議
第十章 論告と弁論
審理は、終盤を、迎えた。
検察官・登坂時次郎が、論告求刑に、立った。
「裁判長、そして、裁判員の皆様」登坂の声は、法廷に、朗々と、響いた。「被告人の、生い立ちが、悲惨であったことは、認めます。同情の余地も、あるでしょう。しかし——」
登坂は、一度、言葉を、切った。
「しかし、それが、罪を、免れる理由には、なりません。世の中には、不遇な環境に育ちながらも、歯を食いしばって、真っ当に、生きている人が、大勢います。生育歴を、免罪符にすれば、法秩序は、崩壊する。被告人は、一度、罪を犯し、服役し、更生の機会を、与えられた。にもかかわらず、再び、最も、弱く、無垢な、幼い命を、奪った。この事実は、揺るがない」
登坂の目が、裁判員たちを、射抜いた。
「亡くなった、少女のことを、想像してください。お花屋さんに、なりたいと、笑っていた、あの子の、恐怖を。無念を。そして、遺された家族の、一生、癒えることのない、悲しみを。更生の可能性という、不確かな、賭けのために、また、次の被害者を、生むことが、許されますか。私は——被告人に、極刑を、求刑します」
法廷が、どよめいた。
だが、その時。
登坂の、朗々とした声が、ふいに、途切れた。
彼は、論告の、最後の一文を、読み上げようとして——なぜか、言葉を、失っていた。手元の、論告要旨から、目を上げた登坂の視線が、被告人・頼本の、青白い顔を、捉えた。
病が、人に、罪を、犯させたとき——その人を、どこまで、責められるのか。
その問いが、この瞬間、登坂の胸で、彼自身の妻の顔と、重なった。自宅の駐車場で、我が子を、車の陰に、いると気づかぬまま、車を動かしてしまった、あの妻。発作という、病の底で、最愛の我が子を、死なせてしまった、あの女。登坂は、毎晩、その妻の、消えない嗚咽を、聞きながら、眠っている。妻は、悪人か。罪人か。極悪人か。——否。妻は、誰よりも、苦しんでいる、一人の、母親だ。
では、目の前の、この男は。病に、蝕まれ、自分でも、なぜやったのか、わからないと、震える、この男は。
登坂の、こめかみに、汗が、伝った。彼は、必死で、その動揺を、押し殺した。私情だ。これは、私情に、過ぎない。検事が、私情で、求刑を、揺らがせて、たまるか。妻と、この男は、違う。妻は、我が子を、愛していた。この男は、見ず知らずの、子を、手にかけた。違う。違うはずだ。
だが、その「違う」の一線が、この時、登坂の中で、初めて、ぐらりと、揺れた。
「……以上」登坂は、辛うじて、そう、言い切ると、逃げるように、席に、着いた。
その、微かな乱れに、気づいた者は、法廷に、ほとんど、いなかった。ただ一人、弁護人・高坂だけが、旧知のその男の、額に光る汗を、静かに、見つめていた。高坂は、知っていた。登坂の家庭に、何があったのかを。そして、この求刑が、登坂自身の、魂を、削って、絞り出されたものであることを。
続いて、弁護人・高坂壮太郎が、最終弁論に、立った。
「登坂検事は、被告人の生育歴を、免罪符にするな、と、言われた」高坂は、静かに、語り始めた。「私も、それを、免罪符にしようとは、思いません。被告人が犯した罪は、消えない。奪われた命は、還らない。それは、事実です」
高坂は、裁判員たちを、一人ひとり、見渡した。
「しかし、皆さんに、考えて、いただきたいのです。頼本雄二という、一人の人間が、生まれたとき——彼は、悪人、だったでしょうか。違います。彼もまた、母の温もりを求め、父に愛されたいと願う、一人の、無垢な、赤ん坊でした。その赤ん坊を、罪人に、変えたものは、何だったのか」
高坂の声が、熱を、帯びた。
