“首を斬り落とされた”殉教者は、それを両手で持って10キロ歩いて死んだ

世界には「怖い話」がこんなにある

殉教者聖ドニ

モンマルトルの丘はセーヌ川右岸に位置し、パリで一番高く(とはいえ標高130メートルにすぎないが)、市内を一望できる。19世紀後半には世界中から芸術家の卵がここへ集まり、近代美術の中心地となった。今もモンマルトルといえばピカソ、モディリアーニ、ルノワール、ユトリロなど、多くの著名な画家の記憶と結びつき、観光客に独特のロマンを感じさせている。

だがモンマルトル(Mont des Martyrs)のそもそもの意味は「殉教者の丘」。芸術よりむしろ、血と結びついていた。

〔PHOTO〕iStock

フランスがまだガリアと呼ばれ、古代ローマ帝国から「野蛮人の住む辺境の地」と見なされていた、紀元3世紀。

ドルイド教(輪廻を説き、祖先及び樹木崇拝)が主流だったこの地にキリスト教を広めるべく送り込まれた宣教師たちがいた。彼らはセーヌ川のシテ島を拠点として布教活動に励み、次第に信者を増やしてゆく。やがて問題視されて捕らわれ、司教ディオニュシウス及び司祭ルスティクスとエレウテリスの3人が、町はずれの小高い丘で斬首された(「殉教者の丘」、即すなわちモンマルトルの命名の由来)。

ディオニュシウスは後世、ヴァチカンから「聖人」に認定され、一般にはフランス語表記によるサン(=聖)・ドニ(Dionysius = Denis)と呼ばれるようになる。その死がいかなるものだったかは、こう語り継がれている。

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――聖ドニは、他の2人の処刑後、最後に首を斬り落とされた。しかし平然と立ち上がり、地面にころがった自分の首を拾い上げると両手で持ったまま歩き出す。なんと10キロ先(現パリ郊外のサン・ドニ)まで歩き続けたばかりか、その間、首はずっと説教を唱えていた。10キロといえば、普通の速度で2時間半ほど。そこで正真正銘、絶命した。

信者たちは聖ドニの倒れた地点に小さな礼拝堂を造った。13世紀になると、その礼拝堂があった場所にサン・ドニ大聖堂が建立され、それは歴代フランス王の霊廟ともなる。つまり聖ドニ伝承は、カトリック信仰とフランス王の強い絆を証明するものなのだ(フランス革命で反王党派が教会を弾圧した理由の一つがこれだ)。

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描かれた殉教者たち

斬られた首が口をきく。

オルフェウス神話がすぐ思い浮かぶ。竪琴の名手オルフェウスはバッカスの巫女らに八つ裂きにされ、首は川へ流された。その首は川を下りながら歌をうたい続け、拾われて丁寧に埋葬された後もなお、土の下から歌声が聞こえていたという。

芸術の不滅の力を知らしめる美しい物語だ。間違いなく聖人伝説に影響を与え、キリスト教の永続性と重ねられたのであろう。

だが絵となると様相が異なる。『パリ高等法院のキリスト磔刑』(作者は15世紀のアンドレ・ディープル?)が良い例だ。三連祭壇画風の大画面で、中央にイエス磔刑図が描かれ、右翼に首を持つ聖ドニが立つ。「聖人死すとも教義は死せず」の譬え話だったはずが、画家の肉体描写への執拗なこだわりによって、現実感の強いリアルな怖さが迫る。

ミトラ(司教の冠)をかぶった聖ドニの首は、疲れたような、諦めたような顔で目を閉じ、紫色の唇も閉じている。拾い上げられたばかりで、まだ説教は始まっていないようだ。足元には白骨がころがる。首を持つ両手は鮮血にまみれる。斬首された首根の断面は正確且つ克明で、骨もはっきり見えるし、いくつもの血管からは噴水もかくや、勢いよく血が噴き出す。背後で処刑人や見物人が驚愕の表情を浮かべている。

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「目の人」たる画家は、異様な、あるいは異常なものを描きたい衝動にかられるのだろう。通常なら見られない内臓や骨や血、死の前の痙攣や硬直や弛緩などを、画家の性として、どうしても描かずにおれない。好奇心ばかりでなく、破調の中に物事の本質が窺える気がするし、奇怪さや恐怖は美と同じほど魅力的な対象だからだ。

であればこそ、何世紀にもわたり、数えきれないほど多くの斬られた首が描かれ続けてきた。メドゥーサ、サロメ、ユーディト、ゴリアテ、そして斧からギロチンに至る斬首シーンの数々。聖ドニだけ取っても、どれほど多くの図像や彫像が制作されたことか。

また斬首されても歩いたといわれる殉教者は、聖ドニだけではない。中でも、わずか9歳で首を斬られた聖ユストゥスの姿は、かのルーベンスによって描かれている。ぽろんと落ちた首を両手で受け止めた、というような、少し前かがみの少年の姿は、目撃者の反応と相俟って、かなりグロテスクだ。

