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羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

羅(ら、うすもの)は、日本の染織史において、主として絹糸を用い、経糸を互いに絡ませながら緯糸を通して織る、薄く透けた絡み織の織物である。網のように織り目が開き、文様を織り出したものは文羅(もんら、紋羅とも)、文様のないものは無文羅(むもんら)と呼ばれる[1][2]。

歴史的な「羅」には、紗や絽を含む薄手の絹織物一般を指す広い用法と、経糸を複雑に絡ませた特定の織物組織を指す狭い用法がある。このため、中国や朝鮮半島の史料・出土品に見える「羅」が、日本の羅と同じ素材、織り方、製作技法を持つとは限らない。また、南米などにも類似した絡み織があるが、それらが現地で「羅」と呼ばれていたわけではない。本項では日本における羅を中心に扱う。

名称と定義

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「羅」は、もとは鳥を捕らえる網を意味した漢語である。網に似た透けた織物を指すようになり、さらに薄い絹織物や上質な絹を表す語としても用いられた[3]。日本語では「ら」のほか、「うすもの」とも読まれる。

広義の羅は、紗や絽などを含む、粗く薄く織られた織物の総称である。これに対して狭義の羅は、平行に並ぶ経糸が交互に隣の経糸と絡み合い、その絡みを緯糸によって支える組織を指す[1]。

狭義の羅は、同じく絡み織に属する紗や絽とは、経糸の動かし方によって区別される。紗は、2本の経糸を一組として絡ませながら緯糸を通す、比較的単純な組織である[4]。絽は、経糸と緯糸を平織りにした部分と、2本の経糸を絡ませた部分を一定の間隔で繰り返す組織であり、平織りにする緯糸の本数によって三越絽、五越絽などと呼ばれる[5]。これに対して羅では、経糸が隣り合う複数の経糸と絡み合い、網目や幾何学的な文様を作る。

ただし、「紗は経糸2本、羅は3本以上」と経糸の本数だけで一律に区別することはできない。日本の有職織物では、振綜(ふるえ)と呼ばれる特殊な装置を用い、経糸を2本または4本動かして幾何学的な文様を織り出すものが羅とされる一方、中世に普及した経糸を3本動かす組織は、羅の一種であると同時に顕紋紗(けんもんしゃ)とも呼ばれた[6]。したがって、羅・紗・絽の名称は、経糸の本数だけではなく、経糸の動かし方、絡ませ方、文様の作り方などを含む歴史的な分類として理解する必要がある。

分類や名称は地域によっても異なる。例えば朝鮮半島の伝統的な織物分類では、3本または4本の経糸を一組として絡ませるものを羅、2本のものを紗とする[7]。一方、名称に「羅」の字を含む亢羅(こうら、朝鮮語:항라)は、平織りと2本の経糸を絡ませる組織を一定の間隔で繰り返す絽織であり、羅組織には分類されない[8]。このように、「羅」という文字が名称に含まれることだけでは、その織物が日本の羅と同じ組織であるとは判断できない。

羅のうち、経糸の絡ませ方を変えることによって文様を織り出したものを文羅または紋羅という。これは、無地の羅に染色や刺繡で文様を加えたものとは異なる。文様を織り出さないものは無文羅と呼ばれる。正倉院には、菱形や格子状などの文様を織り出した文羅が伝わっている[2]。

日本における歴史

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古代

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羅の製織技術が日本へ伝わった時期や経路は明らかではない。また、初期の羅が大陸からもたらされたものか、日本で織られたものかについても、個々の遺品ごとに検討する必要がある。

推古天皇30年(622年)に製作されたと伝えられる天寿国繡帳の残闕には、刺繡の下地として紫色の羅が用いられている。現存部分には鎌倉時代の補作も含まれるが、紫羅地の部分は日本に伝わる初期の羅と刺繡の例として重要である[9]。

奈良時代には羅の製織が特に盛んになり、各地で織られて装束などに用いられた[3][10]。正倉院には多数の羅が伝わっており、細かく複雑な文様を織り出した文羅は、当時の製織技術が高度であったことを示している[10]。

正倉院の羅には、文様を織り出したもの、染色したもの、帯などに用いたものがある。羅の上に刺繡を施した帯もあり、羅が単なる薄物としてだけでなく、染色や刺繡と組み合わせた装飾的な織物としても使われていたことが分かる[11]。

平安時代から中世

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平安時代以降、羅は貴族の冠や女性装束の裳などに用いられた。冠に用いる羅には有文羅と無文羅の別があり、五位以上は文様を織り出した羅、六位以下は文様のない羅を用いたとされる[12][13]。

愛知県の熱田神宮には、重要文化財「古神宝類」の一部として、「裳 白三重襷文羅織」2腰が伝わっている[14]。そのうち15世紀の作とされる呂号の1腰は、展覧会図録では「裳 白地三重襷模様羅(呂号)」と称されている。これは極細い生糸を経糸とし、やや太い生糸を緯糸として三重襷模様を織り出した羅であり、中世の日本で羅が織られていたことを示す遺品である[6]。中世には、経糸を3本動かす顕紋紗が普及する一方、上代以来の複雑な組織を持つ文羅は次第に粗くなり、精緻な製織技術は衰退した[6][10]。

応仁の乱(1467年–1477年)は京都の高級織物の生産にも大きな影響を与えた。乱後の明応6年(1497年)には、『実隆公記』に、冠師が近ごろ羅を織ることができないと述べた旨の記事がある。このことから、少なくとも当時、冠に用いる羅の製織が困難になっていたことが分かる[10]。