「暴力です。孤立です。そして——見て見ぬふりを、した、社会です。真冬に、裸足で、放り出された、あの子どもに、誰も、手を、差し伸べなかった。その、無数の、無関心の果てに、この、悲劇が、あるのです。私たちは、皆、どこかで、この連鎖に、加担している。それを、被告人一人に、背負わせ、命を奪って、幕を引くことが——本当に、正義でしょうか」
高坂は、深く、頭を下げた。
「私は、被告人の、更生の可能性を、信じたい。そして、この裁判が、暴力の連鎖を、断ち切る、社会を作るための、一歩と、なることを、願います。寛大な、ご判断を、お願いいたします」
最後に、被告人・頼本雄二が、最終陳述を、求められた。
彼は、ゆっくりと、立ち上がった。そして、消え入りそうな声で、言った。
「……償いなんて、できないことは、わかっています。あの子や、あの人たちに、したことは……どんなことをしても、償えない。私は……生きている価値の、ない、人間です。どんな、判決でも……受け入れます。ただ——」
頼本の目から、涙が、こぼれた。
「ただ、一つだけ。私みたいな、子どもが……もう、二度と、生まれないで、ほしい。私みたいに……誰からも、いらないと、言われる子どもが。それだけが……私の、たった一つの、願いです」
そう言って、頼本は、深く、頭を下げ、崩れるように、席に、座った。
法廷は、しん、と、静まり返っていた。
誰の胸にも、簡単には、答えの出ない、重い、問いだけが、残されていた。
第十一章 評議室――九人の闇
評議室の、扉が、閉ざされた。
裁判官三名、裁判員六名、そして、補充裁判員二名。十一人が、円卓を、囲んでいた。窓のない、閉ざされた部屋。ここで、一人の男の、生死を含む、運命が、決められる。
裁判長・吉沢考太郎が、口を開いた。
「では、評議を、始めます。まず、被告人が、有罪か、無罪か。責任能力の、有無から、議論しましょう」
沈黙が、流れた。誰も、口火を、切ろうとしなかった。皆、それぞれの胸で、渦巻く、感情と、格闘していた。
最初に、口を開いたのは、二十六歳の、星宮ルイだった。
「有罪に、決まっています」その声は、硬く、震えていた。「幼い子を、殺したんですよ。二人も、女の人を、死なせた。生い立ちが、可哀想? だから、何なんですか。可哀想なら、人を、殺していいんですか。あの男は、女や、子どもを、力で、踏みにじった。私は……絶対に、許せない」
ルイの、拳が、固く、握りしめられていた。彼女の脳裏には、痴漢に怯える、通勤の朝の、恐怖が、蘇っていた。
「星宮さんの、お気持ちは、わかります」精神科看護師の、真島サナエ、三十四歳が、静かに、反論した。「でも、責任能力の問題を、感情で、片付けては、いけないと思う。私は、仕事で、精神を病んだ方々と、毎日、接しています。病が、その人を、本来の自分では、いられなくさせることが、あるんです。頼本さんが、犯行時、本当に、自分を、制御できたのか。それは、慎重に——」
「制御できたに、決まってる!」
声を、荒げたのは、六十七歳の、三留信之助だった。その顔は、蒼白で、目は、血走っていた。
「証拠を、隠そうとした! 逃げようとした! それは、悪いことだと、わかっていた、証拠だ! 病気を、言い訳にするな!」
三留の、異常な、興奮ぶりに、一同が、驚いた。
「三留さん……」七種清美が、案じるように、声をかけた。
「幼い子が……死んだんだ」三留の声が、震えた。「小さい、子が……守られるべき、子が……大人の、都合で……」
三留は、そこで、言葉を、詰まらせた。彼が、裁いているのは、被告人ではなかった。浴槽で、冷たくなっていた、孫。そして、その傍らに、うつろな目で、座っていた、娘。彼は、自分の、娘を、裁こうとしていた。あるいは、それを、疑い続けてきた、自分自身を。
「……守られるべき子を、守れなかった、大人の、罪だ」三留は、呻くように、言った。それは、被告人への言葉か、娘への言葉か、あるいは、自分自身への言葉か——三留自身にも、もう、わからなくなっていた。
