
目と目が合って、空気読み。
「──あ」と、おそらく、あの瞬間、三人が同時に思った。
降車ホームへ、快速電車は滑るように入り停車した。
ドアが開く。見えない波に押し出されるように、人の波がホームへ雪崩れていく。
色とりどり、形も様々な靴の群れ。
茶色の革靴、白のスニーカー、黒のローファー、ピンクのサンダル、赤いピンヒールパンプスまで。
その、つま先と踵が入り乱れる先に、落とし穴でも空いているかのように、人混みが避けている場所があった。
ころんとしたフォルムの、白熊のぬいぐるみのキーホルダーが落ちていた。
持ち主は?……たぶん、あの子。
高校生だろうか。紺のブレザー。プリーツ・スカート。揺れるポニーテール。
大きな黒いリュックを背負っている。
まるでブドウの房のように、いくつものキーホルダーがぶら下がっていた。
白熊のぬいぐるみのキーホルダーと目が合った。
置いてけぼりは、悲しいね?
……拾って、追いかけて、あの子に声をかけてあげなくちゃ。
ぽっかり空いた落とし穴へ足を踏み出したその瞬間、わたし以外にも、影が動いた。
右を見た。50代くらいのサラリーマンだ。白のワイシャツ。パソコンが入っていそうな四角い鞄。腕にはグレーの背広をかけている。
左を見た。男子大学生だ。黒のTシャツ。斜め掛けの鞄。手にはハンディファン。
誰が拾って、声をかける?
私か?
………私だ!
どちらの人とも目が合って、その目と目が語り合っていた。
「拾ってあげて」「届けてあげたいけど、ナンパだと思われたくない」「だから、お願い」と。
うむ。わたしは大股の一歩を踏み出して、白熊のぬいぐるみのキーホルダーを掬い上げた。
あの子が人混みに紛れてしまう前に……!
小走りで駆け寄って、彼女の肩越しに声をかける。
「あの、落としましたよ」
女の子は振り向いて、わたしの方を見た。ちょっと、怪訝そうな顔。
白熊を差し出すと、パッと表情が変わった。
慌ててリュックのサイドポケットのあたりをまさぐると、自分が落とし物をしたことに気がついたのだろう。
「あ、ありがとうございます」と、はにかんで、白熊を受け取った。
よかった、よかった。
無事、白熊は持ち主のところへ戻り、わたしは白熊救出隊の任務を終えた。
ちらりと後ろを振り返ると、救出隊のふたりの男性隊員たちはいなくなっていた。
きっと、もう大丈夫だと思ったのよね。
わたしも急がなくては──次の電車が来る。
魔法みたいに消えたふたりを思いながら、乗り換えの電車が到着するホームへ足早に向かう途中、ふと思った。
一瞬間の空気読みで、わたしが彼女に声をかけたけれども、
わたしがこの白熊のぬいぐるみのキーホルダーを拾っていなかった世界線というものも存在したのだろうか。
たとえば、あのサラリーマンが拾ったなら、なんと言って声をかけただろう?
困った顔をしていた男子大学生は、照れくさそうに白熊を彼女に届けるのだろうか?
ちょうど、電車の移動時間のお供に、『魔法使いはだれだ』(徳間文庫)を読んでいたところだった。
ダイアナ・ウィン・ジョーンズの《大魔法使いクレストマンシー》
シリーズの一冊。
このシリーズの世界には、「関連世界」と称される第一系列から第十二系列までの平行世界があって、さらに、それぞれの系列世界が、だいたい九つの世界に分かれている。
歴史上の大きな分岐点が訪れた時、世界は分かたれるらしく、
ドラゴンが生息していて魔法が当たり前に存在してる世界や、
反対に魔法が禁じられていて魔法使いが火あぶりにされる世界があったりする。
いくつものパラレルワールドには、自分と同じ人物がそれぞれ存在するのだけれども、まれにその命がひとりに集約することがあるのだ。
九つの命をもった人物は、強大な魔力をもった大魔法使い「クレストマンシー」となり、世界を渡る力を使って、魔法が正しく使われているか監視する役目を負う。
……そんな物語を読んでいたものだから、ふいに、わたしが白熊を拾わなかった世界線を想像してしまった。
その場合、置き去りにされた白熊は、いったい、どこへ行くんだろう?
ほかの誰かに助けてもらったりするのかな。
困ったときに助けを呼ぶ呪文は、「クレストマンシー!」
こっそり呟いてみたけれども、白熊は救出されたばかりだったから、大魔法使いはやってこなかった。
けれども、なんだか気分が明るくなって、足取りが軽くなったから、
きっと、物語の魔法は生き続けているんだと思う。