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ヨーロッパがひざまずいた蛮族の王「フン族のアッティラ」について【世界史】

    前々から気になっていたフン族のアッティラについて、自身の整理をかねて書いてみました。

    アッティラとは

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    馬上のアッティラ/ウジェーヌ・ドラクロワ、 1843~1847年頃

    世界史のなかでも無二の存在感を放つ、「アッティラ」。

    古代末期のヨーロッパに突如として東方から謎めいた騎馬民族が来襲し、西洋世界の秩序は壊滅。その中心にいたのが、フン族の王アッティラです。

    人々はアッティラを「神の鞭」と呼び、まるで天に罰せられるかのような恐怖を抱きました。彼は単なる征服者ではなく、ローマ世界にとって“世界の終わり”を象徴する存在だったのです。

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    フン族を率いイタリアを蹂躙するアッティラ/ウルピアノ・チェカ、1894年

    力で恐怖を与えただけではありません。その存在そのものが、「文明と野蛮」、「ローマと非ローマ」、「キリスト教と異教」、さらには「ヨーロッパとアジア」という異世界の象徴でもあったのです。

    後世においてもその名は恐怖と畏敬を込めて語り継がれ、ヨーロッパの記憶に深く刻まれています。そしてどういうわけか、悪魔のよう恐れられもすれば、英雄として崇敬されてもいるのです。

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    中世の年代記に描かれたアッティラ/『Chronicon Pictum』、1358年

    あまりにも異質。あまりにも強烈。そして、ミステリアス。

    近年、この謎に包まれた蛮族の王について、出自や名前の由来の新説が登場し、新たな実像が浮かび上がっています。

    ヨーロッパを蹂躙した謎の騎馬民族「フン族」

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    フン族の戦い/デ・ノイビル、1872~1875年頃

    フン族とは、4世紀のヨーロッパに突如として東方から現れた、謎の騎馬民族です。370年頃にヴォルガ川流域に現れ、わずか数年でドナウ川東岸に進出しました。

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    ローマからパンノニア(現在のハンガリー)を奪うフン族/『Chronicon Pictum』、1358年

    それから約半世紀の間に、フン族は圧倒的な勢いで東欧一帯に勢力を拡大しました。ローマが「蛮族」と恐れたゲルマン人ですら、フン族の襲来に恐怖し、追い立てられるようにローマ領内へと雪崩れ込んでいったのです。

    この混乱が引き金となり、ヨーロッパは数世紀にわたる動乱の時代に突入しました。古代ローマ時代の終焉をもたらしたきっかけは、おそるべきことに、フン族襲来の“余波”だったわけです。

    フン族は弓と馬を駆使した高速戦術で、西洋の戦争観を根底から覆しました。4世紀のローマの歴史家アンミアヌス・マルケリヌスは、彼らを「野蛮だが機敏で、雷のように襲う存在」と記録しています。

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    ローマを侵略するフン族/ウルピアノ・チェカ、1887年

    マルケリヌスはさらに「野獣のような外見で、生活を馬上で行い、生肉を食べる」と記し、明らかにヨーロッパ文明とは異なる存在として描いています。

    フン族のルーツについては諸説あり、古代中国を脅かした「匈奴」と関係があるのでは、という説も古くから論じられてきました。

    まさかここで「匈奴」の名が出てくるとは、意外ですね!

    近年のDNA解析や言語学の知見も、モンゴル高原やシベリア南部との系統的なつながりを示唆しています。フン族は、東洋史と西洋史をつなぐ存在だったのです。異質にみえるのは、当然かもしれませんね。

    ヨーロッパが震えた異形の王

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    アッティラの饗宴。画面右で書物を持つ人物はローマの使節プリスクス/タン・モール、1870年

    アッティラは、出身地も生年も性格も、謎だらけです。「アッティラ」が本名なのかどうかすら、定かではありません。

    後世の記録ですが、中世ハンガリーの年代記は、アッティラは410年前後に生まれたと伝えています。

    アッティラと同時代の記録は、東ローマの使節としてアッティラと会ったプリスクスによるものです。それによると、434年頃に伯父にあたる先王ルーアが死去し、アッティラは兄ブレダと共同でフン族の王に即位しました。

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    東洋的な風貌で描かれたアッティラ/『エッダ』の挿絵、1893年

    彼の風貌は「黒く小さな目、広い胸、がっしりとした体格、短い首」とあり、当時のローマ人から見ても異質で印象的だったことがわかります。

    性格については、「無慈悲な略奪者」とされる一方で、謙虚で質素を好み、客人をもてなす一面も伝えられています。外交の場で見せた知略や礼節は、暴君という単純な枠では捉えられません。