第十二章 崩壊
評議は、紛糾した。
更生を信じる、会社経営者の道永光夫、五十六歳が、口を開いた。
「私は……更生の、可能性を、信じたい。人は、変われる。私は、そう信じて、大勢の、元受刑者を、雇ってきた」
「その結果が、これですか」
冷たく、言い放ったのは、意外にも、右陪席の裁判官・近野欣次郎、四十四歳だった。彼の目は、しかし、道永ではなく、左陪席の、神野智子に、向けられていた。
「甘い、理想論だ。更生、更生と、綺麗事を、並べる者ほど、現実の、被害者の痛みが、見えていない。そうは、思いませんか、神野さん」
名指しされた、女性裁判官・神野智子、三十四歳が、眉を、ひそめた。
「近野さん。今は、被告人の、責任能力の議論を——」
「あなたは、いつも、そうやって、正論で、私を、遮る」近野の声に、抑えきれぬ、感情が、滲んだ。「あなたは、優秀だ。皆に、好かれている。だが、あなたは、私を、見下している。ずっと、そうだ」
「近野さん!」神野が、声を、荒げた。「私情を、この場に、持ち込まないで、ください!」
「私情?」近野が、昏い目で、笑った。「では、あなたの、私情は、どうなんだ。あなたが、小中君と、密かに、会っていることを——私が、知らないとでも」
神野の顔から、血の気が、引いた。
評議室の、空気が、凍りついた。裁判員たちは、突然、暴露された、裁判官たちの、確執と、秘密に、言葉を、失った。
「……あなたは」神野の声が、震えた。「そんなことのために、この、神聖な評議を……一人の人間の、運命が、かかった、この場を、汚すのですか」
「神聖?」近野が、吐き捨てた。「どこが、神聖だ。ここにいる、全員が、それぞれの、身勝手な、感情で、被告人を、裁こうとしている。誰も、公平になんて、裁いていない。あなたも、私も、皆、同じだ」
その言葉は、皮肉にも、この評議室の、真実を、鋭く、突いていた。
沈黙を、破ったのは、二十九歳の、魚谷悠生の、消え入りそうな声だった。
「……怖いんです」
一同が、彼を、見た。
「私の、妻は……育児で、参っていて。心を、病みかけて、いるんです。夜も、眠れず、赤ん坊が、泣くと……妻の目が、うつろに、なる。私は……怖い。妻が、いつか、我が子に……」魚谷は、両手で、顔を、覆った。「だから、私は……この裁判が、他人事とは、思えない。被害者の、遺族も、可哀想だ。でも、追い詰められた、被告人の母親のことも……私の妻と、重なって……もう、何が、正しいのか、わからない」
魚谷の、告白に、評議室が、揺れた。
次に、口を開いたのは、五十六歳の、七種清美だった。彼女の頬には、涙が、伝っていた。
「私の弟は……統合失調症です」清美は、静かに、語った。「もう、二十年、私が、支えてきました。世間が、精神を病んだ人を、どんな目で、見るか……私は、知っています。もし、弟が、何かの拍子に、罪を犯したら。弟も、この被告人みたいに、悪人として、裁かれるのかと思うと……私は、被告人を、突き放せない。でも……」
清美は、言葉を、詰まらせた。
「でも、亡くなった、あの子のことを、思うと……胸が、張り裂けそうで……私には、裁けない。私には、この人を、裁く、資格なんて、ない」
評議室は、もはや、事件を裁く場では、なくなっていた。
一人、また一人と、裁く者たちが、自らの、人生の闇を、告白し始めた。事件が、彼らの、封じてきた傷を、抉り出し、この密室を、告解室へと、変えていた。
第十三章 告白の連鎖
補充裁判員は、本来、評議で、意見を述べる立場には、ない。だが、その日の評議は、すでに、正規の枠を、越えて、崩壊していた。
補充裁判員の、植島貞雄、三十一歳が、突然、立ち上がった。その顔は、蒼白で、全身が、震えていた。
「私は……」植島の声は、掠れていた。「私は、この裁判を……裁く資格が、ないんです」
