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死者たちは、私の歩幅の中にいる

    ――リハビリテーションという仕事の根底にある問い


    杖の先が、石を打つたびに、小さな振動が腕の奥に返ってくる。

    昨年の夏、六十九歳の身体で、私は出羽三山を歩いていた。

    足元の石を一つずつ確かめ、杖を突き、息を整える。
    若い頃のようにはいかない。
    一歩を出すたびに、身体の中の時間が遅くなっていった。

    杉の葉の匂いが、湿った空気の中に混じっていた。

    杉木立のあいだを、風が抜けた。

    汗のにじむ額をぬぐい、立ち止まると、不思議な気配がした。

    ひとりで歩いているのではなかった。

    妹がいる。
    母がいる。
    父がいる。

    彼らは、もうこの世にはいない。
    それでも、今も、私の身体の片隅に残っている。

    妹の最後の声。
    母の変わり果てた姿。
    父の焼けただれた背中。

    死者は、過去にいると思っていた。
    もう会えない。
    写真の中にいる。
    仏壇の前や命日の静けさの中でだけ、こちらを向く。

    けれど、山の中では違った。

    死者は、私の歩幅の中にいた。

    一歩出すごとに、一緒に歩いていた。

    そもそも自分が長く生きるとは思っていなかった。

    死にたいと思っていたわけではない。
    ただ、自分の人生がこの先も老いながら続いていくという実感を、かすかにも持てずにいた。

    妹を失い、母を失い、父の背中に戦争の傷を見て育った。
    命は、当たり前のように明日へつながらず、突然、断ち切られるものだった。

    昨日までそばにいたのに、今日はもう影もない。
    ただ、そこにいたはずの空気だけが、静かに残っている。

    そのことが、胸の奥底に沈んでいた。

    悲しみは頭では処理できなかった。
    気づくと、肩に、背中に、鈍い重さが残っていた。

    お兄ちゃん、と呼んでついてきた妹

    妹は、小さい頃は、私の後をついて回る子だった。

    私が歩幅を速めると、妹は小走りになってついてきた。
    追いつくと、少し息を弾ませながら、何もなかったような顔で、また「お兄ちゃん」と呼んだ。

    その声は、今でも響くことがある。

    あるとき、二人でつり橋のある河原へ遊びに行った。
    妹はそこから落ち、頭を打った。
    傷は、陥没して見えるほどだった。

    親に叱られるのが怖くて、妹に「告げ口」しないよう言いつけた。

    数日後、それは親に知られ、病院へ連れられて行った。

    このまま放っておいたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない——あとで親から、医師からそう言われたと聞かされた。

    取り返しのつかないことって、何?

    意味など、子どもには分からなかった。
    けれどその言葉は、棘のように私の中に残った。

    身体には、戻れる地点と、戻れなくなる地点がある。
    境目を、まだ知らなかった。

    その棘は、後になって別の形でも残った。
    私は公立高校へ、妹は私立高校へ進んだ。
    その違いさえ、いつのころからか、自分の責めのように感じるようになっていた。
    消えることなく、ただ静かに、形を変えながら。

    それから年月が経ち、私が他県で学生生活を送っていた頃、母から知らせが届いた。

    妹が入院しているという。
    原因不明の高熱が続いていた。

    正月に実家に帰ったときには、あんなに元気そうだったのに。

    面会に行くと、顔は赤く、熱に蒸されていた。

    病室に入ると、かつての妹の部屋にはない臭いが鼻をついた。
    薬に侵された体臭と、長い闘病の空気が混ざっていた。

    二度目に訪ねたとき、ベッドの上で天井を見ていた。
    顔の赤みが消えていた。
    声をかけても目は動かなかった。
    ただ、二階にいるはずのない人が見えると言った。

    下血があり、「恥ずかしい」からと席を外すよう言われた。

    部屋を出た。

    廊下を歩く足が、せかされて自然と速くなっていた。

    部屋へ戻ると、様子が違っていた。
    尋常ではなかった。

    主治医が呼ばれた。
    医師が来た。
    ベッドのそばに立った。
    起き上がった。
    信じられない力で、医師の腕にしがみついた。
    そして言った。

