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劉洪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉洪
後漢
曲城侯相
出生 永建4年(129年)?
兗州泰山郡蒙陰県
死去 建安15年(210年)?
青州東萊郡曲城県
拼音 Liú Hóng
字 元卓
別名 算聖(尊称)
主君 桓帝→霊帝→弘農王→献帝
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劉 洪(りゅう こう、129年? - 210年?[1])は、後漢の政治家・天文学者。字は元卓。蒙陰(現在の山東省臨沂市蒙陰県)の人、後漢の北海王興の後裔。

乾象暦を編纂したことでその名が知られる。

略歴

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信篤くして学問を好み、儒学の基本教養である六芸や様々な書物について精通しており、天文学や数学知識によって物事の深淵を探求したと伝わる。

初めは校尉となっていたが、延熹年間、桓帝に召されて太史に任ぜられ、のち郎中に遷った。しばらくして常山国の長史となるも、父の喪に服すためにいったん官を辞した。

後に上計掾に選出され、郎中を拝し、謁者(中国語版)、穀城門候、会稽東部都尉などを歴任する。会稽から中央に徴されるが、京師(すなち洛陽)に至らぬうちに山陽太守に任ぜられ、そして曲城侯の相に遷り、在職中に死去した。ただし、『続漢書』律暦志注袁山松『後漢書』には曲城侯の相になった事実は記載されているものの、山陽太守の時に逝去したと記されているため[2]、経歴の錯簡がある可能性が高い。

なお『博物記』によると、彼が曲城侯の相となっていたとき、その政治や礼教は清らかで均しく、官僚や民は彼を畏敬しつつも愛したと伝わり、彼は七曜術と乾象暦を作ったが、このうち乾象暦は中国の暦法の一つである定朔法に繋がる重要な発明となった。ゆえに後世には、「算聖」とも崇拝された。

また、蔡邕とともに東観で『漢書』律暦志の補完作業にもあたっている。

乾象暦

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乾象暦の作成にあたり、劉洪は月の公転運動の不均等性を考慮した。近点月の長さを27.55336日と測定し、白道と黄道に約6度のずれがあることを発見した。これは後に闞沢が『乾象暦注』を著して誤差を修正し、三国時代に呉で終始用いられた。

280年、太康の役をもって呉を滅ぼした西晋は乾象暦を廃し、魏の明帝のとき定められた景初暦を泰始暦と改称してこれを用い、泰始暦は443年に南北朝時代の宋の何承天が元嘉暦を編纂するまでの間用いられた。

参考文献

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関連項目

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脚注

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  1. ↑ 日本大百科全書(ニッポニカ)『「劉洪」の意味・わかりやすい解説』小学館。2026年7月6日閲覧。
  2. ↑ 渡邉義浩 訳『後漢書 志[一]』、早稲田大学出版部、2023年、P110-111.

外部リンク

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