一同が、彼を、見た。
「私は……」植島の目から、涙が、あふれた。彼は、生涯、誰にも、明かさなかった、その秘密を——今、この、狂気の評議室で、吐き出そうとしていた。「私は……子どもに……幼い子に、性的な……関心を、持って、しまう、人間なんです」
評議室が、凍りついた。
「誰にも、言ったことは、ありません。一度も、行動に、移したことも、ありません。必死で、抑えて、生きてきた。自分を、憎みながら。でも……この裁判で、被告人の話を、聞いて……私は、自分を、見て、しまった。もし、私が、あの被告人のように、地獄のような家庭で、育っていたら。もし、私の、理性の、箍が、外れていたら……私も、あちら側に、いたかもしれない」
植島は、崩れ落ちるように、椅子に、座り込んだ。
「私に……あの人を、裁く、資格なんて、ない。私は……あの人と、同じ、闇を、抱えているのに……ただ、行動に、移さなかった、というだけで……こちら側に、いる。それだけの、違いなのに」
沈黙が、評議室を、支配した。
誰も、植島を、責めることが、できなかった。なぜなら、この部屋にいる、全員が、多かれ少なかれ、同じだったからだ。行動に移さなかった、というだけで、裁く側にいる。だが、その一線を、隔てているものは、一体、何なのか。
二十六歳の、星宮ルイが、静かに、泣いていた。あれほど、被告人を、憎んでいた彼女が。
「……私、わからなく、なりました」ルイは、呟いた。「憎い。あの男が、憎い。でも……あの男も、昔は、助けを、求めていた、子どもだった。誰も、助けなかった。私が、痴漢に遭ったとき、周りの誰も、助けてくれなかった、あの時みたいに。見て見ぬふり。私も……あの男を、見て見ぬふり、する側に、いたかもしれない」
裁判長・吉沢考太郎は、その、崩壊していく評議を、じっと、見つめていた。
そして、〈氷の吉沢〉が、ついに、口を、開いた。
「……二年前」老裁判官の声は、震えていた。一同が、驚いて、彼を、見た。「私の、孫娘が、連れ去られ、かけた。七歳だった。未遂に、終わったが……あの子は、今も、心を、閉ざしたままだ。犯人は、証拠不十分で、不起訴になった。私は……法を、三十五年、信じてきた男が……初めて、法を、呪った」
吉沢は、眼鏡を、外し、目頭を、押さえた。
「私は、この裁判を、公平に、裁く自信が、なかった。女児を殺した男を、私情で、極刑に、したくなる自分が、怖かった。だが、被告人の、生い立ちを、聞いて……私は、気づいた。私が、守りたかった、孫娘も。この、頼本という男も。かつては、同じ、無力な、子どもだった。私は、一体、何を、裁こうと、しているのか」
評議室にいる、全員が、涙を、流していた。
これは、もはや、裁判では、なかった。
人間が、人間を、裁くということの、その、耐えがたい、重さと、不可能性を——十一人が、それぞれの、傷を通して、思い知る、魂の、告解だった。
第十四章 判決
どれほどの、時間が、流れただろう。
嵐のような、告白と、涙が、過ぎ去った後、評議室には、奇妙な、静けさが、訪れていた。
裁判長・吉沢考太郎が、眼鏡を、かけ直した。その顔には、再び、裁判官としての、静けさが、戻っていた。だが、それは、以前の、〈氷の〉冷たさとは、違っていた。深い、悲しみと、覚悟を、湛えた、静けさだった。
「……我々は」吉沢は、静かに、語り始めた。「今日、一つのことを、思い知りました。人が、人を、裁くということが、いかに、傲慢で、いかに、困難なことか。この部屋にいる、誰一人として、被告人を、見下せる者は、いない。我々は皆、同じ、弱さと、闇を、抱えた、人間です」
一同が、頷いた。
その時、それまで、じっと、黙って、評議を、見つめていた、左陪席の裁判官・神野智子が、静かに、口を、開いた。