    「助けてください」

    それが、最後の言葉であった。

    時間だけが、進んでいた。

    亡骸のもとへ、妹の同級生だった女子高生が三人、訪ねてきた。
    中学時代にお世話になった英語の先生も来てくれた。
    人が訪ねてくるたびに、妹がもういないのだという現実が、少しずつ身体の中に積み重なった。

    法要の合間にも、その三人はまた訪ねてきてくれた。
    話を聞くうちに、分かったことがある。

    妹は、私のことを自慢にしていたらしい。

    なぜそう思われていたのかは、今もよく分からない。
    ただ、人見知りで控えめだった妹を、近所へも遊び場へも、いつも先頭に立って連れていったことは覚えている。
    妹がかわいかったからだ。

    胸が締め付けられた。

    あのつり橋の日のことを思った。
    内緒にしろと言いつけたことを。
    自慢の兄である資格などないと思った。

    妹とのつきあいは、十七年だった。
    物心ついた歳からとなれば、もっと短い。

    遺骨となった妹を残して、学生生活へ戻った。

    下宿へ戻っても、しばらく妹の声が残っていた。
    部屋の中にいるはずがないのに、「お兄ちゃん」と呼ばれた気がする夜があった。

    亡くなる前の年、妹が下宿へ遊びに来たことがあった。
    同僚が「ちょっと借りるね」と言って、喫茶店に連れ出してくれた。
    大人扱いされた妹は、帰ってきてから少し誇らしげだった。
    その夜、妹は私の下宿に泊まり、私は同僚の部屋で一夜を過ごした。

    そういう温かい記憶が、仲間たちの中にも残っていた。

    思い出は、自分の中だけに残るものではない。
    他人の中にも、ひっそり残っている。

    それでも、喪失感は長く続いた。

    あのときは、医療を責めていたのではない。
    命を引き戻せなくなってしまうことが、ただ怖かったのだと思う。

    妹は、助けを求めて起き上がった。
    だが、もう間に合わなかった。
    その姿は、私の中に焼きついた。

    人は、どこまでなら戻れるのか。
    どこからなら、もう一度立ち上がれるのか。
    そして、どこから先は、間に合わないのか。

    妹の「助けてください」は、私の中で終わらなかった。
    その声に、どう応えればよかったのか。
    どうすれば、誰かがまだ戻れる地点にいるうちに手を伸ばせるのか。

    その問いが、後の私をリハビリテーションの仕事へ向かわせたのだと思う。

    当時は、商品先物取引の会社に就職していた。
    数字が上がった日に、反対側で誰かの暮らしが傾いていた。
    損をした客に、救いの手を差し伸べることができなかった。
    生身の体に触れることなく、画面の数字だけが動いていた。
    胸の奥がざらついた。
    これを一生の仕事にしていいのかという思いが、消えなかった。

    そんなとき、学生時代の部活の先輩でもある医師が訪ねてきた。

    「これから必要とされる仕事だから、やってみないか」

    その言葉を聞いたとき、妹の声が重なった。
    肩の重みが、少し変わった気がした。
    背筋が立った。
    数字ではなく、生身の体を支えていく。
    その効力感が、背中を押した。
    助けを求める手に、今度は応えられるかもしれない——自分の出番だと思った。

    入社一年にも満たないうちに辞表を出し、わずかな受験勉強の後、運よく合格した。
    貧乏一家ゆえ、再び親戚の資金援助を受けて、学生生活を始めた。

    しかしその二年後、母が逝った。

    杖が、石を打つ。
    汗が目に染みた。

    母の、変わり果てた姿

    母もまた、早くにこの世を去った。

    小さい頃、父に叱られて家の外へ出されたことがある。
    泣くでもなく、意地を張るでもなく、ただ戸口の外に立っていた。
    しばらくすると、母がそっと迎えに来てくれた。
    怒らなかった。
    責めなかった。
    「寒かったろう」とでも言うような顔で、ただ家の中へ戻してくれた。
    家の中は、やはり温かかった。

    遠方から帰省すると、母は早朝でも迎えに来た。
    農作業と家事で疲れていただろうに、疲れた顔を見せなかった。
    お腹がすいたと言えば、負担に感じる表情もなく、ご飯を作ってくれた。