近世

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応仁の乱後に一時織ることができなくなった冠用の羅は、江戸時代初期までには復活していた。増上寺の徳川家霊廟から発見された、寛永9年(1632年)に没した徳川秀忠の冠には、基本的な網目状の羅が用いられていた。このことから、冠用の羅は遅くとも1632年以前には再び織られるようになっていたことが分かる[10]。

ただし、復活した羅は網目が粗く、経糸に比べて緯糸が著しく太いもので、奈良時代の精緻な羅とは大きく異なっていた。基本的な網目状の羅は復活したものの、複雑な文様を織り出す文羅の技術は、江戸時代を通じて復興しなかったとされる[10]。

宮廷では、貞享4年(1687年)の大嘗会再興に伴って、無文羅の製織が復活した。有文の冠は、無文羅に文様を刺繡して作られるようになり、この形式は繁文冠(しげもんのかんむり)と呼ばれた[13]。文様を少なくした冠は遠文冠(とおもんのかんむり)と呼ばれた。繁文冠は文様が密集し、遠文冠は文様が互いに離れていることによる名称である[13]。

近世の有文冠は、羅の組織そのものによって文様を織り出したものではなく、無文羅の上に刺繡を施したものである。この点で、古代・中世の文羅を用いた冠とは製作技法が異なる。

近現代の復元

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大正時代末期以降、西陣の織物技術者によって羅の復元が試みられ、さまざまな羅組織が再現された[1][3]。

喜多川平朗は、正倉院裂などの古代染織品を調査し、羅の復元に取り組んだ。1956年には「羅」の技術によって重要無形文化財保持者に認定された[15]。

北村武資も古代織物の研究と復元に取り組み、羅を現代の工芸作品として展開した。1995年には「羅」の技術によって重要無形文化財保持者に認定されている[16]。これらの復元によって、文様を織り出す羅も現代に再び製作されるようになった[13]。

正倉院の染織品についても、原品の糸、織り方、文様、色彩などを調査したうえで復元模造が行われている。古代の絹糸に近い糸を得るために小石丸の繭を用い、正倉院に伝わる文羅を再現する試みも行われた[17]。

他地域の「羅」と類似織物

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日本の羅を他地域の織物と比較する場合には、名称、素材、織物組織を区別する必要がある。同じ「羅」という文字が用いられていても、時代や地域によって指す範囲が異なる可能性がある。反対に、名称が異なっていても、経糸を絡ませて網目を作る技法が別の地域で独立して生み出されることもある。

中国

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中国では「羅」が、網、薄い絹織物、上質な絹、特定の絡み織など、複数の意味で用いられてきた。羅組織の織物は漢代にはすでに知られていたとされる[1]。

遼代の墓から出土した絹織物には、4本の経糸を所定の角度で互いに絡ませ、緯糸で固定した四経絞羅が確認されている。この織物は家蚕の絹糸で作られ、規則的な網目を形成していた[18]。ただし、これは個別の遺品について素材と組織が確認された例であり、中国で「羅」と呼ばれたすべての織物が同じ組織であったことや、日本の羅と直接の系譜関係を持つことを示すものではない。

朝鮮半島

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朝鮮半島でも「羅」と分類される古代の織物が出土している。百済の古墳や寺院跡からは、冠に付着した羅や織物片が発見されており、文様のあるものと文様のないものが確認されている。また、出土品の分析をもとに製織技法の復元も試みられている[19]。

ただし、これらは朝鮮半島の史料や出土品に基づく分類である。日本、中国、朝鮮半島で同じ「羅」という文字が使われていることだけでは、それぞれの素材、組織、製作技法や系譜が同一であるとは判断できない。

南米

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経糸を絡ませて開いた織り目を作る技法は、東アジアだけに見られるものではない。アンデス地方のプレ・インカ期、紀元前500年から紀元前300年ごろの出土織物にも、日本語の織物分類で羅に相当するとされる絡み織組織が確認されている[1]。

中国や日本の羅が主として絹糸で作られたのに対し、アンデスの例は綿糸で織られている。この素材の違いなどから、両地域で独立して発生した可能性が考えられている[1]。南米の織物が現地で「羅」と呼ばれていたのではなく、日本語の織物分類上、その組織が羅に相当すると説明されたものである。

脚注

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  1. 1 2 3 4 5 6 文化出版局 1979, p. 916.
  2. 1 2 森 2005, pp. 16–20.
  3. 1 2 3 北村 1988, p. 90.
  4. ↑ 文化出版局 1979, p. 356.
  5. ↑ 文化出版局 1979, p. 959.
  6. 1 2 3 小山 2013, p. 255.
  7. ↑ “나” (朝鮮語). 한국민족문화대백과사전. 한국학중앙연구원 (2023年11月20日). 2026年7月23日閲覧。
  8. ↑ “항라” (朝鮮語). 한국민족문화대백과사전. 한국학중앙연구원 (2023年10月13日). 2026年7月23日閲覧。
  9. ↑ “天寿国繡帳残闕”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2026年7月23日閲覧。
  10. 1 2 3 4 5 6 北村 1983, p. 73.
  11. ↑ 田中 2003, pp. 67–80.
  12. ↑ 平凡社 1941, p. 408.
  13. 1 2 3 4 近藤 2024, p. 70.
  14. ↑ “古神宝類”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2026年7月23日閲覧。
  15. ↑ “喜多川平朗”. 東文研アーカイブデータベース. 東京文化財研究所 (2014年4月14日). 2026年7月23日閲覧。
  16. ↑ “「織」を極める:人間国宝 北村武資”. 国立工芸館. 国立美術館. 2026年7月23日閲覧。
  17. ↑ 森 2005, pp. 1–5, 16–20.
  18. ↑ Ge et al. 2023.
  19. ↑ 금 2023.

参考文献

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関連項目

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