「……皆さんに、お伝えして、おきたいことが、あります。この評議とは、直接、関係のないことかもしれませんが——いえ、むしろ、深く、関係することです」
一同が、彼女を、見た。
「この裁判の、検察官と、弁護人。あのお二人にも、実は、それぞれ、ご家族の、事情が、あります。職業上、知り得た、範囲のことですが……もう、お話ししても、許されるでしょう」
神野は、続けた。
「検察官の登坂さんは、極刑を、求刑されました。誰よりも、厳しく。ですが、あの方の、今の奥様は——過去に、急性のパニック障害の、発作の中で、ご自分の、幼いお子さんを、事故で、死なせて、しまっているんです。病ゆえの、過失として、刑は、大きく、減じられました。登坂さんは、その奥様を、支えながら、生きて、おられる。つまり、あの方は——病が人に罪を犯させる、ということの、最も、身近な、証人なのです。それでも、あの方は、職責として、極刑を、求刑された。どんな、思いで、あの論告を、読まれたか……」
評議室が、静まり返った。
「そして、弁護人の高坂さん」神野は、言った。「あの方の、お兄様は、劣悪な職場で、長時間、働かされ続けた末に、心を、病んで、今も、精神科の病棟に、入院されています。人を、追い詰め、壊す、社会の構造。それを、高坂さんは、ご自分の、お兄様を通して、誰よりも、知っている。だからこそ、あの方は、被告人を、追い詰めた、環境を、見よ、と、訴え続けたのです」
神野は、一同を、見渡した。
「わたしが、申し上げたいのは——この事件に、関わった、すべての人間が、被告人と、地続きだ、ということです。裁く側の、わたしたちも。検察官も。弁護人も。誰一人、この、暴力と、病と、孤立の、連鎖の、外側には、立っていない。わたしたちは、たまたま、こちら側に、いるだけ。その、たまたまを、忘れて、人を、裁く資格は——誰にも、ないのかもしれません」
長い、沈黙が、流れた。
補充裁判員の、道永光夫が、掠れた声で、言った。
「……それでも、我々は、裁かねば、ならない」
「ええ」神野は、頷いた。「だからこそ、せめて、傲慢さは、捨てましょう。自分たちが、被告人より、清らかだ、などという、思い上がりは。その上で——それでも、なお、社会を、守るために、何が、必要かを、考える。それが、わたしたちに、できる、精一杯の、誠実さだと、思うのです」
「しかし」吉沢の声が、芯を、帯びた。「だからといって、我々は、裁くことから、逃げることは、できない。それが、法の下で、生きる、社会の、約束だからです。感情に、流されるのでもなく、被告人を、極悪人と、断罪するのでもなく——事実と、法に基づいて、我々は、判断を、下さねば、ならない」
評議は、再び、始まった。
今度は、静かだった。涙は、涸れ、感情は、澄んでいた。彼らは、被告人の、責任能力を、証拠に基づき、慎重に、検討した。精神鑑定の、限界。犯行の、態様。被告人の、生育歴。そのすべてを、天秤に、かけた。
そして——長い、長い、議論の末、九人は、一つの、結論に、達した。
開廷から、二週間後。
判決の日が、来た。
法廷は、傍聴人で、埋め尽くされていた。被害女児の遺族。報道陣。そして、固唾を呑んで、見守る、市民たち。
被告人・頼本雄二が、入廷した。彼は、この二週間で、さらに、痩せていた。だが、その表情は、初日よりも、どこか、静かだった。
裁判長・吉沢考太郎が、判決を、言い渡すために、立ち上がった。
法廷が、静まり返る。
「主文」
吉沢の声が、法廷に、響いた。
「被告人を——無期懲役に、処する」
傍聴席が、どよめいた。極刑では、なかった。だが、更生の道が、開かれる、有期刑でも、なかった。
吉沢は、判決理由を、読み上げていった。被告人の犯した罪の、重大性。奪われた、二つ、三つの命の、尊さ。遺族の、癒えぬ悲しみ。それらは、極刑にも、値する。