    母のやさしさは、大きな言葉ではなく、いつもそういう手つきの中にあった。

    母は、体が重い、だるいと父に漏らしていたらしい。
    しかし、それが何を意味するのか、誰も気づかなかった。
    私も、教えることができなかった。
    冬の農閑期になってからようやく受診したとき、肝臓にがんが見つかった。

    後になって分かったことだが、早期胃がんだった。
    それが肝臓へ転移していた。
    一か月も経たないうちに、素人目にもわかるほど腫瘍が増殖していた。

    当時話題だった丸山ワクチンを、親戚の援助を受けて東京まで取りに行ったが、効果はなかった。

    危篤の電報が届き、駆けつけた。

    病室に入ると、母の意識はなかった。

    点滴。
    酸素マスク。
    妊婦を思わせるほど膨らんだ腹部。
    心電図モニターの音だけが、規則正しく鳴っていた。

    四十九歳だった。

    あの優しかった母の、変わり果てた姿は、今も忘れることができない。

    妹の葬儀でも、母の葬儀でも、私が喪主を務めた。
    若い身には重かった。
    けれど、重いと口にする余裕もなかった。

    人は本当に大きな出来事の前では、泣き崩れるより先に、やるべきことをやってしまうものなのかもしれない。

    その場を整え、人を迎え、頭を下げる。
    すべてが終わったあとに、ようやく失ったものの大きさに気づく。
    父の方こそ失ったものが大きかったに違いない。

    母の死は、私にもう一つの問いを残した。

    病気になってからでは、間に合わないことがある。
    医師が悪いのではない。
    医学が無力なのでもない。

    そんな仮定に、答えはない。

    けれど、その答えのない問いが、長い年月を経て、私を予防医学へ向かわせた。

    息が上がる。
    足が重い。
    それでも、杖を突いて、歩いた。

    父が残した一言

    二人を失った私を育てたのは、父だった。

    父は、少年の頃に満蒙開拓義勇軍として満州へ渡った。
    帰国直前の空爆で仲間を全員失い、背中から下肢にかけて重い火傷を負った。

    仲間を全員失っても、生き残った人だった。

    帰国後は、傷病兵として未墾の地を開拓しながら過ごし、九歳年下の母と巡り合った。
    生活は苦しく、私が幼い頃、父は何度も出稼ぎへ出た。

    そんな父の背中を見て、育った。

    父が口にした言葉の中で、今も心の奥底に根付いているものがある。

    「金持ちがえらいとは限らない」

    貧しかったけれど、優しくて強い男だった。

    妻を五十代で失い、そこから九十二歳になるまで三十四年間、一人で生き続けた。
    大事な働き手を失いながらも、恩給と援農で農業をつないだ。

    母が逝ってから、実家を訪ねてくる人が激減した。
    明るい母がいたから、人が集まっていたのだと、そのとき初めて気づいた。

    家族の借金問題を相談したとき、父は「土地を売ってでも返済に充てる」と言った。
    そこまでしてもらうことはなかったが、その言葉は今も残っている。

    仲間を全員失いつつ生き延びた人間が、それでも家族のために、そこまで言う。

    父は、あの戦場で生き残ったが、無傷ではなかった。

    子どもの頃、何度も父の背中を見たことがある。
    風呂場で名前を呼ばれると、頭が泡だらけになった。
    沸かした湯が容赦なく顔に浴びせられ、目を開けようものなら痛みが走った。
    そんな時間の中で、肩から腰にかけて、皮膚の色と質感が変わっているのが見えた。
    父は何も言わなかった。
    私も、何も聞かなかった。

    身体には戦争が残っていた。
    心にも、きっと残っていたはずだ。

    父はそれを声高に語る人ではなかった。
    ひたすら、黙って働き、黙って耐え、黙って家族を支えた。

    今になって思う。
    重い火傷を負いながら、それでも土を耕し続けた父の姿を、幼い目で見ていた。
    傷が治ったから立ち上がったのではない。
    傷を抱えたまま、翌朝また畑へ出た。
    その背中が、私にとって最初のリハビリテーションだったのかもしれない。