    この多面性こそが、アッティラ最大のミステリーであり魅力かもしれません。

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    ハンガリーの神話に登場するハヤブサ「トゥルル」の盾を構えるアッティラ。トゥルルの語源は、一説にはモンゴルに遡るとされる/『Chronicon Pictum』、1358年

    彼の名「アッティラ」は、従来はゲルマン系のゴート語で「小さな父」「尊敬すべき父」といった意味だとされてきました。

    しかし近年では、トルコ系やモンゴル系、シベリア系の言語に由来する可能性も示唆されています。こういった新説は、「フン族のルーツは遥かアジアの草原地帯にある」とするDNA解析の知見とも一致します。

    戦術も交渉術も超一流

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    サン・ピエトロ大聖堂のレリーフ「レオ1世とアッティラの会見」/アレッサンドロ・アルガルディ、1646~1653年

    434年に兄と共同で王位に就いて以降、アッティラはおよそ20年にわたり勢力を拡大し続けました。ハンガリー平原を拠点に、東西ローマの領土を思うままに奪い、ゲルマンの諸部族を服属させながら、フン族は多民族帝国へと変貌していったのです。

    アッティラの強さは、武力だけではありませんでした。敵を完全に破るのではなく、恐怖と交渉を巧みに使い分け、抜け目なく持続的な支配と利益を引き出したのです。

    特に東ローマ帝国とは、443年と448年の2度にわたり講和を結び、莫大な貢納金や罰金などの補償を押し付けました。これらの講和は、事実上、東ローマがアッティラに屈服したに等しい内容だったのです。

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    アッティラと教皇レオ1世の会談/『Chronicon Pictum』、1358年

    アッティラは西ローマに対しても手腕を発揮します。452年には、西ローマ勢力圏のイタリア北部へ侵攻。

    アキテーヌの聖プロスペルの記述によると、教皇レオ1世が自らアッティラのもとに赴き、ローマへ侵攻しないよう求めたとされます。この逸話は、ヨーロッパの歴史と信仰に深く刻まれる伝説となりました。

    近年、木の年輪の研究から、アッティラの時代にハンガリー一帯で深刻な干ばつがあったことがわかってきました。フン族のすさまじい侵略の陰には、避けられぬ気候変動要因があったのかもしれません。

    兄ブレダの謎

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    アッティラとブレダ
    By Tulipán Tamás - FAL, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10139623

    アッティラには、ブレダという兄がいました。二人は共同の王としてフン族を統治していたとされます。

    プリスクスによる同時代の記録にも、兄弟そろってローマと交渉する場面が登場し、当時のフン族が兄弟制での共同統治を採っていたことがうかがえます。

    しかし、ブレダは445年頃に急死し、以後アッティラが単独で権力を掌握することになります。ちょうど東ローマへの遠征が大成功に終わり、ガリア・イタリアなど西ローマへの進出を始める転換点でした。

    「狩猟中にアッティラがブレダを暗殺した」とする伝承も多く、さらに「ブレダの遺体は川に投げ込まれた」とも伝えられています。

    真相は知るべくもありませんが、古今の独裁者につきものの冷徹な所業を、アッティラも行ったのでしょうか…。

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    ブダの街の木版画/『ニュルンベルク年代記』、1493年

    ちなみに、ブダペストのブダ地区はブレダにちなんだ名前とされますが、どうやらこれは中世の年代記の作り話のようです。ただ、この逸話が定着したため、ハンガリーではブレダはよくブダと呼ばれるのです。

    神や人々の心をどう考えていたのか

    アッティラはときおり妙に人間くさい一面も見せました。

    時期は定かではありませんが、あるとき、羊飼いが偶然見つけた古びた剣を献上。すると、アッティラはそれを神から与えられた印と解釈し、戦いでの勝利を確信したと伝わっています。

    この逸話は同時代のプリスクスが記録しており、後世にはさらに尾ひれがついて伝説化していったのです。アッティラが神の存在を認めていたとは、意外が気がしますが…。

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    左から西ローマの皇帝ウァレンティニアヌス3世、母ガッラ・プラキディア、皇女ホノリアと伝わる(諸説あり)/サンタ・ジュリア博物館所蔵のメダリオン

    単独統治になった後の450年には、西ローマの皇女ホノリアから指輪と手紙が届きました。ローマ元老と結婚させられそうになったホノリアが救援を求めたのです。

    アッティラはこれを皇女から自分への求婚と解釈し、なんと持参金として西ローマの半分を要求!