しかし、と、吉沢は、続けた。
被告人の、あまりに、過酷な生育歴。犯行時の、責任能力に、一定の、減弱が、認められること。そして——この社会が、暴力の連鎖の中で、一人の子どもを、救えなかった、その事実。それらを、総合的に、考慮し、当裁判所は、極刑を、選択しなかった。
吉沢は、判決文から、目を上げ、被告人を、まっすぐに、見た。そして、判決には、通常、記されぬ、言葉を、静かに、付け加えた。
「被告人。あなたが、犯した罪は、消えません。あなたが、奪った命は、還りません。あなたは、生涯を、かけて、その罪と、向き合わねば、なりません。それが、無期懲役という、刑の、意味です」
吉沢の声が、微かに、震えた。
「しかし、当裁判所は、あなたを、この世から、抹殺することを、選びませんでした。それは、あなたを、赦したから、ではない。あなたの、最後の陳述——自分のような子どもが、二度と、生まれないでほしいという、あの願いに、我々もまた、同じ思いを、抱いたからです。あなたは、生きて、償いなさい。そして、生きて、証明しなさい。暴力の連鎖の果てに生まれた者でも、人間で、あり続けられるということを。それが——あなたに残された、たった一つの、道です」
頼本雄二は、被告人席で、声を、殺して、泣いていた。
彼は、深く、深く、頭を、下げた。何度も、何度も。
傍聴席の、被害女児の母親は、複雑な表情で、その姿を、見つめていた。赦しでは、なかった。だが、彼女の目にも、静かに、涙が、伝っていた。
閉廷が、告げられた。
エピローグ それぞれの法廷
裁判は、終わった。
だが、裁いた者たちの、それぞれの人生は、続いていく。彼らは、この法廷で、被告人を裁くと同時に、自分自身を、裁いた。そして、その、判決を、これからの人生で、生きていかねば、ならなかった。
三留信之助は、判決の後、久しぶりに、娘のもとを、訪ねた。長い間、避けてきた、娘の家を。彼は、玄関先で、うつむく娘を、ただ、静かに、抱きしめた。疑うことを、やめよう、と、彼は、思った。真実が、どうであれ。娘もまた、あの日、救われなかった、一人の、追い詰められた、母親だったのだ。裁くのでは、なく、支えよう。三留の、二十年の呪縛が、静かに、溶けていった。
七種清美は、弟の手を、これまで以上に、強く、握るように、なった。世間が、どう見ようと、私が、あなたの味方だ。そう、心に、誓って。
魚谷悠生は、妻を、病院へ、連れて行った。一人で、抱え込ませない。二人で、この、育児の、地獄を、乗り越えよう。彼は、妻の目の、うつろな光が、消えるまで、傍にいると、決めた。連鎖は、ここで、断ち切る。自分たちの、代で。
星宮ルイは、少しだけ、変わった。男という存在への、嫌悪は、消えない。だが、彼女は、憎しみだけで、人を、見ることの、危うさを、知った。見て見ぬふりを、しない人間で、ありたい。かつて、誰も、彼女を、助けなかった、あの朝のことを、忘れないために。
真島サナエは、精神科病棟の、仕事を、続けた。擦り切れながらも。彼女は、知っていた。自分が、支えている、あの八人の患者たちも、一歩、間違えれば、被告人に、なり得たことを。そして、自分の、献身こそが、その連鎖を、断ち切る、最後の砦であることを。
道永光夫は、元受刑者の雇用を、やめなかった。むしろ、より、深く、彼らと、向き合うように、なった。更生を、信じることの、難しさと、それでも、信じ続けることの、尊さを、彼は、この裁判で、学んだのだった。
植島貞雄は——法廷を出た後、初めて、精神科の、専門医の、扉を、叩いた。一人で、抱え込むのを、やめた。自分の、闇と、専門家の助けを借りて、向き合う。それが、自分が、被告人に、ならないための、たった一つの、道だと、悟ったから。彼は、行動に、移さなかった、こちら側に、居続けるために、初めて、助けを、求めた。