    リハビリテーション医療の仕事を始めてから、多くの人の身体を見てきた。

    脳卒中の後遺症を抱えた人。
    骨折の痛みをこらえながら立とうとする人。
    認知症を抱えながらも、昔の歌に反応して足を踏み出す人。

    完全に元通りになるわけではない。

    傷も、麻痺も、痛みも、記憶の不確かさも、生活の不自由も、残る。

    それでも、手すりを握る指の爪先が白くなる。
    膝が小さく震える。
    立ち上がる直前、一瞬、息を止める。

    もう一度、床を踏みしめる。

    一歩の先に、台所がある。
    窓がある。
    いつもの椅子がある。

    ある日、患者さんが手すりへ手を伸ばした瞬間、あの病室が重なった。
    医師の腕にしがみついた妹の手が、見えた気がした。
    助けを求める手と、立ち上がろうと引く手は、同じ形だった。

    見るたびに、父の背中を思い出した。

    人は、傷が消えたから立ち上がるのではない。
    傷を持ったまま、立ち上がるのだ。

    父が私に教えたのは、そういう強さのあり方だったのかもしれない。

    原っぱで、はしゃいでいた

    二人の死があって、それでも誰かと生きようとした。

    妻との出会いは、不思議な縁からだった。

    同じ大学に通っていたが、まともに口をきいたことはなかった。
    夏のある旅行でそばに座り、一言を漏らしたことがある。

    「長く生きられない気がする」

    なぜそんなことを言ったのか。
    ただ、打ち解けやすかったのだ。

    後に、妻から自動車の運転を教えてほしいと連絡が来た。
    看護の夜勤明けに、安全に帰りたいのだと言った。

    ドライブを重ねるうちに、妻がよく話す女性だと分かった。
    口下手な私とは対照的に、臨場感のある話を次々と展開した。
    飾り気はないが、黙って聞いていても自然と引き込まれた。

    ある日、ドライブの途中で原っぱに立ち寄った。

    初秋だった。

    空気に、ほんの少し冷たさが混じっていた。

    歩いていくと、草が足首を時折撫でた。

    妻は、何がそんなにおかしいのか、両手を広げるようにして、原っぱの中で笑っていた。
    微笑みの声が、原っぱに広がった。

    子どものように、という言い方は少し違う。
    その人は、その人のまま、無防備に笑っていた。

    その姿を見て、ああ、この人となら生きていけるかもしれない、と思った。

    それが、求婚への引き金になった。

    後に妻は言った。

    「あの時の言葉が、ずっと気になっていた」

    旅行先で漏らした、「長く生きられない気がする」という一言を、妻はずっと覚えていたのだ。

    思えば、二人を引き寄せたのは、華やかな何かではなかった。
    互いの中にあった孤独や不安、どこか危ういものへの感受性が、二人を近づけたのかもしれない。

    妻と出会ったことで、少しだけ未来を信じようとした。

    長く生きられないと思っていた人間が、誰かと生きていくことを選んだ。
    それもまた、一つの「立ち上がる」だった。

    けれど、死者を背負っている人間は、生者をまっすぐ抱きしめることが下手になることがある。

    死者は今を語ることがなくても、生者は語るからついていけないことがある。

    守りたいと思いながら、私は距離を置いた。
    傷つけたくないと思いながら、本音を言わなかった。
    失うことが怖くて、近づききれなかった。

    そうして、同じ屋根の下にいながら、互いの内側にあるものが少しずつすれ違っていった。

    妻は廊下であまりすれ違おうとしなかった。
    通り際では自然と身体が壁側へ寄った。

    手を伸ばそうとすれば、腕が重くなった。
    立ち上がる直前、人は息を止める。

    いつの頃からか、夜、隣の部屋から妻の声が聞こえるようになった。
    誰かと話しているのだろう。
    私は何度も足を止めたが、その声の方向へ踏み込む言葉が出なかった。