    一見すると滑稽な勘違いのようですが、もしかするとこれはアッティラの策略かも? 実はこの年、アッティラは西ローマへの侵攻を開始したところだったのです。皇族からの救援要請は、攻め入る口実としてまさに渡りに船だったでしょう。

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    452年、アッティラはイタリアのアクイレイアの街を包囲し、破壊。このとき市民が逃げ込んだ海辺がヴェネツィアとなった/『Chronicon Pictum』、1358年

    こうした逸話は、アッティラが力で支配するだけでなく、神や皇帝の権威を取り込もうとしたことを物語っています。

    彼自身がそういった存在を尊重していたのかどうかはともかく、どうやって人々の心をつかむか、ということにも意識を向けていたのかもしれませんね。

    ホノリアからの手紙を受け取った後、アッティラは西ローマへの侵攻を本格化しました。こうして452年、ついに教皇レオ1世自らがアッティラと会談して退去を求めることになったのです。

    不可解な最期

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    アッティラの暗殺/イルレシュ・オーデン(1877~1946)

    ヨーロッパを震撼させたアッティラの死は、あまりに突然でした。

    453年、彼はゲルマン系の若い妃イルディコと結婚します。西ローマへの侵攻で一定の成果をあげた後、西方のゲルマン勢力との関係を深めるための結婚だったとも考えられています。

    その婚礼の日に、不可解な出来事が起きたのです。

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    アッティラの死/ペシカ・フェレンツ(1856~1925)

    アッティラの最期を語る最古の情報は、6世紀の歴史家ヨルダネスの記録。「婚礼の夜、大酒に酔い、深い眠りに落ち、鼻からの出血により窒息して死んだ」と伝えています。

    酔っぱらったからといってこのような死に方をするものでしょうか…? その不可解さから、後世には「暗殺説」も生まれました。

    アッティラの遺体は極秘裏に鉄・銀・金の三重の棺に葬られ、埋葬した者たちは場所を隠すめに殺されたという伝説が語り継がれています。今もアッティラの墓は発見されていません。

    このような最期と埋葬の謎は、彼のカリスマ性と恐怖の記憶をさらに神秘化する要因となりました。アッティラという存在が、単なる征服者ではなく“伝説の王”として語り継がれてきた理由のひとつです。

    ドナウ川流域での地質調査や地磁気測定を用いた研究は現在も行われており、墓所発見への手がかりをもたらす可能性があると注目されています。

    アッティラに震え続ける世界

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    19世紀のメダリオン。ラテン語で「神の災厄アッティラ」と書かれている/カルロ・ブロギ(1850~1925)

    アッティラの死とともに、彼の王朝は後継者争いと裏切りの渦に飲まれ、もろくも崩壊。ヨーロッパを席巻したフン族の帝国は、あっけなく歴史の彼方へと消えました。

    しかし、アッティラの伝説は、その死後にこそ膨れ上がっていったのです。アッティラの名は人々の記憶のなかで神話と化し、文明を脅かす異民族の王として人々に強烈な印象を残しました。

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    ガリアでローマの村を略奪するアッティラ/ジョルジュ・ロシュグロス(1859~1938)

    アッティラに蹂躙された西ヨーロッパの伝承では、アッティラはしばしば血に飢えた蛮族として語られ、時には子どもを食べるほとんど悪魔のような存在として描かれました。

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    ハンガリーの初代国王として年代記に描かれたアッティラ/『Chronicon Pictum』、1358年

    一方、ハンガリーやトルコ、北欧などではアッティラは古代の英雄であり、民族の始祖とみなされたのです。例えば、11世紀にハンガリー最初の王朝をひらいたアールパード朝は、自分達をアッティラの後裔と位置付けました。

    ハンガリーやトルコでは、アッティラは今でも男性の名前として人気です。

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    大クリルタイ(ユーラシア各国の遊牧民族が集う祭典)の会場に掲げられたアッティラ/ハンガリーのブガチ、2014年
    Készítette: Derzsi Elekes Andor - A feltöltő saját munkája, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=34676072

    近代以降もアッティラは、小説や舞台、映画などで繰り返し取り上げられ、その存在感は人々の関心を惹きつけてきました。

    特に20世紀後半以降、アッティラの“破壊者”というイメージを見直す動きが活発となり、過度に悪魔化・神格化された姿ではなく、時代を切りひらいた先駆者としての魅力が人々の関心をとらえているのです。

     
     
    浅川千(あさかわ ・せん)です。ライターと編集と校正をしています。 自分の興味にしたがい動物的に生きてきた結果、根なし草の人生になりそうな予感を禁じえない昨今。でも神から直接「お前間違っとるよ」といわれない限りやめません。いわれてもやめないかも。

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