女性裁判官・神野智子は、右陪席の近野に、暴露された、恋を、隠すのを、やめた。彼女は、恋人の、小中隼人とともに、堂々と、生きることを、選んだ。近野欣次郎は、自らの、醜い嫉妬を、評議室で、さらけ出したことを、恥じ、そして、どこかで、救われてもいた。彼は、神野に、静かに、詫びた。二人の間の、氷は、完全には、溶けなかったが、少しだけ、その厚みを、減らした。
検察官・登坂時次郎は、判決の後、いつもより、早く、家に、帰った。玄関で、彼を、迎えた妻の顔を、彼は、しばらく、黙って、見つめた。それから、何も言わず、その痩せた肩を、そっと、抱き寄せた。妻は、驚いたように、身を、硬くし、やがて、彼の胸で、静かに、泣き始めた。我が子を、死なせて以来、彼が、妻を、こんな風に、抱きしめたのは、初めてだった。裁くことの、重さを、知った、この裁判が、皮肉にも、この、罪を分かち合う夫婦の、凍った時間を、溶かしたのだった。登坂は、翌日から、また、厳しい検事に、戻った。だが、その厳しさの、奥に宿るものは、以前とは、少しだけ、違っていた。
弁護人・高坂壮太郎は、判決の後、久しぶりに、兄の入院する、病棟を、訪ねた。虚ろな目を、宙に、さまよわせる兄の、手を、握り、高坂は、静かに、語りかけた。この裁判のことを。一人の、追い詰められた男が、それでも、生きて償う道を、与えられたことを。兄には、その言葉が、届いているのか、わからなかった。だが、高坂は、これからも、被告人のような、追い詰められた者たちの、傍らに、立ち続けようと、心に、誓った。それが、兄を、そこまで、追い詰めた、この社会への、彼なりの、闘い方だった。
そして、裁判長・吉沢考太郎。
彼は、判決の後、心を閉ざした、孫娘のもとを、訪ねた。そして、初めて、孫娘に、語りかけた。あの、連れ去られかけた日のことを。怖かったね、と。もう、大丈夫だよ、と。〈氷の吉沢〉が、初めて、孫娘の前で、涙を、見せた。孫娘は、その日、二年ぶりに、祖父の胸で、声をあげて、泣いた。
法廷は、狂った。
九人の、裁く者たちの、闇が、共鳴し、密室は、狂気と、涙の、坩堝と、化した。
だが、その狂気の果てに——彼らは、それぞれ、自分自身の、人生の法廷で、静かな、判決を、下したのだった。
裁くとは、断罪することでは、ない。
理解し、そして、連鎖を、断ち切ろうと、決意することだ。
あの、閉ざされた評議室で、十一人の魂が、たどり着いた、たった一つの、真実。
それを、彼らは、生涯、忘れることは、ないだろう。
鉛色だった、あの朝の空は、いつしか、晴れて、いた。
裁判所の、灰色の庁舎を出た、裁く者たちの、頭上には——澄んだ、青空が、静かに、広がっていた。
【完】
あとがき
この物語を書きながら、わたしは幾度も、自らに問いました。もし自分が、あの評議室にいたら、被告人を、どう裁くだろうか、と。有罪か、無罪か。極刑か、更生か。何度考えても、簡単な答えは、出ませんでした。
それこそが、この物語の、核心です。人が人を裁くという行為には、本来、これほどの重さと、困難が、伴うはずなのです。裁く者たちが、それぞれの人生の闇を抱え、被告人の中に、自分自身を見てしまう――その痛みを通してしか、たどり着けない真実が、あると信じて、筆を進めました。
被告人・頼本雄二の犯した罪は、消えません。奪われた命は、還りません。それでも、彼の最後の願い――自分のような子どもが、二度と生まれないでほしい――という叫びが、読者の胸に、何かを残せたなら、これ以上の喜びはありません。暴力の連鎖を、どこかで断ち切るのは、傍観者ではなく、手を差し伸べる一人の人間なのだと、信じています。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
こいうた