    立っている患者の膝が震える。
    妻の部屋の前で立ちすくんでいた私の足も、同じだった。

    娘たちが独立してから、妻は家を出た。

    離婚ではない。
    ただ、すでにあった距離が、形になっただけだった。

    その経緯を、ここに詳しく書くつもりはない。
    これは、誰かを裁くための文章ではない。
    ただ、多くの後悔が残った。

    死者とともに生きることと、生きている人のそばにいることは、同じではなかった。
    私はそのもどかしさを、分かっていなかった。

    死者の声には耳を澄ませてきた。
    けれど、生きている人の声を、どれだけ聞けていたのだろう。

    別居しているという現実は、まだ終わっていない。
    傷を抱えたまま、立ち上がる時を待ち構えているのかもしれない。

    引きずるのではなく、背負う

    過去を引きずっている、と言う人もいるかもしれない。

    しかし最近、「引きずる」と「背負う」は違うのだと思うようになった。

    妹の死も、母の死も、父の傷も、うまくいかなかった時間も、全部そこにある。

    消えない。
    消したくもない。

    それは、自分が生きてきた証だから。

    患者さんは、病気や怪我をなかったことにはできない。
    事故の前に戻ることはできない。
    若かった頃の身体に戻ることもできない。

    だからといって、終わりではない。

    ベッドの端に腰を移す。
    足裏を床に置く。
    手すりをつかむ。
    肩がわずかに前へ傾く。
    重さが、足へ移っていく。
    身体が持ち上がる。

    その小さな動きの中に、その人の人生がある。

    私自身の歩幅の中にも、死者たちがいる。

    それでも、今日がある

    今も、人がふたたび、床を踏んばろうとする現場にいる。

    病院で、施設で、地域で、人が弱り、迷い、それでも次の一歩を探すのを見ている。

    そして今、私の関心は、倒れた後よりも、倒れる前の身体へ向かっている。

    傷を持ったまま立ち上がる人の、途方もない勇気を見てきた。
    だからこそ、思う。
    彼らがこれ以上の重さを背負わずに済むよう、もっと手前で引き止めたい。

    妹を救えなかったあの日から、ずっと「間に合う」ということを考えてきたのかもしれない。

    病気になってからでは、間に合わないことがある。
    医師のせいでも、医学の無力のせいでもない。

    それでも、命には、引き返せなくなる地点がある。

    もっと前なら。
    小さな不調に気づけるところまで戻れたなら。
    食べること、眠ること、体を動かすこと。
    毎日の中にある小さな選択を、少しだけ変えることができたなら。

    できることがあったのではないか。
    ただ、どうにもならないことも、ある。

    そこで、自分の身体で試してみることにした。

    その頃、体重は九十キロ近くになっていた。
    立ったまま靴下をはくことができなかった。
    それでも、予防医学という新しい問いへの情熱だけは、消えなかった。

    放っておけば、疲れやすく、回復も遅い。
    けれども、きちんと向き合えば、まだまだ応えてくれる。
    そんな自分が、そこに立つと、不思議と胸部が持ち上がる。

    医師の指導でカロリーを減らした。
    身体は応えてくれなかった。
    別のやり方で、日々の生活と身体を突き合わせた。
    そのとき初めて、応え始めた。

    ある朝、患者さんが言った。

    「昨日、階段を楽々上れました」

    小さな一言だった。
    けれど、その顔に浮かんだ表情を、忘れられない。
    二週間前は、二足一段でようやくだったのに。

    問いは、やがて自分自身の身体へ向かった。
    実践するうちに変わり、それが、確信になった。

    70歳になった今も、その問いの続きを生きている。

    昨年、ひとりで出羽三山を回った。

    数日かけて歩きながら、妹のことを思い、母のことを思い、父のことを思った。
    事情があって別れを告げられなかった人たちのことも思った。
    山が、その別れの代わりになった。

    死者を忘れるためではなかった。
    ともに、歩きたかったのだと思う。

    では、死者とともに歩くとは、どういうことなのか。
    山の中で問い続けた。

    妹が生きられなかった時間が、娘たちの中に引き継がれている。
    母が見ることのできなかった景色が、孫の目の中にある。
    父が一人で歩き続けた三十四年に比べれば、私の一人の年月は、まだほんのひと握りにすぎない。
    それでも父は、その先をさらに生き抜いた。
    死者は過去にいるのではない。
    形を変えて、今も続いている。

    息を整えた。

    杖の先が、また石を打つ。
    腕に振動が返ってくる。
    息が上がる。
    足元の石を確かめる。

    妹がいる。
    母がいる。
    父がいる。

    遠い過去にいるのではない。
    私の歩幅の中にいる。

    今日も、歩いている。

     
     
    健康とは、 何かを足すことではなく、 自分を静かに整えること。 《揺らぎの国の食養学》は、 揺らぎの中で澄む暮らしを 見つめ直す試みです

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