斬首されても少しの間、人はまだ生きている……実際に斬首を見た画家たちは、そう感じていたのかもしれない。

「首無しアン」の幽霊

首無し幽霊と聞いて多くの人が思い起こすのは、アン・ブーリンだろう。16世紀前半のイングランドに君臨した非情な絶対君主ヘンリー8世の、2番目の妃だ(後のエリザベス1世の母)。男児を産まないことで王の不興を買い、近親相姦やら魔術の使用など、当時でさえ誰も信じないようなでっちあげの罪状により、ロンドン塔で斬首された(拙著『残酷な王と悲しみの王妃』参照)。

その無念が想像できるだけに、処刑から日をおかずしてアンの幽霊が目撃され始める。彼女の生まれ育ったヒーバー城では首を抱えての徒歩姿、ロンドン塔の場合は馬車に乗り、膝に首を置いて城門へ向かって来るという。

とりわけロンドン塔では代々の門衛による目撃談が数多く、何世紀も語り継がれて半ば周知の事実とされ、20世紀になってもなおこんな噂が残されている。

――持ち場を離れた門衛が軍法会議にかけられたが、「首無しアンが出てきたため、怖くなって逃げた」と弁明して無罪となった。

いかにも幽霊好きの(そして幽霊を信じる)イギリスらしい。

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首のない騎士

一方アメリカには、スリーピー・ホロウ(「まどろみの窪地」の意)に出現する首無し騎士がいる。ワシントン・アーヴィングによる小説化、また近年のハリウッド映画化によって世界的に知られるようになった。

もともとの伝説は、アメリカ独立戦争の際にイギリス軍が雇ったドイツのヘッセン大公国傭兵の幽霊である(ヘッセン大公は贅沢好みで常に金欠病だったため、自国の兵をイギリスに大金で貸し出したのだ。さらに戦死した場合には1人あたり30ギニーをもらう契約だった)。

そのヘッセン傭兵の1人が残虐な行為の廉で(具体的には不明)首を斬られたが、騎馬幽霊となり、スリーピー・ホロウの森に出没するようになった。当然ながら頭部の欠けた姿で、片手は馬の手綱を握り、もう片方の手で自分の首をぶら下げて走っているという。運悪く出会ってしまった者に逃れる術はない。幽霊は犠牲者めがけて自分の首をボールのように投げつけ、殺す。

何とも不思議な行為ではないか。さすがアメフト発祥地?

日本の首無し幽霊譚

意外や、日本にも首無し幽霊譚がちゃんとある。しかも1人ではなく大軍で。

天正11年(1583年)、旧暦4月24日。賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、越前・北ノ庄城に火を放ち、正室お市の方(織田信長の妹)とともに自害。城はのちに、結城秀康(秀吉の養子で家康の次男)によって福井城に改築された。首無し幽霊の目撃者があらわれるのは、この頃からだ。

城下の足羽川に架かる九十九橋を、4月24日の丑三つ時(午前2時からの30
分間)、数百もの騎馬が賤ヶ岳方面へ粛々と渡ってゆく。武者全員に首がないのはまだしも、馬まで全て首がない!

橋はこの世とあの世をつなぐ異界の場、丑三つ時は怪異の起こりやすい時刻だ。たまたまこの行軍を目にした者こそ不運で、まもなく血を吐いて死んだという。中には絵師もいて、矢も楯もたまらずこの凄まじい場面を絵画化したが、仕上げて絶命。その絵を手に入れた者まで死に、ついに絵を焼くことにしたところ、延焼して近隣に死者を出した由。

今や九十九橋は鉄筋コンクリート製となり、幽霊の団体行動も忘れられようとしている。近代化のおかげか。

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ギロチン刑の歴史

近代化といえばギロチンだ。

斬首手段が剣や斧だった時代は仕損じも多く、いたずらに苦痛を長引かせるとして、機械仕掛けが採用されるようになる。すると首無し幽霊も激減した。

ギロチン(フランス語でギヨタン)は大革命直後の1792年に、フランスの正式な処刑器具となった。その法整備をしたのがジョゼフ・ギヨタンだったため、彼の名が付けられた(本人は嫌がったらしい)。

フランスは実に長くギロチンを使い続けた。大ヒットした1960年代アメリカ映画『シャレード』(監督スタンリー・ドーネン、オードリー・ヘプバーン主演)には、こんなシーンがある。パリの警視がアメリカ人容疑者に、「フランスでは死刑はギロチンだ。刃が落ちる前に首がピリピリするらしいぞ」と脅す。なんとギロチン刑は81年まで法的に続いていたのだった(実際の執行は77年が最後)。

『シャレード』の警視の台詞には、制作者側アメリカの驚愕も込められていたのではないだろうか。アメリカにとってフランスは歴史・文化面での憧れの国、なのにこんな血なまぐさい処刑を、いまだに……と。

本稿は『中野京子の西洋奇譚』(中央公論新社)収録の「斬られた首」を再編集して掲載しています。
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